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2014年8月22日 (金)

鉄舟が影響を与えた人物 東海遊侠伝 その四

天田愚案による「東海遊侠伝」は明治17年4月に出版され、その中で清水次郎長らの博徒が暗躍した江戸末期の社会と時流について、以下のように解説している。

「幕府の末世に当り、天下驕惰(きょうだ)に流れ、緩急節を失し、無頼の民、浮浪の士、少しく気骨ある者は、所在名を掲げ、傲(ごう)然(ぜん)自ら侠客と号し、以て勢力を競う。東海、東山、北陸の三道、最も甚しとなす。而して之を制する能(あた)はず。賊を拿(だ)し盗を捕える。却て其の力を借り、以て便と為す。
次郎長此時に生れ、豪侠を以て身を起す。人を殺し仇を復し、威を立て名を取る。亦自然の勢なり」

このように次郎長が博徒へ突き動かした時代の雰囲気を明快に述べ、続いて

「侠客なる者、皆自ら名籍を削り、以て去就を擅(ほしい)*ままにする。之を無宿と称す。無宿の者、其死其生、官司概ね聞知(ぶんち)*せず。其互に相殺戮するも、処置自を常人に異なるあり。是を以て任侠の徒、此地に在て事を起し、逃れて他境に入れば、則ち復た追捕の虞(おそれ)*なし。故に其身を全し、屡々(しばしば)*大闘を為すを得」と。

つまりこの時代は、無宿者が自由自在に闘争を行い得た社会であったと強調しているのである。無宿者とは、江戸時代の連座制度から、その累が及ぶことを恐れ、現在の戸籍台帳と呼べる宗門人別帳から名前を外した、住居や正業をもたない者や博徒など、また、大飢饉や商業資本主義の発達による農業の破綻によって、農村で生活を営むことが不可能になった百姓などである。

しかしこの時代、一方には、荒廃する時代と社会に倫理観をもって、社会改革に献身する二宮尊徳や大原幽学などの禁欲主義者もいたわけであるが、博徒はこれらの人材とは正反対で、驕り堕落の成熟した時代環境にどっぷり浸って生きていた輩であった。

ところで、博徒としての次郎長の評判、当時はどうであったのか。調べて分かったことは現在に伝えられ、ある意味で評価の高い「街道一の親分」ではなく、それとは逆の芳しくない評判である。

「幕末までのこの男の半生は、旅から旅の、斬った張ったのいかさま博奕(はくち)打ちの暮らしであった。道楽に身をもちくずし、喧嘩の果て、博奕打ちになること以外は、考えることの出来なかったこの男であるが、子分はごく少数しかなく、まして縄張りのかけらもなかった。国を売って以来、半可師(中途はんぱ)の博奕打ちに終始したということも、当然といえよう」と「誰も書かなかった清水次郎長・江崎惇」が手厳しい評価をしている。

この背景には縄張りがある。弘化四年(1847)、清水で江尻の大熊の妹おちょうと結婚して一家を構えたときには、既に優良な縄張り地区は、他の博徒に押さえられて進出する余地がなく、次郎長は「三保の松原」にようやく賭場をつくったのみであった。

駿府は安東文吉と辰五郎兄弟の大親分。清水には江尻の紺久と和田島の太郎左衛門、興津には興津の栄助、蒲原には平野屋、岩淵には源七、丸子(まりこ)(駿府)の菊(あ)石(ば)虎(とら)、藤枝には長楽寺の清兵衛、焼津には平五郎と城の腰の長吉などがひしめいていた。次郎長はそのような厳しい中、必死になってようやく三保の松原に小さな賭場を持てたのである。

博徒は賭場を開いて収入を得る。そのためには縄張りというある一定地勢力範囲をもたなければならない。

ところが、次郎長は賭場が一か所しかなく、それも小規模であるから、博徒の親分として生活の基盤をなす寺銭が僅かしか入ってこない。そこで旅から旅を歩き、他人の賭場で勝負の世界に生きなければならなくなる。国定忠治も次郎長と同じく一定の賭場を持っていなかったので旅から旅の生活であった。

したがって、次郎長がいかさま博打の名人だったのは、生きる必要性から生まれた特種技術といえるだろうが、寺銭の少ない親分は子分を養えないことになる。そこで子分は自分で生活資金を稼がねばならない。そこで子分はどう稼ぐか。子分は賭場荒らしをすることになって、これが次郎長の評判を下げる一因となった。

賭場では、客人が張る金の中から、寺銭といって、賭場の税金みたいなもの、普通五分の手数料を天引きして、これが博徒の親分(貸元)の収入になった。ということで、縄張りのことを「死守(しも)*り」ともいって、命をかけて守ることになる。

その賭場を荒らすということは、賭場に殴り込みをかけることで、戦国時代の侍が敵陣に乗り込み、敵将の首を取って武功を立てると同じように、博徒の縄張り、いわば武将の領地に殴り込みをかけるのである。

賭場荒らしにも方法があって、最初から尻を捲って脅しをかける場合と、最初または途中から元手を貸せという手もあるが、いずれも賭場で暴れて不正に金を取ろうというのであるから、賭場荒らしは大抗争を起こすことになる。

ここで少し博打について触れておきたい。賭場とは丁半場とか、鉄火場ともいう、博打場のことで、定時間開くのを定賭場といい、神社やお寺の縁日・祭りに臨時で開く賭場を高市(たかまち)という。

高市は大祭日に開くが、神社やお寺は寺社奉行の管轄下であるから、捕り方役人は踏み込めないので、この日は天下御免で博打を打つことが許され、道路上で公然と盆を張り、盆ござが並び、自分の屋号と紋所をつけた高張り提灯を掲げ、親分衆がおのおのその勢力を誇示し合う場であって、子分を連れて集まり、意気を競うのであるが、その中でも最も勢力のある親分が盆割りを担うことになる。

この盆割りを担うということは、各親分衆の賭場の場所を決め、高市一切の事務を担当し、各親分の賭場を回って寺銭を取るから、盆割りを担当した親分は大きな収入となる。さらに、当日は各地から目明しや岡っ引きも来て、その格に応じて袖の下を要求する。

因みに、ボンクラ、これはぼんやりしていて物事がわかっていない様をいうが、盆暗と書き、伏せた盆の中に眼光が通らないことから転じた博徒用語である。

また、「ヤクザ」の語源であるが、賭博用語が語源であるとする説が通説である。めくりカルタの一種である「三枚」(またはおいちょかぶ)という賭博があって、「三枚」は、手札3枚の合計が10または20になると無得点になるルール。

まず、手札を引いて8と9の目が出れば17となり、一般的な常識人にとっては“7”の場合「もう一枚めくる」ことはしないのだが、投機的で射幸心が強く、且つ非常識な輩は そこで「一か八かで、もう一枚を引く」。その結果で“3”を引き、8+9+3=20となって無得点になることにひっかけて「ヤクザ・八九三」と言ったのが始まりという。

その意味が転じて、役に立たないものや価値のないものを意味するようになり、遊び人や博徒なぞ、まともでない者を「ヤクザ」と呼ぶようになった。

他にも、歌舞伎役者の派手な格好を真似た無法者(傾(かぶ)き者)のことを「役者のような」と言っていたことから「ヤクシャ」が訛って「ヤクザ」になったという説、「役戯(ざ)れ」から来たという説、「やくさむ者」からとの説、更に別枠で「その昔に喧嘩などの仲裁を行う者を「役座」と呼んだことに由来する」との説もある。また、儒教において数字の8・9・3は悪数(縁起の悪い数字)と定めていることから、そこに由来するとの説もある。他説では博徒集団の『貸元、若頭、舎弟頭』の三役(サンヤク)の隠語とも言われる。

さて、次郎長の評判が変わるのは明治維新から。そのことを「誰も書かなかった清水次郎長・江崎惇」が次のように述べている。

「次郎長は一生を通じて博奕では、丁目に張り続けた。次郎長が摑んだ丁の最高の賽の目は、『山岡鉄舟』という人物である。山岡鉄舟との邂逅(かいこう)によって、彼は思いもかけない幸運を摑んだ。次郎長が明治以降や今日の虚名を博したのは、一にも二にも山岡鉄舟の知遇を得たことによる」

鉄舟との縁は後で詳しく分析するが、これから次郎長が天保十三年(1842)、博打のもつれから喧嘩、傷害沙汰となって、無宿者となり、清水を出奔するまでを「東海遊侠伝」に基づきお伝えしたい。

なお、天田愚案は「はしがき」で次のように書いている。

「此書、固(も)と次郎長一家の伝記に係る。故に其子弟の中、或は自己の争闘を為し、間ま有名の者有りと雖も、唯夫れ自家の諍鬩(そうげき)にして、次郎長の進退挙動に関係なき者は、省て載せず。蓋し支事煩雑を避るなり。然れども其出所来歴の如きは、或は特に之を注脚に掲る者あり」

述べている意味は、「東海遊侠伝」は次郎長と一家の伝記であって、関係なきものは省略し、また、関連記事は出所来歴を注脚したとあるが、博徒のことであるから、通常の文献からの出典とは異なるレベルであって、いわば解説を加える程度と考えたい。したがって、次郎長に都合の悪いことは削除され、潤色されていると思われる。

しかし、無宿者というアウトローについて書かれ、記録化された文献が皆無の中、「東海遊侠伝」のみが唯一の資料であることを考えれば、天田愚案が描いた内容で紹介することしかない。以下、かいつまんで「東海遊侠伝」から次郎長を見ていくことにしたい。

1. 生れ
 清水次郎長こと山本長五郎は、文政三年(1820)正月元旦、駿河国有渡郡清水町美濃輪町の高木三右衛門家の次男に生れた。親戚が協議して「古より元旦生まれは、もし賢才ならざれば、即ち極悪人になるという」謂れから、実母とよの弟で嗣子のない叔父の山本次郎八の養子になった。次郎八は同じ清水港で大きな米問屋を営んでいる甲田屋で、ここへ養子として貰われていき、「次郎八のところの長五郎」となったわけで、これが訛って通称次郎長となった。

 実父三右衛門は数艘の廻船を所有し、自ら船頭となって海上に乗り出し、塩や米・薪炭などの商品を買い積みして売りさばく自前の廻船業者で、別名雲不見(くもみず)*三右衛門という名を持つ謂れが書かれている。

 三右衛門は雲行きを見て航海するのでなく、商機となれば荒天で船を出す性格で、千石船で遠州灘にさしかかって遭難、沈没は免れたものの舵を失い漂流、飢餓に怯える水夫を叱咤し八丈島に票着。三人の水夫は島で病死するが、一年後十人を連れて清水港に戻った。

2.育ちと家業へ励み
次郎長は幼少のころから餓鬼大将ぶりを発揮し、年上の子供にも殴りかかる。次郎長が来たぞ、と声がかかると、母親たちはあわてて子供を家に呼び入れてしまう。手習いでもさせたら少しはよくなるだろうと、八歳のとき、近所の寺子屋の師匠孫四郎へ入門させたが、毎日喧嘩ばかりで、読書も手習いもせず、孫四郎は呆れて追放する。

次に七十人も学ぶ禅叢寺の寺子屋に頼み込み入れたが、ここでも初日から喧嘩三昧。この寺の境内の菊を枯らし、池の金魚を弁当箱に入れたりして、ここも破門。

もてあました次郎八夫妻は、預り子の慣行を採った。江戸時代後期、大原幽学が下総地方の農村復興運動を指導した際、可愛い子供をあえて他家に預け訓育する預り子という民間教育方法を採り入れ、門人同士の間で取り替え子制にして実施させた。

次郎長の預り子先は、東海道の難所薩埵(さつた)峠の入口洞村に住む親戚勝五郎である。だが、すぐに音をあげてかえしてよこす。困って思いついたのが女房お直の兄、倉沢の兵吉に預かってもらうことにした。

次郎八夫妻は「長五は倫外の悪児」と包み隠さず話し、覚悟して訓育するよう依頼した。兵吉は終日山仕事にこき使って厳格に難行苦行を課したが、反抗の意気はますますで、返って凶暴化し、村の子供仲間と大喧嘩して傷つけ、他家の牛馬を追い散らし、ついには村全体を敵にまわすに至った。

兵吉も意地があり、同じ村の親族三人と相談して、四人の家を順番に次郎長を回らせ、監督し、徹底的にしごいたところ、さすがに悪餓鬼もようやく「悔悟の色」を見せたので、天保五年(1834)家に戻った。

なお、預り子として、この薩埵峠・倉沢で暮らしたことが、鉄舟との縁につながるのであるから、先は分からないものである。

さて、清水に戻った次郎長、本音から悔悛し孝行息子に変身したわけでない。本来の性格は変わらない。この年十五歳、江戸へ出て一旗あげたいと申し出るが、許されるはずもない。そこで、養母お直の隠し金四百五十両をそっくり盗み、江戸に向かった。次郎八は追手を差し向け、三島で捕え連れ戻したが、次郎長が持っていたのは三百両、残りの百余両をどうしたのか、詰問し、責めるが一言も発せず黙秘。怒り心頭に達した次郎八は素っ裸にして、破れ衣と銭一貫を与え放逐した。

次郎長はこうなることは先刻承知の助で織り込み済み。藪の中に隠しておいた百余両を掘りだし、東海道を西上、府中宿で衣装を新調、一端の米穀商気取りで浜松宿に乗り込み、百両を元手に米相場を張った。

天保五年頃は飢饉の風聞が高く、米価は高騰していた。次郎長は次郎八の取引先の仲買商に託して相場に投資、高値のところで清算し、たちまち一獲千金の巨利を得た。

得意満面の次郎長は、玄米五十石、白銀百両を土産に船を仕立て清水港に戻った。
甲田屋の店頭に米俵を山積みして百両を返し、次郎八に向かって「おとっつあん、何もオレを疑うことないよ、これが今までの親不孝のお詫びです」と神妙にもの申した。

それからは生れかわったように家業に励んだが、次郎八が病に倒れ、死期に近いことを悟ったのか、次郎長を枕元に呼び、涙ながらに遺言した。

「お前は実の子でない。元旦生まれは親の禍になるというので、生後すぐに叔父の私が引き取って育てた。それにしてもよくぞ親不孝の数々をやってくれたものだ。だが、いまや一人前の十六歳、この一年は落ち着いてようやくほっとできた。自分亡き後は家業を継いで甲田屋の家運を盛りたててくれ、そしたらあの世で往生できる」と養父山本次郎八が没した。

次郎長は柄にもなく大泣きして、次郎八の葬儀を盛大にして送った。遺産は四、五千両あったが、養母のお直がこの金を持ち情夫と駆け落ちしてしまう。

その後、次郎長は妻帯して勤勉これ勤め、傾きかかった甲田屋を盛り返したのであるが、このまま順調に甲田屋の主におさまりきれないのが、次郎長のもって生れた宿命である。

3.清水出奔
四、五年もすると無頼の本性がむくむくと湧き起こる。天保十二年(1841)、次郎長二十二歳、この年のひとつの大出来事が転機となった。

八月二十七日の深夜、四人組の強盗に襲われた。四人を相手に恐れず刀を振い防いだが、捕えられず家財は盗まれ自らは負傷した。

たまたま人相見の行脚僧が来て、「惜しむべし。此子命数、二十五歳を出でず」と予言された。
この予言が博徒への道筋への起点になった。算盤片手に帳簿付けなぞして暮らせるか。太く短いオレの人生、面白おかしく思いのまま、自分流に生きればよい。これから博打にのめり込んでいった。博徒へ駆出したのである。

次の年二十三歳、天保十三年三月、江尻で芝居見物した夜、大酔した次郎長は巴川畔で六、七人に不意に襲撃され半死半生の重傷を負った。全治するに数十日、「大酒飲んでいなければ、あのような不覚はとらなかった。酒が害だ。金輪際、酒は飲まない」と決心し、以後、一滴も飲まなかったという。

この年の六月、駿府の遊び人の金八が次郎長を訪ねて来て、北矢部(清水区)の平吉方の賭場へ誘った。
そこに沼津の佐平や富五郎がいた。些細なことから喧嘩になり、佐平と富五郎に傷を負わせ、二人を巴川に投げ込んでしまった。

博徒駆出しの次郎長、てっきり二人は死んだものと思い、このまま山本長五郎でいては親類縁者にも類が及び、家産は没収ということになるので、無宿者に落ちるしかないと速断し、本物の博徒になろうと任侠の道に向かったのである。

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