鉄舟が影響を与えた人物 東海遊侠伝・・・其の五
次郎長が海道一の大親分になった背景には、本人の性格や行動パターンが影響している。
次郎長は幼少のころから餓鬼大将であり、人の下になることを嫌い、無頼の本性を持ち、天保十二年(1841)二十二歳の時に、太く短いオレの人生、面白おかしく思いのまま、自分流に生きればよいと、博徒へ駆出した。
この当時、清水では紺久親分が勢力を張っていた。当然にそこの鉄火場に次郎長は頻繁に顔を出す。金払いもよいので紺久親分から受けがよいが、餓鬼大将性格であるから、盃をもらって子分なる気持ちは毛頭ない。ここで子分なっていたとしたら、後の海道一の大親分になっていない。
翌年二十三歳の六月に、賭場で陰(イン)智機(チキ)を摘発したことから喧嘩になり、沼津の佐平と富五郎に傷を負わせ、二人を巴川に投げ込み、殺してしまったと思いこみ、土地を売る(他郷に逃げる)決意を固めた。
次郎長は元々ガッチリした体で力もあり、その上子供時代から喧嘩好き、かっとなると見境がなく、死ぬ危険を考えずに喧嘩相手を川に投げ込む。このあたりはあまり先のことを考えないタイプかと思うが、意外にそうではなく、将来に向かって手を打っている。
それは、清水を脱出するに当っての行動を見ればわかる。最初に行ったことは、妻おきわとの離別で、おきわも次郎長については半ば諦めていたので里方へ帰り、次は、米穀商甲田屋の家督と財産の処理である。甲田屋の家督を実姉とみ・安五郎夫婦に譲るべく申し出たが、「それは困る。お前から貰うと後の関わりが怖い」と今までの次郎長の所業から後難を恐れて断られた。
次郎長は「そこまで俺は世間様で嫌われているのか」と一瞬がっくりしたが、そこはオポチュニスト。その場の状況で行動を決めて行くタイプで切り替えが速い。「それではこうしたらどうだろう。俺は無宿者になって、今日限り、親子兄弟の縁を切るから、関係が一切無くなる。だから家督と家屋敷を引き受けてもらえないか」と、譲ったからは後々問題を起すことは一切しないと安心させる。
その上で「時々来テ義父ノ霊(れい)牌(はい)ニ拝謝スルコトヲ得ント欲スルナリ」(東海遊侠伝)とも言い、生きている間は仏壇へのお参りだけはさせてもらいたいと懇願した。これは帰郷の余地を残す含みである。
このあたりの次郎長の動きは、沈着冷静である。普通に考えると、人を殺めた場合、逃げるのに懸命で後始末などはしなくて、残された関係者に迷惑をかけるのが一般的だろう。だが、次郎長は甲田屋の家督と財産の処理について的確であった。
加えて、古証文数百通、価額三千余金の者を出し、「今之ヲ焚却セバ」と、証文を相続から外し焼き捨て、借金の棒引きをしたと「東海遊侠伝」に記されている。
これに関して「星の貸借でいざこざを起している当時の次郎長に、そんな財産(証文)が残されていたとは、到底思えない」(「真説清水次郎長」江崎惇)という見解もあるが、借金の棒引きは一種の徳政で、世間の風評が上がるはず。このあたりもいずれ清水に戻り、一家を張ろうとする場合に役立つであろうと一瞬の間に考えたのではないか。
次郎長は用心深い性格も併せ持っていた。明治二年(1869)五月、妻の二代目お蝶が久能新番組の小暮半次郎に斬られて死に、その年の暮に三代目お蝶を迎えた。三代目は三河西尾藩の侍の娘で、同藩の侍と一度結婚したが別れ、次郎長と結ばれるのであるが、これを機会に借家から自分の生家、父親の高木三右衛門家の裏に、二階建ての家を新築し引っ越しした。
次郎長は二階が好きであった。そのわけは、敵の襲撃に備えて、自分は必ず二階に寝る。一階は物置とし、火をつけられても大丈夫なように土蔵つくりの頑丈なものにしたが、この物置の上、二階との間に隠し部屋をつくって、ここへは高木家の二階からも行けるようにしていた。ということは、誰にも見られず出入りできるわけで、いつ殴り込みをかけられるか分からないので、用心に用心を重ねていたのである。
この隠し部屋について、現在、日経新聞朝刊で「波止場浪漫」を連載している諸田玲子氏、さすがに次郎長を研究済みで、追っ手から隠れる屋根裏部屋について触れている。
この用心深さが次郎長の特性である。清水を出奔せざるを得なくなり、無宿者に落ちるという苦しい状況の中でも、いずれ戻ってきたときのことを考え、風評を上げるべく手を講じていく。なかなかできない離れ業だと思う。
次郎長の生涯は「逃げの次郎長」と言われるほどだった。喧嘩(でいり)になっても、形勢不利とみれば、さっと逃げる。一対一で斬り合いになっても、相手が強いとみれば、間髪を入れず刀を引く。命のやりとりをする修羅場で、大勢を判断し、鋭く行動し、逃げるということは相当の度胸が据わっていないと出来ないことだろう。
また、もめごとでも、頭を下げなければならない、と見極めると、恥も外聞もなく謝ってしまう。頭の回転が速く、要領もよいのであるが、これも度胸がよくなければ、こういう態度はとれない。
これはオポチュニスト・日和見主義ともいえるが、その場の状況で行動を決めて行くタイプであって、情勢判断力に優れているのである。
後年、次郎長が鉄舟に次のように語っている。
「斬り合うとき、刀の切っ先で相手の刀を押してみて、相手の刀が右から振れば左に、左から振れば右にと、柳に風のように動けば、こいつは手強いとみて、すばやく刀を引いて逃げてしまう。それと反対に俺の刀に逆らって跳ね返すようなら、間髪を入れず叩き斬ってしまう」
じっと聞いていた鉄舟は、
「真剣勝負の際に、そこまでのゆとりがあれば、既に極意に達している」と感じ入り、「精神満腹」の大額を書いて次郎長に与えた。
次郎長は大いに喜び「山岡先生から度胸免状をもらった」と、生涯自慢していたという。この「精神満腹」の大額は、現在、清水の梅陰寺の「清水次郎長資料館」に飾られているが、戦前にはこの度胸免状が縁となって「精神満腹会」が結成され海軍大将の八代六郎が会長になっている。
さて、前号の③清水出奔以後を続けたい。
④ 三河へ
次郎長が旅に出ようとしているところに、江尻の大熊(熊五郎)と庵原(いはら)の広吉がやってきて、一緒に連れて行ってくれという。仲間のできた次郎長は喜び、一行三人は上方に向かった。
大井川を渡り、天竜川を渡って、三河に入り、藤川宿(愛知県岡崎市)の宿万屋に入った。この時、三人とも一文もなく宿賃が払えない。三人額を寄せて考えた結果は、一宿一飯の博徒・無宿相互扶助ネットワークに頼ることであった。
宿場では必ず人足部屋で賭場が開かれている。そこの頭に仁義を切れば草鞋銭が貰える。三人で人足部屋に行こうとすると、夜逃げではないかと気配を察知した万屋の主人が、袂をしっかりつかんで離さない。仕方ないので広吉一人を人質に残し、大熊と二人で訪れると、部屋頭の片権が、旅慣れていない二人に八百文を渡してくれ、これで宿賃を支払い、ようやく岡崎まで辿りついたが、もう路銀は僅かしかない。
「このまま文なしで旅しても仕方ない。このあたりのえらい親分のところにころがりこんで、落ちつこうじゃねえか」と、路傍の茶店の主人に「この辺の侠客でえらいのは誰かね」と尋ねた。
「そりぁ、吉良の武一が一番でしょう」
「その親分は、どんな人かね」
「備前の浪士で、姓が小川、背が高く肝っ玉が大きく押し出しも立派、剣術が達者で、門弟が数十人いますよ」
次郎長はわが意を得たりと、武一親分のところへ行こうと、西尾(愛知県西尾市)に入った。だが、このまま武一親分のところへ行かないのが次郎長の用心深い性格。次に休んだ茶店でもう一度武一親分のことを聞くと、岡崎の茶店と同じ答えが返ってきたので、次の鎌を掛ける。
「それでは武一親分の右に出る親分はいないのか」
「そんなことはない。いますよ」と、遠くを指さして言う。
「あの一本松のあるところが矢田です。そこから半里ばかり行くと寺津(愛知県西尾市)です。その寺津の六角山という人の息子に、今天狗という人がいて、大親分で数百人の子分がいるとのことです」と言うと、隣に座っていた客が、
「その親分ならよく知っている。年の頃は三十前後、顔色は青白く、鼻筋は高く、眼は深く鋭く、額の上に刀傷痕がある人ですよ」
これを聞いた大熊が次郎長に向かって、
「ひょっとするとその親分は、冶助さんでなかろうか」
次郎長が茶店の主人に、
「この辺りは、万歳が盛んでないかね」と、問うと、
「三河万歳の本場ですよ」と、答える。
次郎長は、ははーん、やはりその親分は冶助さんだと頷く。
冶助は、以前、駿河地方に来たことがある。当時、次郎長は米屋の若主人で、賭場に出入りしはじめた頃に、そこで冶助と知り合い、派手好きな性格から料理屋へ招いたり、自宅に呼んだりし、大熊も同席したことがある。その時どちらからと問うと、
「万歳の本場の土地です」との答え。
三河万歳は愛知県三河地方を根拠地として、各地を回った正月の祝福芸。舞扇を持った太夫と鼓を打つ才蔵が、家々を訪れて祝言を述べたり、こっけいな掛け合いをしたりするもので、他のところではあまりやらない万歳を、徳川家康の出生の地であるから、特別に許され盛んであった。
さて、次郎長が今天狗の家に着いてみると、玄関先の壁にはこん棒や捕縄などが整然と掛けられている。これは下役(地方役人)のところだと三人顔を見合わせたが、腹をくくって「駿州清水港の長五郎、熊五郎、広吉」と本名を名乗った。
奥から出てきたのはやはり冶助だった。なつかしそうに次郎長の手を取り、
「よく来てくれました。さあ」と上がるようにという。
次郎長は玄関先の十手取縄を見ながら逡巡していると、
「心配はいらないよ」と笑顔を見せる。
安心した次郎長は清水の巴川での喧嘩のことを伝えると、
「そうかね。何か清水で事件があったと噂話で聞いていたが、それが次郎長さんだったのか」
冶助は三人を客分として厚遇してくれた。
次郎長はこの三河にしばらく滞留することになるが、この三河を選んだことが偶然なのか、それとも深謀遠慮なのか。当初から冶助を頼ったわけでない。旅を続けている間に、結果的に冶助のところに辿りついたといえるが、だが、これも次郎長の生来の勘の鋭さを物語っている行動であると思う。
三河の地であれば、博徒して任侠のひと旗を挙げられるだろうという読みがあったのではないか。博徒にそのような思いを持たせる要素が当時の三河にあったのである。
そのことを見事に整理しているのが高橋敏著「清水次郎長」である。
「三河は、隣国尾張が徳川御三家・尾張徳川藩六十二万石によって一国を支配されたのとは対照的に小藩が分立し、しかも大名の交替が頻繁に行われた。江戸時代を通して七藩から十一藩が並立し、のべ五十二もの小藩が生れてはきえていったのは、日本六十余州広しといえども他国にはない。
なかでも吉田藩(七万石)では十回、西尾藩(六万石)・刈谷藩(二万三千国)で九回も領主が替わっている。さらに尾張藩・沼津藩などの飛び地、幕府直轄領、六十余家に累計される旗本知行所が入り組み状態で散在し、まさに犬牙錯綜(注:犬の牙の噛み合わせのように錯綜している)の状況にあった。一村の相給(注・一つの村落に対し複数の領主が割り当てられている入る状態)が当たり前、数人の領主が支配する村や町はめずらしくないほど細きれ状態に分割されていたのである。
また、三河は徳川将軍家の発祥の故地であり、徳川家康に随身した譜代の家臣の系譜を誇る大名、旗本がこぞって先祖の地三河国内にわずかであろうとも飛び地を持つことを切望した。将軍家も父祖の地に幕閣を構成する有力譜代大名を配置した。譜代大名は老中等の要職を歴任して幕閣を支えたが、反面足下の個別領主としての領分の支配は疎かになった。このような網の目のように入り組み錯綜した三河国の支配は警察力の弱体化に帰結する。
三河国は徳川幕府成立の由緒からいえば最も模範とならなければならない地である。それが皮肉にも博徒の金城湯池になってしまったのである」
成程とよく理解できる分析である。
結果的にこのような三河に次郎長は目をつけ、寺津に潜伏したわけだが、中でも寺津は沼津藩(水野氏六万石)支配飛び地の大浜陣屋支配(五千石)であるから、正に絵にかいたような支配が細切れに錯綜している地域である上に、三河五湊のひとつでもあって、海運・漁業が盛んな土地であった。
このように支配が緩慢で、且つ、物流が盛んであることが三河の特徴であるが、これは博徒の親分たちが根を下ろし一家を構えるのに最適の場所であった。
この三河で次郎長が最初に取り組んだことは何か。それは「やくざは強くなくてはいけない」という信念から「正式の剣術を習う」ことであった。
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