前号で、江戸には博徒親分は存在しなかった。と述べたが、火消し職で、大侠客の新門辰五郎がいたのではないかという疑問を持たれる読者もおられたと思う。
確かに、新門辰五郎は清水次郎長と兄弟分の盃を明治二年(1869)に清水で交わしているので、親分同士であると認識されるかもしれない。
だが、江戸の町火消頭領としての新門辰五郎は「親方」呼ばれていた。次郎長は「親分」と言う。「親方」と「親分」では社会的ポジションに大きな差がある。
「親方」というものは、もともと職人の世界である。ドイツ語のマイスターMeisterに当たり、徒弟制度の職人の最上位にあって親方・師匠と称せられる位置づけで、語源的には「御屋形」から来ている。
武家の社会は後期には御屋敷になったが、戦国中期までは「御屋形」であった。貴族の住居が屋形であり、武家も出頭すると屋形住まいになる。御屋形様とは家人を多く持つ者への尊称となって、これから「親方」に変化した。
また、社会に認められる職人となるには、技術をもつ「親方」のところに住みこみ、修練し腕を磨き、身につけさせてもらうのであるから、「親方」という尊称になる。
一方、「親分」に対する「子分」とは、親から分け前をあずかる子の分際であって、そこには、技術の習得はなく、分け前を受ける主従の関係であるから、親分の命令があれば、命を捨て、人殺しもするというヤクザな関係が親分・子分であるから、明らかに技能を身につけ磨くための師弟という間柄ではない。
したがって、成功する「親方」には人徳、人を惹きつける力、人間的な尊敬度が必要であった。
次郎長と兄弟分の盃を交わした当時の辰五郎は六十九歳、次郎長は五十歳。年齢から次郎長は弟分となったが、それだけでなく、辰五郎には兄貴分となるだけの背景があった。
辰五郎は、眉目秀麗、老いてもきりっとした容貌、日常の生活費も潤沢で、人間に風格・貫禄を備えていた上に、十五将軍慶喜との特別な関係があった。
何故に、一介の町火消の親方辰五郎が、将軍慶喜との結びつきがなされたのか。
話は文久三年(1863)正月五日に遡る、将軍後見職の一橋慶喜は、十四代将軍家茂が同年三月に上洛する前に京都にむかった。
この際、慶喜は江戸女を側室として望み、用人が知り合いの辰五郎に頼み、急なことであったので、自分の娘のお芳を差し出し、慶喜はお芳を気に入り、そこから辰五郎との関係ができたという。
他説として、上野寛永寺別当・覚王院義観の仲介で慶喜と知り合ったともいわれているが、慶喜が元治元年(1864)三月将軍後見職を解かれ、禁裏御守衛総督に任じられ京都へ再上洛すると、辰五郎は慶喜の命で上洛、火消や二条城の警備などを行い、慶喜に犬馬の労をとっている。
慶応四年(1868)一月、鳥羽伏見の戦いに敗れ、慶喜が大坂から江戸へ逃れた際には、大坂城から持ち出すのを忘れて残されたままになっていた、家康以来の金扇の大馬印を取り戻し、東海道を下って無事送り届けている。
その後も、慶喜が謹慎した上野寛永寺の警護に当たり、慶喜が水戸・駿府(静岡)と移り住み、駿府では慶喜が謹慎住まいとした宝台院に近い常光寺を宿所としている。
この辰五郎と次郎長の兄弟分の盃仲立ちをとったのは、清水の豪商回漕問屋の松本屋平右衛門であった。松本屋は何くれとなく次郎長の面倒を見ていたが、前将軍である慶喜をバックに持つ辰五郎と兄弟分となれば、次郎長に箔がつくだろうという意図である。
この時の状況が清水の地元で次のように今でも語り継がれているという。(「誰も書かなかった次郎長」江崎惇)
「清水市(現・静岡市清水区)本町の保田七蔵という老人が、その時の模様を人に語ったが、それが語りつがれている。七蔵老人は当時十二歳で、松本屋に奉公していた。十二月もおしつまったある日、主人の平右衛門に呼ばれて、お仕着せの着物を着せられ、こう言われた。
『今日は静岡から新門の辰五郎という、大変えらい親分がここへ来なさる。上町の次郎長さんとここで会うのだ。お給仕は女や何かより子供がいいから、お前
にさせる。粗相のないようにするのだよ』
辰五郎には慶喜の家来の武士がつき添ってきた。奥の定めの席に着くと、間もなく次郎長がテクテク歩いてきたが、木綿の着流しであった。
『おいおい、なぜ、羽織くらい着て来ないのか』
と問うと、次郎長は答える。
『これしかねえ』
苦笑した平右衛門は、大急ぎで自分の羽織を着せて座敷に出させた。
七蔵がおそるおそる三方に乗せた土器と銚子を運び、そこで次郎長と新門辰五郎は兄弟分の盃を交わしたのである。
『えれえ人は新門の親方だ』
それから次郎長は、会う人ごとにほめたという」
もうひとつ前号への指摘として、江戸に博徒親分がいたのではないかという疑問もあるかもしれない。
それは小金井小次郎のことである。関東一円に三千人もの子分をかかえる大親分と称され、辰五郎も小次郎と兄弟分であったから、江戸にも勢力網を張っていたのではないか。つまり、小次郎は江戸の親分といえるのではないかという指摘である。
さらに、小次郎はその名の通り小金井出身であり、小金井は東京都であるから江戸の博徒ではないかと思われるかもしれない。
だが、江戸の地名で呼ばれる地域は、江戸御府内ともいわれ、その範囲は時期により、幕府部局により異なっていたが、文政元年(1818)に町奉行の支配に属した範囲として、東は亀戸・小名木村辺、西は角筈村・代々木辺、南は上大崎村・南品川町辺、北は上尾久・下板橋村辺の内側と定められていたので、当然に小金井は江戸に含まれな。
ということで小次郎は江戸の博徒親分とはいえないことを追加説明したい。
さて、弘化二年(1845)正月二日、次郎長二十六歳の時。武勇伝とは反対のお粗末な争いの結果、満身創痍となって戸板に載せられ、森の五郎のもとへ帰ったことは前号で述べた。
それから十年、次郎長は韮山代官が要注意人物としてマークするまでの存在なっていた。それを証明する文書が戸羽山瀚編「清水次郎長」に掲載されている。
駿州無宿次郎長事長五郎風聞探索之趣申上候書付
駿州清水湊
無宿 長五郎
卯三十六歳
所持品 脇差 壱腰(中略)
是は三州無宿冶助所持罷在(まかりあり)候を借受、帯、歩行、御油宿林八方江質入いたし候ものに御座候、右之者親名前等不相(あいおぼえ)覚(ず)、住所不定、所々徘徊罷在、去寅十月中、尾洲鳴海辺に於て武州無宿金五郎と申者と出会相成候後は、近所所々押歩(中略・・・五名の名が書かれている)六人連、問屋場表人足部屋に而(て)大勢相集、博奕致居候様子窺(うかがい) 罷在候折柄、案之如く博奕致居候に付、召捕方手配有之(これあり)候趣、感付、逃去、其儘(そのまま)行(ゆく)衛(え)不相知(あいしれず)、其後及穿鑿(せんさくにおよび)候共、難相知(あいしれがたく)御座候、依之(これにより)、此段申上候、以上
卯五月九日(注 安政二年) 平岡熊太郎
手代
月岡十一郎
韮山
御役所
山田頼助様
この文書の意味は、駿河清水港の無宿次郎長が、三河寺津無宿冶助から借りた脇差を、東海道五十三次の三十五番目の宿場御油宿(愛知県豊川市)の質屋に入れ、東海道五十三次の四十番目の宿場尾張鳴海宿(愛知県名古屋市緑区)まで無宿者六人連れで堂々とわが者顔で歩き、賭場に出入りしては博打三昧、召し捕るよう手配したが行方をくらましたままであるというもの。いかにも東海遊侠伝に書かれた内容と符合する行状ぶりである。
この文書を「清水次郎長」(高橋敏)が分析しているので紹介する。
「宛先の『韮山御役所山田頼助』は韮山代官江川太郎左衛門の手代で実在を確認できる。平岡熊太郎とはおそらく、遠州・三河の天領六万石余を管轄するため遠州中泉に置かれた中泉代官で、手代月岡十一郎は三河の天領二万七千石を担当した赤坂宿に分置された出張陣屋詰の手代と考えるのが自然である。
文書成立の経緯は、中泉代官所赤坂出張陣屋手代が、韮山代官所の手代に探索等を要請したものでなく、反対に問い合わせに答える形式である。
韮山代官に次郎長を捕捉する必要が生じ、三河で暗躍する次郎長の風聞探索を代官所手代同士の連携で照会したのでないか。
年次が十二支の卯のみで、差出人の『平岡熊太郎手代月岡十一郎』は所属官職名の代官所名も敬称もなく、公文書としては私的側面が強い。
脇差を貸したとされる寺津の冶助は嘉永二年(1849)に亡くなり、弟の間之助が一家を継承している。戸羽山は『卯』としか記されていない年次を次郎長の『卯三十六歳』から注書きのように安政二年(1855)と推定している。
次郎長はこの十年の間に、韮山代官が風聞探索の情報を必要とするほどの要注意人物に成長していたのである。次郎長の活動が世襲の韮山代官が支配する伊豆・東駿河地方にまで拡大、浸食し始めたことを示している」
これから分かるのは、次郎長は博徒世界で順調に顔役となる道、親分へと歩いていたことである。
ここで改めて考えてみると、博徒親分の実力とは、親方から伝授される技術・技能を競うものではなく、喧嘩・出入りに勝つ武力、それと子分を集められる財力を持つことである。さらに加えると、絶えず繰り返される闘いの中で、離合集散の無宿者達を、如何に系列化でき、リーダーシップをとっていくかであろう。
二十三歳の次郎長が清水を出奔したのは、賭場での喧嘩から、咄嗟的に相手を巴川に投げ込んでしまった、という先のことを考えない行動から無宿者になったわけで、どうみても海道一の親分を目的として、計画的になされた戦略的思考と行動力ではない。
しかしながら、次郎長の実態行動の結果は、表社会とは違う複雑で奇奇怪怪な裏の世界で、いくつもの危ない状況・場面を巧みに切り抜け、駆け抜け、有力なライバルを倒し、海道一の親分に伸し成り上がったというのが事実で、それを東海遊侠伝が語っている。
では、三河寺津と清水を根城に、伊豆・遠江・甲斐・信濃・尾張・伊勢の八カ国、それと上州・越後・加賀・四国琴平へも足を延ばしている旅から旅の股旅暮らしの中で、次郎長が売り出し始めた切っ掛けはいつだったのか。
これを検討するには、東海遊侠伝に書かれている次郎長一家の行動を洗い出してみる必要がある。それを再び「清水次郎長」(高橋敏)が整理した十事件で紹介したい。各事件の最後に示した数字は関わった氏名が分かる子分数で、カッコ内は名前不詳含む人数である。
① 弘化二年(1845)の庵原川河原での甲州津向文吉と駿州和田島太右衛門との出入り仲裁 3人
② 安政二年(1855)の尾張保下田久六の支援 4人(17)
③ 安政六年(1859)の金毘羅参詣 7人(11)
④ 安政六年(1859)の保下田久六殺害 3人
⑤ 文久元年(1861)の石松の怨みを晴らした都田吉兵衛殺害 6人
⑥ 文久元年(1861)東海道菊川での下田金平との手打ち式 11人
⑦ 文久三年(1863)の黒駒勝蔵との天竜川を挟んでの対陣 22人(24)
⑧ 元治元年(1864)の勝蔵滞在先へ不意打ちをかました闘い 30人
⑨ 慶応二年(1866)の伊勢荒神山の出入り 19人(22)
⑩ 慶応二年(1866)伊勢古市丹波屋伝兵衛との出入りの際の出陣 25人
最初の①庵原川河原での仲裁時、次郎長は二十六歳、従った子分はたったの三人、大政始め名だたる子分はいない。
十年後の三十六歳、②尾張保下田久六の支援では「家人政五郎、常吉、鶴吉、力蔵等、十七人ヲ率イテ至ル」とあり、全体で十七人に増えている。前述した同年の韮山代官風聞探索書が示すように、次郎長「卯三十六歳」で要注意人物となるほどのさばってきている。
女房お蝶を名古屋で亡くし、保下田久六を殺害すべく③の金毘羅参詣は十一人。これを三人に絞って、大政・石松・八五郎を伴って久六を斬り殺したのが④。
石松を殺した張本人の都田吉兵衛殺害した⑤の時は子分六人。この時点で短身の小政が加わり、最強コンビの大政・小政ができあがった。
ところで、この連載は山岡鉄舟であって次郎長物語ではない。鉄舟が次郎長にどのようにして影響を与え、如何に感化させたかについて検討するために、次郎長をしばらく検討しているのである。
昭和二年(1927)北原白秋が「唄はちやっきりぶし 男は次郎長」と謳い、樋口一葉「一葉日記」の明治26年(1893)6月18日に「侠客駿河の次郎長死亡。本日葬儀。会するもの千余名。上武甲の三州より博徒の頭だちたるもの会する五百名と聞えたり」と書かれ、清水・梅陰寺にある次郎長銅像背面に次のように刻印されている。
「なる程、彼が前半生の所行に議すべき何ものかがあったかも知れないが併し之を是非するからには時代の背景と當時の世相と云ふ事をも考えてやらねばならぬ。よし、仮に彼に斯うした忌しい暗黒面があったとしても之を償うて尚餘りある傳ふべき美事、彰すべき功績が鮮くないのである」 昭和戊辰(昭和三年)精神満腹会 平野光雄
次郎長は鉄舟によって、江戸時代と明治では、別人格とも評価される程の大変身を成し遂げている。現代に例えれば、あり得ない話だが、日本一の広域暴力団が、ある一人の人物の感化によって、一斉に社会福祉協力団体に変身したというようなものであろう。
このように大変身を遂げた鉄舟の影響、その要因についてお伝えするには、もう少し並の博徒親分ではない次郎長の実態を検討してからにしたい。
そこで次号でも東海遊侠伝から述べるが、次郎長が博徒渡世の世界で武闘派として鳴り響き確立した時期は、安政六年(1859)の保下田久六殺害から、文久元年(1861)の石松の怨みを晴らした都田吉兵衛殺害の三年間であった。
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