清水を出奔した次郎長は三河寺津の冶助親分のところに潜伏した。寺津は沼津藩(水野氏六万石)支配飛び地の大浜陣屋支配(五千石)で、行政支配が細切れ錯綜しているが、三河五湊のひとつで海運・漁業が盛んな土地。ということは支配が緩慢で、経済が活発であるから、博徒たちが根を下ろし一家を構えるのに最適の場所であった。
先日、この愛知県西尾市寺津町を訪ねてみた。実際に行ってみると、寺津という地名の由来が分かる。字のごとく寺と港(津)の間に位置している。東北地区に八幡神社、妙光寺と養国寺があり、一方に寺津港があるように、信仰と漁業の地区であり、町の真ん中を247号線道路が走っている。
247号線の傍には、三河一色産のウナギを売っている鮮魚店、西尾名産の海苔椎茸の店、かつら屋、酒屋、かつては栄えたであろう飲食店や、博打場であったと思われるような建物も見られる。だが、今は多くが扉を閉ざしたままになっている。
道路を曲がって住宅路地に入ると「標高2m」「標高0.5m」などの表示が明示され、昭和34年の伊勢湾台風被害の影響が分かる。港の突堤には「村中・海上安全」の地蔵さん、大正14年建立とあり、発起人は漁業組合と刻まれ、供えられた生花が暑い夏の陽ざしに光っていて、そこから先の一帯が寺津港で漁船が係留されている。
誰もいないと思ったが、一艘のモーターボートに釣り人らしき男性がいる。声をかけてみた。
「この辺りは魚が今でも多く採れるのですか」
「たいして採れないね。漁業としては成り立たないが、この海はアサリの産地として有名だよ」
「そうなんですか。アサリですか」
「日本全体のアサリの60%はここ愛知県産だよ」
「それは知りませんでした。ところで、寺津の間之助親分を知っていますか」
「有名でよく知っているよ」
「間之助親分の家は今でものこっていますか」
「間之助親分の直系の人が、八幡神社を曲がったところに住んでいるよ。時折、東京から本物のやくざが挨拶に来るらしいよ」
「へぇー。ちょっと怖いですね。お会いするのは難しいですかね・・・」
「そんなことはないだろう。真面目な人だから、ちゃんと会いたいわけを話せば問題ないと思うよ」
ここで尋ねた寺津の間之助親分とは、次郎長が草鞋を脱いだ寺津の冶助親分の弟。冶助が嘉永二年(1849)に亡くなり、その後は間之助が一家を継承し、大浜陣屋から十手を預かり、海運業でも莫大な資産を手に入れ、三河一の大親分と称された人物。勿論、次郎長とは兄弟分の盃をかわし、生涯深く交わり、当時は間之助の方が有名で、地元銘菓として間之助羊羹(小松屋製菓舗750円)となっているほどの人気で、菩提寺は養国寺である。
養国寺に行くと墓所にお墓がたくさんある。どこかなと探していると、ちょうど若いお坊さんが通りかかったので尋ねてみる。「ハイ、こちらです」とすぐに連れて行ってくれる。確かに墓側面に「俗妙 藤村間之助」と刻まれ、反対側に明治十年没とある。
次に、間之助親分直系のお宅に伺おうとしたが、住所も名前も分からない。そこで港近くの西三河漁協西尾支所を訪ねてみた。意外に立派な建物である。そうか、アサリの全国シェア60%だから経営は順調なのだろうと思いつつ、ドアを開け入り、事務員の若い女性に「間之助親分直系の方のご自宅はどこですか」と聞くと、所長に聞いてみますと奥に入っていき、「どうぞ、所長がお会いします」とのこと。
立派な広い所長室に入ると、漁師さんらしい陽に焼け精悍な雰囲気の所長が「私も間之助の一族ですよ」と言い、「今、真之介さんがいるかどうか電話してみる」と携帯で確認。
「会うそうです」
「お宅の場所はどこでしょうか」
「地図を描いて上げますね」
ということで藤村真之介氏(82歳)のお宅、八幡神社の脇路脇地を入った角地、南側の庭に面した玄関のインターフォンを押し、
「山岡鉄舟研究会の者で、次郎長との関連をお伺いしたくお邪魔いたしました」
「どうぞお上がりください」
入ると、少し体が不自由な様子に見えるが、大柄の体を椅子へ保たせたまま笑顔で手招きしてくれる。今は温顔だが、かつては目が鋭かっただろうと思う藤村真之介氏に、早速お尋ねしてみた。
「間之助親分とはどういう関係ですか」
「間之助から四代目に当たります」
「間之助親分はどういう人だったのでしょう」
「名字帯刀を許された十手取縄で、寺津海岸一帯の権利を持っていまして、海運業でも財をなしたようですが、跡目を継いだ二代目が博打で家財を無くし、三代目、私の父ですが、これは的屋で一年中旅回り、随分遊んだようで、家屋敷を失いました。この家と土地は私が買い戻したのですよ」と和やかに淡々と語る。
「次郎長は五回にわたって寺津に来ていますね。三代目お蝶は西尾から出ていますよ」とも語ってくれたように、次郎長は清水におれないような事態になると、たいがい寺津の間之助のところに逃げ込んだという。
この辺りを「次郎長とその周辺」(増田知哉著)は次のように説明している。
「間之助は、姓を『藤村』といい、体重、二十何貫という巨漢であった。彼の没後の話だが、旅回りの芝居が寺津にきて、間之助の芝居をやったことがあった。そのとき、優形の役者が間之助に扮したのを見て
『間之さんは、そんなやせっぽちじゃァなかったぞ!』
と、騒ぎ立てたので、芝居が出来なくなってしまった――という話が、今でも寺津で語りぐさになっている。
間之助の家は、いまの町名でいえば西尾市寺津町十三間続で、現在、そこに間之助の子孫が住んでいる。
藤村家の前の道は、いまは幅二メートルばかりの狭い道だが、これが旧寺津街道である。
この街道に面した間之助の家は、現在の藤村家よりもはるかに広大で、屋敷のまわりに無花果の木が植えてあったそうである。そのころの家は、立派な檜造りの総二階で、二階の部屋にどんでん返しの仕掛けがあり、万一のときには、そこから横に二階建ての物置に抜け、『間之助新田』と呼ばれた開墾地へ逃げられるようになっていたという。
次郎長の隠れ家というのは、この開墾地の中にあったらしくて、子舟で、寺津港へ出られるようになっていたそうである。が、いまは、この開墾地も埋め立てられてしまって、工場が建っている。
藤村家は、間之助の後を、その実子の定五郎がついだ。定五郎は、大正九年一月二十六日に死亡したが、堅気で、鰻や焼きハゼを売るのが商売であった。
だが、その長男の牛五郎は、祖父・間之助の名声にあこがれてか、背中に竜の彫りものまで入れて、博奕打ちになった。
そのため、家は、弟の幸一郎がついだ」
この内容、今回の藤村真之介氏からお聞きしたものと少し違いがあるが、いずれにしても間之助から四代目の真之介氏は真面目な市民として、間之助が住んでいた屋敷跡地に現在お住まいである。
次郎長は、天保十三年(1842)三河の地に逃げ込んで以来、五回も三河に世話になっているのであるから、困ったら間之助のところへという行動を幕末まで続けていたわけで、間之助は次郎長の最大の庇護者であった。
なお、次郎長の三代目お蝶は、藤村真之介氏のお話の通り、三河西尾藩の侍、篠崎東吉の娘で、同藩の侍と一度結婚して、清太郎という一子をもうけたが、離婚し、清太郎は後に次郎長の家に引き取られるが、次郎長の跡目はついでいない。
なお、現在、日経新聞朝刊の諸田玲子氏による「波止場浪漫」では、この清太郎が不肖の息子として度々登場している。
さて、三河での次郎長は何をしていたか。「東海遊侠伝」に次のように書かれている。
「長五(次郎長)ハ遂ニ去テ武一ノ門ニ入ル。是レヨリ長五昼ハ撃剣ヲ学ビ、夜ハ賭博ヲ事トシ」
次郎長は、裏街道の無宿渡世、長脇差を差して、それに命を託しているわけだから「やくざは強くなければならない」という強い信念を持ち、吉良の博徒親分である備前浪士・小川武一の弟子となり、昼は猛稽古に励んだと「東海遊侠伝」の記述である。
後年、次郎長が鉄舟から「精神満腹」の大額を書いてもらい、「山岡先生から度胸免状をもらった」と、生涯自慢していたが、その基本は武一から受けた剣法にあった。
武一は次郎長にやくざを相手にした剣法を教えた。即ち、斬りあったら相手の弱点を見つけ、そこをすかさず突くか斬るという、いわば喧嘩剣法であり、これを二年間三河で身につけたことが、後年、次郎長一家を武闘派集団という異名にしたことにつながっている。
明治二十三年(1890)頃七十一歳の次郎長を、後の海軍中将小笠原長生と、日露戦争旅順港閉塞作戦で戦死し海軍軍神第一号となった広瀬中佐、共に少尉時代であったが、清水港の汽船宿兼割烹「末広」へ訪ねた。
「時に親分、人を斬る時の気持ちはどんなものですか」
「斬り合いは命がけだから、難しいように思うが、実際やってみると、斬るのはわけもない。互いに刀を構える。こっちがじっとしていると、やがて向こうから斬ってくる。それを静かにかわしてさっと斬る。相手が倒れる。それだけだ」
「叩きあいの時などは、相手の踝を狙って殴りつけるとよい。体の上の方はどんなに厳重にしていても、足とくるとたかだか足袋に草鞋ぐらいなものだ。踝あたりをやっつけると倒れてしまう。斬り合いでも殴り合いでも、気一つで勝負がつく」
このように昼は喧嘩剣法の修得・鍛練、夜になると付近の賭場を渡り歩く。
「弱気ヲ扶(たす)ケ、強気ヲ挫キ、侠声日ニ振フ。少壮ノ輩、来リ属スル者多シ。武一冶助ノ子弟モ、亦皆推テ兄ト称ス」
この当時の次郎長を「東海遊侠伝」はこのように記述しているが、果たしてどうなのか。
確かに、夜になると付近の賭場を歩きまわり、持ち前の気っぷよさを出すので、冶助や武一の子分から兄貴兄貴と建てられるようにはなった。しかし、本来、無頼の博打打ちであるから、一般の我々とは異なる行動であることを承知しておきたい。
「東海遊侠伝」に書かれた次郎長の日常、それを整理してみると、ひとつは、素人相手の博打で渥美郡堀切村の「富豪某」へつくった星に対し、金額が百八十両と大金であっためか自宅まで押しかけ清算を迫っている。
現代の日本では博打は禁じられている。江戸時代も同様で、江戸幕府は慶長以来、度々博打禁止のお触れを頻繁といってもよいほど出しているが博打は止まらない。
考えてみると、人間の性(さが)としてよくいわれるのが「飲む」「打つ」「買う」である。「酒」と「博打」と「女」だが、この中でのめり込むと博打が一番止め難い。酒と女は年齢とともに自然に盛んでなくなっていくのが普通だ。だが、人間の射倖心はキリがない。現在の競輪、競馬、競艇や株相場から宝くじまで、全て博打。だが、これらは公認されているので罪悪意識はないが、いずれも射倖心から飛びつくものであろう。その中で博徒は博打を職業にするのであるから、その日常は我々とは大違いである。
「東海遊侠伝」の次の次郎長は、三河三好の吉左衛門に唆されて、喧嘩状態であった美濃国恵那郡岩村村の七蔵の暗殺を頼まれ、請け負い、大熊ら三人と遠征、七蔵が留守で、女房から
「如今我夫、出テ外ニ在リ。日ナラズ、将ニ帰ラントス。野味山菜、賓ニ饗スル」
という、開き直った慇懃奉承(いんぎんほうしょう)のこもった一泊の接遇に合い、翻意し逃げ帰っている。
もう一例は、遠州森の親分五郎の食客武蘇(ぶそ)新(しん)が馬方部屋の博打で、馬定という馬方へ星をつくり、その回収に川崎港まで出かけ、交渉がもつれて馬定を漁師の櫂で殴打し、何事かと出てきた隣人の主婦まで武蘇新が殴って逃走、屈強な漁師に追われ、衆寡敵せず殴られ蹴られ捕えられてしまう。
後は死を待つのみの絶体絶命の窮地に、運よく通りかかった旧知の駿府の鯉市の口利きで支配掛川藩の手に渡され、九死に一生を得る。
これが弘化二年(1845)正月二日、次郎長二十六歳の時。武勇伝とは反対のお粗末な行動であり、満身創痍の体を戸板に載せられて、森の五郎のもとへ帰った。
次郎長がようやく歩けるようになって、駕籠で寺津まで戻り療養に専念したわけだが、これらの事例を見ると放縦無頼の生活振りであったと分かり、この状況は子供時代に喧嘩三昧、乱暴者であった次郎長そのままである。
だが、ここでも分かることは、博徒ネットワークの広さである。簡単に隣国へ移動できるのであって、こういう支配体制が放漫なところに博徒が輩出していることが分かる。
吉良の仁吉で有名な慶応二年(1866)の伊勢荒神山の闘い。争われた荒神山観音寺賭場は高宮村にあり、大部分が神戸藩の所領であるが、一部に亀山藩の飛び地もあり、近くに東海道五十三次の四十五番庄野宿と石薬師宿があって、ここは幕府領であるから、神戸藩が博徒の手入れをすると亀山領へ、亀山藩が手入れすると庄野宿へ逃げるように、取り締まりの真空地帯となって、全国の博徒が集まる賭場としては絶好の条件で、寺銭も莫大であったので、安濃徳が神戸の長吉から奪わんとしたように、博徒が活躍し動き回れるには、行政支配の錯綜状態が前提に必要であった。
では、江戸はどうだったのか。江戸は徳川将軍のお膝元。その治安は町奉行、町年寄、
町名主、大家、その大家が五人組を組織し、その他に町火消という本職は鳶がいて、消防以外にも雑用を請け負うなどの守るシステムがあって、人口が多いので犯罪も多発し、博打も行われていたが、博徒親分は存在しなかった。
つまり、博徒親分という存在の発生は、権力支配網の脆弱さから生じているわけであるが、そのような地域の中で、時間と共に次郎長は、韮山代官が要注意人物としてマークするまでの存在なっていた。それを証明する公文書を次号で紹介する。
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