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2014年12月25日 (木)

2014年12月17日(水)例会開催結果

2014年12月17日(水)例会開催結果
1. 最初に静岡市清水区在住の若杉昌敬氏が「山岡鉄舟 空白の二日間『望嶽亭・藤屋』と清水次郎長」(2000円)を出版されましたのでご紹介いたしました。
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若杉氏は鉄舟に関する博識家をもって知られる人物で、2004年(平成16年)3月に「明治維新の功労者山岡鉄舟の『危機を救った藤屋・望嶽亭』」小冊子を出版されましたが、今回はその後の研究成果をおり込み、鉄舟と西郷の駿府会談、及びその前後動静について詳細に分析し加筆されたもので、多くの方にご参考にしていただきたい鉄舟研究必読書です。
同書をご希望の方はFAXにて「静岡・山岡鉄舟会事務局 FAX 054-351-7189」までお申し込み願います。なお、詳細お問い合わせはTEL054-351-7188にご連絡願います。

 2.山崎礼子氏・・・いわき市高久第4応急仮設住宅でのコンサート結果
いつも思うのですが山崎さんのご発表には社会の実態があります。今回もそうでした。
福島第一原子力発電所から20km圏ラインのすぐ外に位置する双葉郡広野町、この町の方々が避難されている「いわき市高久第4応急仮設住宅・集会所」で山崎さんがコンサートを行いました。
広野町は2012年3月31日に避難指示が解除され、帰還を促していますが、戻ってきたのは町人口5,163人のうち1,796人(平成26年11月25日現在)、多くはいわき市の仮設住宅で暮らしています。この仮設住宅の集会所でのコンサートは、山崎さん、もう一人の歌手上原一途さん(もうすぐ80歳)、そしてピアニストの杉野さんトリオで実行。二人で14曲、会場の皆さんと一緒に7曲。山崎さんは地元の要望に応えてシャンソンに加え、美空ひばりの「川の流れのように」「愛燦燦」も歌いました。最後に全員で「花は咲く」を合唱して終了。
会場の方々の表情が変わり、92歳の女性からは「30年寿命がのびた」と感謝されたという。
「自分の命の力を使い切りたい」という生き方としての強い欲求をお持ちの山崎さんの活動は素晴らしいという一言です。これからも更なるご活躍をご期待いたします。

2. 篠塚 淳氏・・・春風館高弟・篠塚捨五郎子孫の淳氏から天井画について

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鉄舟門下の柳多元治郎を綴った「史談無刀流」(浅野サタ子著)に「明治19年7月、春風館において柳多元治郎が挑戦した終日立切二百面試合の相手は篠塚捨五郎他10名」とあるように、篠塚淳氏は春風館高弟・篠塚捨五郎の子孫であります。   
篠塚氏は鉄舟門下であった捨五郎について、その実像を究明したく、当会に関われました。いずれその研究結果をご発表いただくタイミングが到来すると思いますが、今回は、車関係のデザイナーから始まり、今は寺社関係のデザイナー部門を担当されている状況についてご披露され、例会には杉板にレーザー彫刻した天井画を持参されました。
杉板の板目を損なうというより、より一層活かしたレーザー彫刻の見事さに、参加者から様々なアイディアや提案が活発になされ、例会は「マーケティング検討会」という雰囲気となりました。篠塚氏のレーザー彫刻天井画が具現化することを期待いたします。

3.山本紀久雄の発表
現在、鉄舟から特に感化を受けた人物を検討し、その人物から鉄舟をみつめ直すことを進めていて、福島県いわき市出身の天田愚庵をとりあげています。
その愚庵が没したのは京都市伏見区です。伏見区は多くの歴史舞台として登場しますが、とりわけ脚光を浴びたのは幕末です。
なかでも広く知られているのが文久二年(1862)4月23日の伏見寺田屋騒動。薩摩藩尊皇派が薩摩藩主の父で事実上の指導者・島津久光によって鎮撫された事件。
それと寺田屋といえばもうひとつ。坂本龍馬襲撃事件も有名です。慶応2年(1866)1月23日京での薩長同盟の会談を斡旋した直後に薩摩人として寺田屋に宿泊していた坂本龍馬を、伏見奉行所が捕縛ないしは暗殺しようとした事件。その後、傷を治すため龍馬がおりょうと九州に向かったのが、日本で新婚旅行の始まりと言われています。
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伏見ではほかにも幕末維新上の大事件が伏見で発生しています。言わずと知れた「鳥羽伏見の戦い」です。(上地図で囲ったあたり) このように史跡の宝庫である伏見に、愚庵の終焉址があります。場所は地図右側に矢印したところです。
愚庵終焉址へ行こうと、JR桃山駅前から5分ほど歩くと、宮内庁の掲示板が立っていました。
「みだりに 域内に立ち入らぬこと」と書かれたこの場所は「光明天皇・大光明寺陵、崇高天皇・
大光明寺陵、後伏見天皇皇玄孫・治仁王墓」である。ということは、ここは何と北朝天皇御
陵です。南朝の宮内庁のホームページには北朝歴代天皇の御陵は掲載されていませんが、現実は
宮内庁所管です。(下写真)

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御陵から少し歩いた先、愚庵の庵址には数件の家が建ち住んでいます。中柴光泰著「アルバム愚庵とその周辺」(はましん企画)には「桃山の愚庵址には、庵の元の所有者木村喜一郎によって『愚庵終焉の地』(上写真)の石標が建てられた。書は超人的な千日回峰行を達成した『大行満』の葉上照澄。師は歌人としても知られる」とあります。
愚庵が京都に居着き、林丘寺で参禅修行を始めるまでは、戊辰戦争で生き別れとなった父母妹を探すことが目標でした。
禅僧として厳しい修行を続けた結果、世に認められるようになったが、仮に、そうでなかったならば、一生涯、父母妹を探すという情念を貫き通していたはず。
ならば、禅僧としてひとつの区切りをつけた段階において、原点回帰、父母妹と住んだいわきに庵を設けるという選択肢もあり、最期はいわきの地で示寂(じじゃく)(注・僧が死ぬこと)するという道もあったのではないか。その方が全国を遍歴した愚庵の最期としてはふさわしいのではないか。
伏見桃山を訪ねて、このような疑問に至りましたが、これについては愚庵という人物検討をさらに進めていくことで推論を重ねたいと思います。

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