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2014年7月26日 (土)

鉄舟が影響を与えた人物 東海遊侠伝・・・その三

鉄舟が影響を与えた人物 東海遊侠伝・・・その三

 江戸時代は一般民衆でもお金があれば、日本各地を長期間にわたって旅ができた。
また、清水次郎長のような無宿者である博徒、当然に通行手形を所持しているはずもないが、それでも日本各地を飛び回っていた。
 

  封建時代としての江戸時代、一般的な理解では「士農工商」の身分制度が確立していて、武士を除く人々は虐げられ、苦しい生活をしていたと考えやすいが、実際のところ一般民衆の生活は、お金さえあれば豊かな暮らしができたというのが事実であって、このお金がモノを言う社会という意味では、現代と何ら変わらない。
 

このところを理解しないと清水次郎長が「海道一の親分」と称されるまでに成りあがり、鉄舟の知遇を得、「東海遊侠伝 一名次郎長物語」として豪華メンバーの推薦で出版されるほどの人物になった背景が分からない。

そこで、少し江戸時代の経済思想について述べたい。 
 江戸時代はお金=貨幣経済が発達していて、一般民衆は貨幣によって商品の交換を媒介する経済システムのもとにあつた。
 江戸時代の通貨は金(小判、一分判(いちぶばん))、銀(丁(ちょう)銀(ぎん)、小玉(こだま)銀(ぎん))、銭(寛永通宝)という三貨制度が、基本通貨として流通していた貨幣経済である。
だがしかし、武士階級の俸禄・給料は貨幣ではなく米で支払われていたはず、とすると武士は石高制で、一般民衆は貨幣制ということになるのか。

その通りであり、江戸時代は「貴穀賎(きこくせん)金(きん)」という言葉で示されるように、米穀を貴び、貨幣をいやしめるという経済思想を徳川政権が根本に持っていた。(参考「学校では教えてくれない日本史の授業」井沢元彦)

これは農本的な思想から派生したものとされ、江戸幕府が重んじた朱子学思想から「穀物は貴(とおと)*く、お金は賤(いや)しい」と決め込めたのであるが、これは江戸時代に新たに採り入れられた思想であった。

それ以前の信長・秀吉の時代は、お金が賤しいという思想は存在しなかった。その証拠に当時の武士の俸禄・給料は「貫(かん)高制(だかせい)*」として基本的にお金で支払われ、土地を与える場合でも、田地の面積から、その田地で収穫することのできるお米の平均的な量を通貨に換算し、当時の通貨単位である「貫」を用いて、「銭何貫」として表していたし、本来は米で納めるべき税金を、お金で納めることも認められていた。

ところが、徳川政権となった際に「石高制」を導入し、朱子学の思想背景も相まって「貴穀賎金」という考えが武士階級に浸透していったのである。
結果として、武士は新渡戸稲造の「武士道(第10章)」に記されているように「金銭や金銭に対し執着することが無視され」「武士の子弟は経済のことを全く眼中に入れないように育てられ」「経済のことを口にすることは、むしろはしたない」こととされ、武士は「損得勘定をとらない。むしろ足らざることを誇りにする」という教育を受けたのである。

したがって「武士道は一貫して理財の道を卑しいもの、即ち、道徳的な職務や知的な職業と比べて卑賤なものとみなし続けた」賜物として「武士道そのものは金銭に由来する無数の悪徳から免れてきた」(武士道・第10章)という効用はもたらしたものの、武士も米を売って貨幣に換え、必要な消費財を貨幣で求めるという生活であるから、結局は貨幣経済システム下であったのに、思想として「貴穀賎金」を維持し「農業重視政策」続けた結果、その矛盾が幕府の財政悪化という形で時を経るごとに大きくなっていった。

その根本的な原因は、産業の発達にともなう大きな社会の変動で、さまざまな商品が生産されるようになって、消費が加速し、且つ奢侈的傾向が進み、幕府や藩の支出も増大していったが、逆に享保期になると米の価格はこれらの商品にくらべて下落し、米を納める年貢に依存している幕府や諸藩の収入が慢性的に不足するようになったからである。

そこで行われたのが歴史的に認定されている、世にいう三大改革としての「享保(きょうほう)*の改革」(1716~45)「寛政の改革」(1787~93)「天保の改革」(1841~43)であって、いずれも倹約第一という方針であった。

だが、江戸時代の改革は、八代将軍徳川吉宗が進めた享保の改革、老中松平定信が進めた寛政の改革、老中水野忠邦が推し進めた天保の改革に加えて、もうひとつ老中田沼意次が進めた改革「田沼時代」(1767~1786)がある。

三大改革が目指したのも、田沼時代が目指したのも、同じ「幕府財政の改善・安定」であったのに、何故か田沼時代が、改革として歴史的・教科書的に認定・認識されていないのか。ここに疑問を持つ必要がある。

享保・寛政・天保の三大改革時代は、今でいうデフレ経済下であって、当然に不景気で庶民からは不満であったが、田沼が目指した政策は「商業・産業の活性化」であり、結果として経済はバブル化し、お金が非常に重視され、市場はインフレ経済で、貨幣が溢れていたので、芝居や浮世絵といった娯楽文化と、かんざしや織物などの工芸品も盛んに発達した、いわゆるバブル経済であった。

まるで今のアベノミクスが目指している経済が田沼時代であり、一方、歴史教科書で学ぶ三大改革は、EU経済危機において、IMFがギリシャ政府に支援するに当ってつけた条件、公務員の数と給与の大幅削減、増税と徴税の強化などの緊縮政策を求めたことと近似している。

どちらが良いとか悪いとかではなく、改革にはデフレとインフレの二方向があるわけで、一方に偏った政策だけを改革として認識させるような歴史教育は、当時の社会実態を適切・妥当に把握することへの障害となっているが、これらの背後に幕府の「貴穀賎金」思想を今でも受け継いでいるのではないかという疑問が残る。しかし、この問題検討は主題でないのでやめたい。

だが、幕末時に到って、決定的な幕府の「貴穀賎金」思想を崩す大事件が押し寄せてきた。

それは諸外国からの開国要求である。寛政四年(1792)ロシア使節ラクスマンが根室に来航し通商を求め、弘化元年(1844)にはオランダ国王から開国を勧告され、その後も諸国から要望され、いずれも頑なに断り続けてきたが、嘉永六年(1853)のペリー来航によって、翌年、幕府は「日米和親条約」を締結、安政五年(1858)には「日米修好通商条約」を調印し、いよいよ開国としての貿易が始まったわけであるが、開国とは国が商行為をすることである。

ここまで検討してようやく分かったのは、何故に幕府が開国を渋ったのかという理由である。開国とは商売をする、貿易に国家としての幕府が直接タッチすることになり、「貴穀賎金」思想を棄て去り、商行為は賤しいとの考えを抛(なげう)つという、幕府の大方針転換につながるものであったから嫌がったのである。

因みに、商行為の「商」とは、中国の「殷」(紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年)王朝、またの名を「商」のことであり「周」に滅ぼされるのであるが、国を失った商の人々が各地を流浪することになった。
流浪しているうちに、ある地方で豊富な物品を、不足している別の地方へ運ぶと高く売れると気づき、この行動が「商行為」といわれるようになり、やがて商行為する人たちを民族に関係なく「商人」と呼ぶようになったわけであるが、これらの人々は農地を持たない「流れ者」であるので、一種の差別を受け、儒教の広がりとともに「士農工商」として最後に位置づけされる身分として定着化していき、徳川幕府の「貴穀賎金」思想にまでむすびついていったのである。

いずれにしても開国は「貴穀賎金」思想を翻すまで至り、その上、幕府経済思想と一般マネー経済システムとの矛盾が、幕末期に到って財政的にも政治的にも噴き出したが、実は、この実態になっていたことが、次郎長のような無宿者が全国を動き回れるという社会になった背景に存在したのである。

博徒の生活は何で成り立っていたか。勿論、お金・貨幣であるが、博徒であるからお金を稼ぐ場所は賭場での博打であり、賭場の運営から得るテラ銭である。お金とお金の丁半勝負の骰子(さいころ)*賭博、モノは動かなくて、貨幣と貨幣の交換でお金を生み・減らし・無くす、という損得商行為である。現代の為替相場を操ることに近いのではないだろうか。
さらに、博徒が行動する場所はどこだろうか。人が住まない山奥では骰子賭博の賭場を開いても人は集まらない。人が集まり、異動しやすい場所に賭場は設けられることから、結果的に宿場、河岸、湊といった交通・流通の要地になる。

また、それらの要地は人と物の結節点であるから、居酒屋、茶屋、質商、遊所が必然的に盛んになって、それらは繁華な町や村になっていき、当然に脇街道、間道、航路といった博徒が動きやすい条件を整えていくことになる。

結果として、博徒も一般マネー経済と同じく、縄張りという地域社会の中で隠然たる貨幣経済の一角を占め、それらは全国津々浦々へ広くネットワーク化していくとともに、博徒間の対立、権益・縄張り争い、出入りという闘い・喧嘩が発生し、ネットワークが常に変動・変貌を遂げていくのである。

また、この博徒ネットワーク化過程で、一宿一飯の恩義とか、仁義と呼ばれる挨拶とかの独特の決まりごとや掟、それらの不文律が規律化され、盟友関係の拡大と、同時に対立関係による出入りの大規模化が進み、幕藩領主制度の最大欠点である「入り組み錯綜する支配体制」の弱点を活かし、衝き、行動し、博徒ほど旅に明け暮れした存在はないという裏社会をつくりあげたのである。

 この状況を一段と活発化させたのが、ペリー来航であって、その事例を「博徒の幕末維新」(高橋敏著・ちくま書房)が述べているので紹介したい。

 事例は流人の島抜け事件である。同書には、嘉永六年六月八日深夜、伊豆七島の流刑の島・新島から七人の無宿流人が漁船を盗み、伊豆半島網代に向かって島抜けした経緯が詳細に記されている。
 甲州八代郡竹居村出身の無宿、安五郎(吃安の異称)四十二歳を中核に組織された七人の無宿者は、島抜けする前に名主を殺害し、鉄砲を奪い、熟練の水(か)主(こ)*二人を人質にとって航海案内させるなど、前代未聞の島抜けを敢行し、韮山代官のお膝元である網代に上陸したのである。
 新島とは、伊豆諸島を構成する島の一つであり、東京から南に約160km、静岡県下田市から南東に36kmの位置にある。現在の東京都新島村である。新島村は有人島の新島と式根島含めた人口が2010年で2,886人。
 安永三年(1774)では、家数383、人口1,885人、これに流人109人が加わるので合計1,994人であった。
 新島に遺る流人帳によれば、寛文八年(1668)から明治四年(1871)の203年間に1,330人の流人を数えるが、このうち無宿者は500人で全体の38%にあたる。だが、諸外国からの開国要求が始まったあたりから無宿者の比率は50%を超え出している。
 特に、日米修好通商条約を調印した安政五年(1858)から慶応三年(1867)までの10年間は、無宿者の割合が60%と大きくなったが、これは開国という混乱期に無宿者が増加し、それらによる犯罪者が増えていたことを証明する。

その上、島抜けした無宿者を捕縛できない実態であったことを、竹居村無宿の安五郎の行動が証明する。
 九人を乗せた漁船は南風に乗って、企み通り伊豆東海岸の網代浦観音下の屏風岩に着岸した。この時、嘉永六年六月、幕府は黒船騒ぎの最中で、伊豆半島警護のために向かった小田原藩の御用船が網代沖を通りかかった。
 これを見た人質の熟練の水主二人は海に飛び込み、小田原藩の御用船に乗り移り、島抜けの大犯罪を訴えたのであるが、小田原藩の役人は一通りの探索はしたものの深追いせず、所支配役所へ届けるよう言い渡して、あたふたと伊豆の海岸線警護のため下田へ向かってしまった。島抜けの大事件捜索より、黒船の動向が優先したわけである。
 仕方なく、水主二人は網代村の浦役人に訴え、韮山代官所に出頭、事件の顛末を報告した。時の韮山代官は江川太郎左衛門英龍であったが、黒船ショックで狼狽する幕府にとって、江川太郎左衛門は切り札的人物であった。

江川は、以前から諸外国船の来航に備え、武器の鋳造をはじめに特に江戸湾防備の緊急性を進言していたが、この江川の予見が的中したわけで、江川は代官という低い身分の幕吏にかかわらず幕府の中枢に登用、勘定吟味役に抜擢されたのであるから超多忙であった。

 ということは島抜けの七人逮捕には人数を割けず、それより江戸に急行し、江戸湾防備策について対応するしかなかった。
 その後の安五郎は、故郷の甲州に帰り、子分の黒駒勝蔵を配下に、以前に増して侠客として売り出していったのである。
 因みに、江川太郎左衛門英龍は「内海御台場御普請幷(ならびに)大筒(おおづつ)鋳(い)立(たて)御用」となり、洋式砲術家の高島四郎太夫(秋帆)を手代として迎え入れ、中浜万次郎(ジョン万次郎)、嘉永四年(1851)に漂流後のアメリカ生活を打ち切って帰国していたが、万次郎を幕臣に登用することを建議、自らの手付きに任命、ペリー対策の懐刀とした。
 この江川の当時における江戸っ子の評判は「何をさせてもきらいなく、よくやります」(「見立当世評判記」)であったが、結局、命を縮め一年半後の安政二年(1855)正月急逝する。

 「博徒の幕末維新」では、安五郎を見逃すに当って、江川が仕切る御台場造りに、安五郎の人脈が関与していることを示唆しているが、これについては同書をご覧いただきたい。

 とにかく、江戸城造営以来の未曾有の大土木工事で、総工費七十五万両余、幕府財政を揺るがしかねない巨額投資であり、来春、ペリーが再来航するまでに完成しなければ役立たないのであるから、金に糸目をつけない大突貫工事とならざるを得なかった。

したがって、当然ではあるが、必然的に無宿者取り締まりは、手薄にならざるを得ないことが容易に推測される。

 結果として、この当時の博徒の活動社会は広がり、多くの無宿者が我がもの顔で全国を飛び回ることができた。

つまり、黒船の圧力が幕府を襲ったおかげで、博徒社会は高度成長時代を迎え、無宿者のアウトローが支配秩序の隙間を縫って、堂々と一般社会世界に躍り出て、主役となるべき人物が数多く輩出した。その何人かを生年順に並べてみよう。

飯岡助五郎 寛政四年(1792)~安政六年(1859) 相模公卿村生まれ。笹川繁蔵と抗争。
笹川繁蔵  文化七年(1810)~弘化四年(1847) 下総海上軍笹川村生まれ。子分に勢力富五郎、平手造酒
国定忠治  文化七年(1810)~嘉永三年(1851) 上州佐位郡国定村生まれ
津向文吉  文化七年(1810)~明治十六年(1883) 甲州鴨狩津向村生まれ
竹居安五郎 文化八年(1811)~文久二年(1862) 甲州八代郡竹居村生まれ。新島から島抜け脱出成功。
清水次郎長 文政三年(1820)~明治二十六年(1893) 駿河有渡郡清水生まれ。「海道一の親分」となる。

勢力富五郎 文政五年(1822)~嘉永二年(1849) 下総香取郡万歳村生まれ。天保水滸伝に潤色され浪曲となった
黒駒勝蔵  天保三年(1832)~明治四年(1871)  甲州八代郡上黒駒若宮生まれ。次郎長と覇を争う。官軍に身を投じ、官軍によって殺害。

この他にも次郎長と抗争を繰り広げた保下田の久六などが挙げられるが、これらの生年を見ると、いずれも寛政四年(1792)ロシア使節ラクスマンが根室に来航以後の幕府混迷時期であり、撹乱・昏迷した政局の中、混乱時流を桧舞台とし、マネー経済を取り込み、時代の表に登場したのである。

その列強ともいうべき博徒・侠客の中で、清水次郎長が「海道一の親分」として世に認められた要因とは何か。
何事も成功するには「時代の流れ・時流を取り込むこと」「多くの人が納得する成果を上げること」「周りに多くの人材を抱えること」などが必要条件であろうが、そこへ行くまでの前提要件として、その所属する社会の中で、何かのキッカケをつくらなくてはならない。
そのキッカケによって、業界内で認められれば、その世界へデビューしスタートできる要件を備えたといえる。
では、次郎長はどのようにしてキッカケをつかんだのであろうか。
次号でその経緯を述べたい。

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