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2014年7月

2014年7月29日 (火)

生涯現役と武士道・高橋育郎氏の実践事例

生涯現役と武士道

                   高橋育郎

 「童謡に生涯現役の夢かけて」は、平成4年春、行動人のための月刊誌が懸賞論文を募集したときに応募。入選したものです。

 表彰式に臨んで私の夢は、更にふくらみ、そして何とその年の12月、夢の第一歩が現実になって動きはじめました。

 今に続く「心のふるさとを歌う会」です。きっかけは、ライフ・ベンチャー・クラブ(LVC生涯現役実践道場)で、ここは、異業種交流の場でもあったことから、さまざまな人との出会いの中、励まし助け合い新規事業などが生まれて行きました。

 私の場合、直接のきっかけは、月例セミナーの中で、代表のさしがねから「みんなで歌いましょう」の時間を設けてくれたことで、半年ほどたったころ、生活余暇開発士の方が、ここだけでは勿体ないので外部に持ち出してやってみてはどうかと、都の施設を借りてくれて、おかげさまで、ここを根城に始めることができました。

 会を始めると、童謡のことで知りたいことができたので、童謡協会へ電話したところ、私の活動や過去の実績が知られ、一カ月後の5年一月に、憧れの童謡協会の入会の夢も果たせたのです。

 ここで人生が大きく転換したことを実感しました。童謡の作詞、作曲に打ち込み、「生涯現役音頭」を代表に依頼され作ったところから、関東一円で始まった生涯現役の会へ歌の指導や講師として呼ばれるようになり、更には生涯学習センターなどからも声がかかり、講師の道が開かれ、歌の活動が本格稼働して、大きな生き甲斐になりました。

 平成11年でしたか。山岡鉄舟の会が埼玉県小川町で始まり、LVCで出会った山本紀久雄氏に誘われて出かけました。しかし、小川町はあまりにも遠く、とても通えないということで、山本氏は自ら東京で会を立ち上げました。「山岡鉄舟研究会」です。私はすぐに賛同して入会しました。

 ところで、私が生涯現役に出会ったのは、全くの偶然からでした。

 そもそも私は昭和28年、国鉄に入社しました。文字通りのマンモス企業で将来は安泰でした。ただし、私に課せられた運命は、組織の中にあって、かなり厳しいものがあり、組織の中でも最先端の職場を回っていました。昭和39年、東海道新幹線開業前年にPRの仕事に就き。そのあと旅客輸送の仕事、そして43年、東京~千葉間の快速線線路増設工事に伴う駅舎の全面改良の計画担当。ここでは、ほとんど一人で遂行という前代未聞の体験で、過労死寸前までの苦労を背負いました。55年に千葉駅の改良に入ってほぼ完了した時点で、この仕事から解放され、団体旅行のお手伝いをすることになりましたが、これは私の歌好きが知られたことによりました。

 団体旅行の添乗員を体験したところで、私はすぐに「団体旅行音頭」を作詞して管理局へ提案し、それがJTBの手に渡り、「シャンシャンいい旅夢の旅」になってキング・レコードから全国発売されました。この実績がその後の人生に大きく影響しました。

 このころから国鉄は経営改善が叫ばれ、崖っぷちに立たされ、増収対策に汗水を流しながら喘いでいましたが、ついに分割民営化へと転がり込んでいきました。

 ここで私の最後のご奉仕は、千葉でお別れ国鉄グッズ、お座敷電車を走らせるとき、局長から要請されて「なのはな号音頭」を作詞、クラウンから発売されたことでした。

 そして、62年春にJRに移行しますが、このとき52歳以上の管理者は、辞めるか関連企業へ転出するかの二者択一を迫られたのです。私は、このとき高架下会社の役職に就くことになりましたが、第二の人生は、自分の好きな道を歩きたいと、組織を離れ人生冒険の道に飛び出してしまいました。国鉄が穏当でいたら、私はこうした冒険はしないで、平穏な道を歩んでいたと思います。

さて、好きな道とは歌の道です。たいした素養があるわけではないので大変な冒険でした。ところがここで運命的出会いがあったのです。それが人生冒険、ライフ・ベンチャー・クラブの生涯現役実践道場でした。

 

ここでは、それぞれ自分の得意技に磨きをかけて、世のため人のため働きかけること、知識に終わらず、実践こそ価値があると教えられ、更に能力開発、人間の計り知れない能力のあることを教えられたのです。私は勇気を得ました。

 さて、山岡鉄舟は剣、禅、書の人として知られています。

 ところで、学校では、ついに一度たりとも鉄舟の事は教えられずに過ぎました。小学校では、江戸無血開城は、勝海舟と西郷隆盛の功績と教えられました。それほどに影の存在でした。知ったのはNHK大河ドラマ「最後の将軍」で、ここで鉄舟が静岡で官軍の将、西郷と談判する。そこまでの道中と会談の場面があって、鉄舟の存在を知ったのです。入会した2年くらい前のことでした。しかし、入会し鉄舟を知ってからは、汲めども尽きない魅力、奥深さに取りつかれてしまいました。

 鉄舟もまた生涯現役の人だと思うようになりました。幼い時から培った信念を曲げることなく精進に励み、自己を確立して行き、最後の最後、死を直前にした時、人払いをして、一人静かに皇居に向かいひれ伏すかのように倒れたのです。明治天皇を尊崇してのことだったのですね。武士道を貫いた潔さに、生涯現役の生きざまを見せつけられ、鉄舟の常人にはない物凄さを感じました。

 ここまで邪念なく自己を完遂させられたら、これこそ本物の生涯現役であろう。

 私は「童謡に生涯現役の夢かけて」を書いたころは、このように凄まじい生涯現役を知りませんでしたから、鉄舟を知った今は根本から自分を見直さなければいけないと思いました。そういえばマズローの人間幸福度の五段階のうち最高位は、自己確立。すなわち自分の持っている能力の全開だと教えられました。

 そういえば数年前、山本氏から「心錦の山岡鉄舟」のわらべ歌が、明治の初めに歌われていたことを教えられ、同じ題の詞を書いたことを思い出しました。

 私は今頃になって、生涯現役精神は武士道精神に通ずるものであることを知りました。

 自分の信念を貫き通す潔さですね。  (以上)

2014年7月26日 (土)

9月例会ご案内「東叡山 寛永寺:特別参拝」

9月例会ご案内
「東叡山 寛永寺:特別参拝」
(徳川将軍御霊廟・慶喜、泥舟、鉄舟の所縁の地を訪ねる)

1. 概  要    
このたび、今まで非公開であった徳川将軍御霊廟を、特別に公開されるに至り、この機会を活用して、参拝後は、鉄舟の所縁の地を訪ねる運びとしました。

上野の本格的な開発は、江戸幕府政権が樹立され、寛永2年(1625年)に寛永寺が創建されたことに始まります。
三代将軍家光は、江戸城の鬼門(東北の方向)を守るために、将軍家の信任が厚かった「天海僧正」に命じ、祈祷寺を建てさせました。
京都御所の鬼門を守る「比叡山延暦寺」に倣い、東の比叡山という意味で山号を「東叡山」とし、寺名を天皇から年号を使うことを許されて、「寛永寺」としました。
上野の山に寛永寺が創建されると、山の下にも町が創られ、門前町として賑わいました。
しかし、上野の山いっぱいに広がった寛永寺の伽藍は、幕末に起こった彰
義隊の上野の戦い(1868年)により大部分が焼失してしまいます。
焼け野原になった上野の山は、明治政府により、日本で最初の西洋式都市
公園として整備されました。
上野の山は、寛永寺の境内から上野公園となり、現在では、博物館、美術館、動物園などが集まる、正に文化の中心と呼ぶに相応しい場所となりました。

兎に角、今回も見どころ多く、お楽しみになれます。

2. 開 催 日    平成26年9月7日(日)12:30~17:00予定

3. 集合場所    JR「上野駅」公園口改札口前 12:30時間厳守
 *時間的に、昼時でありますが、特別参拝前の見学時間を、少しでも多く取りたいため、ご承知おきください。

4. 会  費    2,500円(月例会費、志納金を含む)

5. コ ― ス    

今般は、午後からゆったりとしたコースを計画いたしました。ただ、寛永寺の特別参拝時の服装は、まだ暑い最中でもありますが、一応 良識内でのご配慮をお願います。

        
【JR上野駅集合】 コース案内説明 ⇒ 【上野公園】
① 旧寛永寺本坊表門(本坊とは、天海僧正や輪王寺宮の御座所のこと) ⇒ ② 両大師(慈恵大師と慈眼大師を祀る)と輪王寺(「厄除け大師」として有名。また同寺は東叡山輪王寺という門跡寺院でもある) ⇒ ③ 旧因洲池田屋敷表門(因州〈鳥取県〉池田家32万石の表門) ⇒ ④ 旧博物館・動物園駅(京成電鉄)(ギリシャ風の小さな方形の建物) ⇒ ⑤ 黒田記念館(黒田清輝〈1866年~1924年〉は、日本近代洋画の父とも呼ばれる洋画家) ⇒ 【上野桜木】  ⑥ 東叡山 寛永寺「特別参拝」 (明治12年(1879年)子院の大慈院の地に、天海僧正所縁の川越喜多院から本地堂を移築した。これが、今の寛永寺本堂となっている)
13:40までに「根本中堂」前に集合し、案内開始14:00~ 約1時間30分
★参拝内容:
 Ⅰ.「根本中堂」にて法楽
 Ⅱ.「葵の間」(徳川慶喜の謹慎蟄居の間)
 Ⅲ.「徳川将軍御霊廟」*屋外のため、夏季は、藪蚊が出ますので、ご注意を!
  ・常憲院殿(五代綱吉公)
  ・有徳院殿(八代吉宗公)
  ・温恭院殿(十三代家定公)
  ・天璋院殿(十三代御正室)
⇒ 【谷中】  ⑦ 日蓮宗:「長昌山 大雄寺」(墓参:高橋泥舟の墓:東京都の保存樹「大楠」幹回り3.1m、高さ18mの根元にある) ⇒ ⑧ 臨済宗国泰寺派:「普門山 全生庵」(墓参:山岡鉄舟居士が徳川幕末・明治維新の際、国事に殉じた人々の菩提を弔うために明治16年に建立した。なお、居士との因縁で落語家の三遊亭円朝の墓。) ⇒ *「観音寺」の《江戸築地塀》を見ながら、谷中墓地の中を通り抜けて、JR日暮里駅南口にて、一旦 解散します。

*** 皆様、お疲れ様でした ***

♠ ♠ ♠ 此処からは、希望者のみでの懇親会 ♠ ♠ ♠

6. 懇 親 会     17:00~19:00予定
「土間土間」日暮里店
         〒116-0014  荒川区東日暮里5-51―7
日暮里宝島ビル2F
・JR 日暮里駅 南口 徒歩1分
・京成本線 日暮里駅 南口 徒歩1分
         TEL:050-5789-3178
会費:4,000円(宴会コース:飲み放題)
(会場にて、徴収させていただきます。)

7. お申込み・お問合せ
         下記の参加申込書にご記入の上、FAXにて送信し
てください。
担当:矢澤昌敏  携帯:090-6021-1519
TEL&FAX:0480-58-5732
E-mail:m_yaza10@eos.ocn.ne.jp ないし
info@tessyuu.jp

 

参加申込書      

 

「東叡山 寛永寺:特別参拝」(平成26年9月7日開催)に出席します

 

           
 

お  名  前

 
 

 

 
 

緊急のご連絡先(携帯電話など)

 
 

 

 
 

懇親会へのご参加

 
 

参加します    参加しません

 

 

申込締切:8月28日(木) FAX送信先:0480-58-5732(矢澤)

 

 

 

10月例会ご案内「鉄舟所縁のお江戸史跡巡り」(案)

「山岡鉄舟研究会」10月例会ご案内
鉄舟所縁のお江戸史跡巡り(案)

1. 見どころ       
今回は、明治という新しい時代に入った、明治5年(1872年)6月、鉄舟は 宮内省に明治天皇陛下の侍従として出仕するため、駿府から戻って来て借りた屋敷は、柏木淀橋町(現在の中野区中央1-17-3)、内藤新宿から更に西に行った辺りで、玉川の分流に架かった大きな水車が目印であった。
麹町辺りの豪商(加太八兵衛)の別邸(成趣園)で、鬱蒼とした大木の茂る丘(天狗山:小淀山)に、風雅な建物が建っていた。
東京の市中に比べれば不便極まりない田舎の村だが、広々と立派なのに、家賃が格安であった。
その後、東伏見宮家に献納され、その別邸になっていたこの邸内の庭園「成趣園」を、関精拙老師が寄贈を受け、此処に鉄舟を開基とし、鉄舟の持仏「聖観世音像」を本尊として開山した。
「高歩院」の寺号は、鉄舟の諱を取って名付けたものです。
しかし、昭和20年(1945年)5月第二次世界大戦による本土空襲によって、庭木の全てを焼失し、見る影も無くなってしまいました。
現在は、此処に「鉄舟会禅道場」を建設し、修禅の道場として、広く教化活動を続けています。

今回も、新たなる見どころもあり、お楽しみになれます。

2. 開 催 日    平成26年10月19日(日)12:30~16:30予定

3. 集合場所  JR中央総武線各駅停車:東中野駅西口改札口 12:30時間厳守予定

4. 会  費    2,500円予定(月例会費+志納金を含む)

5. コ ― ス(案) 
① 臨済宗天龍寺派「鎮国山 高歩院」:「鉄舟会道場」(成趣園の碑)
 ② 中野氷川神社(山岡鉄舟の掛け軸、勝海舟の扁額)
 ③ 宝仙寺三重塔跡
 ④ 「神田川」歌碑
 ⑤ 石森製粉所の大石臼
 ⑥ 真言宗豊山派「明王院 宝仙寺」(三重塔、中野町、役場跡碑、六地蔵と見返り地蔵、堀江家 の墓所、臼塚、)
 ⑦ 山政醤油醸造所のレンガ塀
 ⑧ あぶまた味噌の大釜(江戸前味噌などの買い物可)

*** 皆様、お疲れ様でした ***

♠ ♠ ♠ 此処からは、希望者のみでの懇親会 ♠ ♠ ♠

6. 懇 親 会     地下鉄丸ノ内線中野坂上駅前あたりを候補に検討中
17:00~19:00予定
         会費:4,000円予定
(会場にて、徴収させていただきます。)
7. お申込み・お問合せ
         下記の参加申込書にご記入の上、FAXにて送信し
てください。
担当:矢澤昌敏  携帯:090-6021-1519
TEL&FAX:0480-58-5732
E-mail:m_yaza10@eos.ocn.ne.jp ないし
info@tessyuu.jp 

 

*参加申込書      

 

鉄舟 所縁のお江戸史跡巡り(平成2 年 月  日開催)に出席します

 

           
 

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懇親会へのご参加

 
 

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申込締切:  月  日( ) FAX送信先:0480-58-5732(矢澤)

        

2014年7月開催結果

2014年7月例会開催結果についてご案内申し上げます。

Ⅰ.2014年7月16日(水)の例会は、東京・御茶の水・ホテルジュラクで開催しました。
ご発表は以下の三氏です。 

1. 矢澤昌敏氏・・・内容は別添付でお送りしています。
 9月7日(日)開催「東叡山 寛永寺:特別参拝」の案内
10月19日(日)開催「鉄舟所縁のお江戸史跡巡り」の案内
  

2. 永冨明郎氏
  平成26年NHK大河ドラマ「花燃ゆ」は、吉田松陰の四女・文(ふみ)が主人公
です。永冨氏は「遥かなり三宅島=吉田松陰「留魂録」外伝」(H24年 東洋図
書出版)で第16回日本自費出版文化賞の小説部門賞を受賞されたように、松陰
研究家として著名です。
松陰は、ペリー密航事件を起こした後、郷里・山口県萩で蟄居の生活を送る中、
松下村塾で多くの若者に改革の心を植え付け、安政の大獄で処刑された。
だが、残された多くの門下生たちは幕末の列強外圧が迫るなか、日本の大改造
に立ち上がり、明治維新の大きな原動力となり、更には維新後の新体制構築の
中で、彼らが随所で活躍した。
永冨氏は、その若者たち(門下生)と、松陰の妹、特に文の生涯について考察さ
れ、また、「花燃ゆ」に登場するであろう門下生について、放映される際に参考
となるリストを作成提供いただきました。ご親切に感謝申し上げます。

3. 山本紀久雄
4月の木下雄次郎氏の「鉄舟、人生のこころの標を刻する77種の印」解読考察。
① 山岡鉄舟居士印存、山本玄峰老子題字「至誠如神」全生庵主玄實識」(木下氏所蔵)
② 鉄舟書の前に立つと、一瞬、俗事・俗用を忘れさせてくれる背景。
③ 鉄舟は「無法で書く」というが、これをどのように理解するか。
④ 四(し)弘(ぐ)誓願(ぜいがん)のひとつ「衆生(しゅじょう)無辺(むへん)誓願度(せいがんど)」を唱えて書くという意味。
⑤ この掛け軸、闇雲に全生庵第五世玄(げん)實(じつ)師が鉄舟印を押したわけではないだろう。何かの一貫したストーリーで印の位置を決めているはず。それを読み解かねば鉄舟印譜の掛け軸が語りかけている意味は解けない。
⑥ 掛け軸をじっと眺めて思いついたことがある。物事は最初と最後が重要だというのがセオリーであるから、掛け軸に最初に押された印はスタートであり、最後は結論ではないかということ。
⑦ スタートには印が三つ押されている。

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1は「鉄舟」、3は「藤原高歩」であるから名前であり、この二印の間に押された2の「江上清星山間明月」がポイントであろう。木下氏解読で「水面には清らかに星が煌めき、山間には明月が輝く」とあるから、これは鉄舟がこれから修行に入る時点での清らかな精神を示していると考える。

⑧ 掛け軸の最後印は77。「武帰必門甲壱」と読む。意は「最も勝れた者になるには何としてもやり遂げる、必ず通り抜ける重要な処、それはひとたび武をもとからやり直すこと」とある。

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⑨ この「武帰必門甲壱」を結論として掛け軸最後に押印したことにも、理由背景があるはず。それを2014年NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」に登場する安国寺恵瓊の事例を司馬遼太郎著「播磨灘物語」から解説。
⑩ 今後も層一層必要である「武帰必門甲壱」が鉄舟の生き方結論であろうが、その上に三つの印譜が押されていることに注目。

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⑪ 74は「即両端」であり意は「即は就く、両端をもって慶喜と明治天皇を指す。端は本源を持って正しい誠」であり、76は「臣鉄舟」であるから74を受けて自らの位置づけを示している。75は「丘容光恵」で、意を要約すると「鉄舟は心の本体を極めるに、和こそが聖人の行う本質なりと悟り、無血開城で和を得ることが道理」、これは慶喜と明治天皇の両者の融合を図った鉄舟最大の業績を印にしたものである。

 
ならば、江戸無血開城を成し遂げるまでの自らに課した修行は、いかなる過程を経てきたのか。それがこの印譜掛け軸で物語っているはず。次の例会で解明する。

 

Ⅱ.2014年9月、10月例会につきましては別途添付いたしました。

Ⅲ.2014年11月の例会は以下のように開催します。  *8月は夏休みで休会です。
  開催日  2014年11月19日(水) 発表は山本紀久雄が行います。

鉄舟が影響を与えた人物 東海遊侠伝・・・その三

鉄舟が影響を与えた人物 東海遊侠伝・・・その三

 江戸時代は一般民衆でもお金があれば、日本各地を長期間にわたって旅ができた。
また、清水次郎長のような無宿者である博徒、当然に通行手形を所持しているはずもないが、それでも日本各地を飛び回っていた。
 

  封建時代としての江戸時代、一般的な理解では「士農工商」の身分制度が確立していて、武士を除く人々は虐げられ、苦しい生活をしていたと考えやすいが、実際のところ一般民衆の生活は、お金さえあれば豊かな暮らしができたというのが事実であって、このお金がモノを言う社会という意味では、現代と何ら変わらない。
 

このところを理解しないと清水次郎長が「海道一の親分」と称されるまでに成りあがり、鉄舟の知遇を得、「東海遊侠伝 一名次郎長物語」として豪華メンバーの推薦で出版されるほどの人物になった背景が分からない。

そこで、少し江戸時代の経済思想について述べたい。 
 江戸時代はお金=貨幣経済が発達していて、一般民衆は貨幣によって商品の交換を媒介する経済システムのもとにあつた。
 江戸時代の通貨は金(小判、一分判(いちぶばん))、銀(丁(ちょう)銀(ぎん)、小玉(こだま)銀(ぎん))、銭(寛永通宝)という三貨制度が、基本通貨として流通していた貨幣経済である。
だがしかし、武士階級の俸禄・給料は貨幣ではなく米で支払われていたはず、とすると武士は石高制で、一般民衆は貨幣制ということになるのか。

その通りであり、江戸時代は「貴穀賎(きこくせん)金(きん)」という言葉で示されるように、米穀を貴び、貨幣をいやしめるという経済思想を徳川政権が根本に持っていた。(参考「学校では教えてくれない日本史の授業」井沢元彦)

これは農本的な思想から派生したものとされ、江戸幕府が重んじた朱子学思想から「穀物は貴(とおと)*く、お金は賤(いや)しい」と決め込めたのであるが、これは江戸時代に新たに採り入れられた思想であった。

それ以前の信長・秀吉の時代は、お金が賤しいという思想は存在しなかった。その証拠に当時の武士の俸禄・給料は「貫(かん)高制(だかせい)*」として基本的にお金で支払われ、土地を与える場合でも、田地の面積から、その田地で収穫することのできるお米の平均的な量を通貨に換算し、当時の通貨単位である「貫」を用いて、「銭何貫」として表していたし、本来は米で納めるべき税金を、お金で納めることも認められていた。

ところが、徳川政権となった際に「石高制」を導入し、朱子学の思想背景も相まって「貴穀賎金」という考えが武士階級に浸透していったのである。
結果として、武士は新渡戸稲造の「武士道(第10章)」に記されているように「金銭や金銭に対し執着することが無視され」「武士の子弟は経済のことを全く眼中に入れないように育てられ」「経済のことを口にすることは、むしろはしたない」こととされ、武士は「損得勘定をとらない。むしろ足らざることを誇りにする」という教育を受けたのである。

したがって「武士道は一貫して理財の道を卑しいもの、即ち、道徳的な職務や知的な職業と比べて卑賤なものとみなし続けた」賜物として「武士道そのものは金銭に由来する無数の悪徳から免れてきた」(武士道・第10章)という効用はもたらしたものの、武士も米を売って貨幣に換え、必要な消費財を貨幣で求めるという生活であるから、結局は貨幣経済システム下であったのに、思想として「貴穀賎金」を維持し「農業重視政策」続けた結果、その矛盾が幕府の財政悪化という形で時を経るごとに大きくなっていった。

その根本的な原因は、産業の発達にともなう大きな社会の変動で、さまざまな商品が生産されるようになって、消費が加速し、且つ奢侈的傾向が進み、幕府や藩の支出も増大していったが、逆に享保期になると米の価格はこれらの商品にくらべて下落し、米を納める年貢に依存している幕府や諸藩の収入が慢性的に不足するようになったからである。

そこで行われたのが歴史的に認定されている、世にいう三大改革としての「享保(きょうほう)*の改革」(1716~45)「寛政の改革」(1787~93)「天保の改革」(1841~43)であって、いずれも倹約第一という方針であった。

だが、江戸時代の改革は、八代将軍徳川吉宗が進めた享保の改革、老中松平定信が進めた寛政の改革、老中水野忠邦が推し進めた天保の改革に加えて、もうひとつ老中田沼意次が進めた改革「田沼時代」(1767~1786)がある。

三大改革が目指したのも、田沼時代が目指したのも、同じ「幕府財政の改善・安定」であったのに、何故か田沼時代が、改革として歴史的・教科書的に認定・認識されていないのか。ここに疑問を持つ必要がある。

享保・寛政・天保の三大改革時代は、今でいうデフレ経済下であって、当然に不景気で庶民からは不満であったが、田沼が目指した政策は「商業・産業の活性化」であり、結果として経済はバブル化し、お金が非常に重視され、市場はインフレ経済で、貨幣が溢れていたので、芝居や浮世絵といった娯楽文化と、かんざしや織物などの工芸品も盛んに発達した、いわゆるバブル経済であった。

まるで今のアベノミクスが目指している経済が田沼時代であり、一方、歴史教科書で学ぶ三大改革は、EU経済危機において、IMFがギリシャ政府に支援するに当ってつけた条件、公務員の数と給与の大幅削減、増税と徴税の強化などの緊縮政策を求めたことと近似している。

どちらが良いとか悪いとかではなく、改革にはデフレとインフレの二方向があるわけで、一方に偏った政策だけを改革として認識させるような歴史教育は、当時の社会実態を適切・妥当に把握することへの障害となっているが、これらの背後に幕府の「貴穀賎金」思想を今でも受け継いでいるのではないかという疑問が残る。しかし、この問題検討は主題でないのでやめたい。

だが、幕末時に到って、決定的な幕府の「貴穀賎金」思想を崩す大事件が押し寄せてきた。

それは諸外国からの開国要求である。寛政四年(1792)ロシア使節ラクスマンが根室に来航し通商を求め、弘化元年(1844)にはオランダ国王から開国を勧告され、その後も諸国から要望され、いずれも頑なに断り続けてきたが、嘉永六年(1853)のペリー来航によって、翌年、幕府は「日米和親条約」を締結、安政五年(1858)には「日米修好通商条約」を調印し、いよいよ開国としての貿易が始まったわけであるが、開国とは国が商行為をすることである。

ここまで検討してようやく分かったのは、何故に幕府が開国を渋ったのかという理由である。開国とは商売をする、貿易に国家としての幕府が直接タッチすることになり、「貴穀賎金」思想を棄て去り、商行為は賤しいとの考えを抛(なげう)つという、幕府の大方針転換につながるものであったから嫌がったのである。

因みに、商行為の「商」とは、中国の「殷」(紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年)王朝、またの名を「商」のことであり「周」に滅ぼされるのであるが、国を失った商の人々が各地を流浪することになった。
流浪しているうちに、ある地方で豊富な物品を、不足している別の地方へ運ぶと高く売れると気づき、この行動が「商行為」といわれるようになり、やがて商行為する人たちを民族に関係なく「商人」と呼ぶようになったわけであるが、これらの人々は農地を持たない「流れ者」であるので、一種の差別を受け、儒教の広がりとともに「士農工商」として最後に位置づけされる身分として定着化していき、徳川幕府の「貴穀賎金」思想にまでむすびついていったのである。

いずれにしても開国は「貴穀賎金」思想を翻すまで至り、その上、幕府経済思想と一般マネー経済システムとの矛盾が、幕末期に到って財政的にも政治的にも噴き出したが、実は、この実態になっていたことが、次郎長のような無宿者が全国を動き回れるという社会になった背景に存在したのである。

博徒の生活は何で成り立っていたか。勿論、お金・貨幣であるが、博徒であるからお金を稼ぐ場所は賭場での博打であり、賭場の運営から得るテラ銭である。お金とお金の丁半勝負の骰子(さいころ)*賭博、モノは動かなくて、貨幣と貨幣の交換でお金を生み・減らし・無くす、という損得商行為である。現代の為替相場を操ることに近いのではないだろうか。
さらに、博徒が行動する場所はどこだろうか。人が住まない山奥では骰子賭博の賭場を開いても人は集まらない。人が集まり、異動しやすい場所に賭場は設けられることから、結果的に宿場、河岸、湊といった交通・流通の要地になる。

また、それらの要地は人と物の結節点であるから、居酒屋、茶屋、質商、遊所が必然的に盛んになって、それらは繁華な町や村になっていき、当然に脇街道、間道、航路といった博徒が動きやすい条件を整えていくことになる。

結果として、博徒も一般マネー経済と同じく、縄張りという地域社会の中で隠然たる貨幣経済の一角を占め、それらは全国津々浦々へ広くネットワーク化していくとともに、博徒間の対立、権益・縄張り争い、出入りという闘い・喧嘩が発生し、ネットワークが常に変動・変貌を遂げていくのである。

また、この博徒ネットワーク化過程で、一宿一飯の恩義とか、仁義と呼ばれる挨拶とかの独特の決まりごとや掟、それらの不文律が規律化され、盟友関係の拡大と、同時に対立関係による出入りの大規模化が進み、幕藩領主制度の最大欠点である「入り組み錯綜する支配体制」の弱点を活かし、衝き、行動し、博徒ほど旅に明け暮れした存在はないという裏社会をつくりあげたのである。

 この状況を一段と活発化させたのが、ペリー来航であって、その事例を「博徒の幕末維新」(高橋敏著・ちくま書房)が述べているので紹介したい。

 事例は流人の島抜け事件である。同書には、嘉永六年六月八日深夜、伊豆七島の流刑の島・新島から七人の無宿流人が漁船を盗み、伊豆半島網代に向かって島抜けした経緯が詳細に記されている。
 甲州八代郡竹居村出身の無宿、安五郎(吃安の異称)四十二歳を中核に組織された七人の無宿者は、島抜けする前に名主を殺害し、鉄砲を奪い、熟練の水(か)主(こ)*二人を人質にとって航海案内させるなど、前代未聞の島抜けを敢行し、韮山代官のお膝元である網代に上陸したのである。
 新島とは、伊豆諸島を構成する島の一つであり、東京から南に約160km、静岡県下田市から南東に36kmの位置にある。現在の東京都新島村である。新島村は有人島の新島と式根島含めた人口が2010年で2,886人。
 安永三年(1774)では、家数383、人口1,885人、これに流人109人が加わるので合計1,994人であった。
 新島に遺る流人帳によれば、寛文八年(1668)から明治四年(1871)の203年間に1,330人の流人を数えるが、このうち無宿者は500人で全体の38%にあたる。だが、諸外国からの開国要求が始まったあたりから無宿者の比率は50%を超え出している。
 特に、日米修好通商条約を調印した安政五年(1858)から慶応三年(1867)までの10年間は、無宿者の割合が60%と大きくなったが、これは開国という混乱期に無宿者が増加し、それらによる犯罪者が増えていたことを証明する。

その上、島抜けした無宿者を捕縛できない実態であったことを、竹居村無宿の安五郎の行動が証明する。
 九人を乗せた漁船は南風に乗って、企み通り伊豆東海岸の網代浦観音下の屏風岩に着岸した。この時、嘉永六年六月、幕府は黒船騒ぎの最中で、伊豆半島警護のために向かった小田原藩の御用船が網代沖を通りかかった。
 これを見た人質の熟練の水主二人は海に飛び込み、小田原藩の御用船に乗り移り、島抜けの大犯罪を訴えたのであるが、小田原藩の役人は一通りの探索はしたものの深追いせず、所支配役所へ届けるよう言い渡して、あたふたと伊豆の海岸線警護のため下田へ向かってしまった。島抜けの大事件捜索より、黒船の動向が優先したわけである。
 仕方なく、水主二人は網代村の浦役人に訴え、韮山代官所に出頭、事件の顛末を報告した。時の韮山代官は江川太郎左衛門英龍であったが、黒船ショックで狼狽する幕府にとって、江川太郎左衛門は切り札的人物であった。

江川は、以前から諸外国船の来航に備え、武器の鋳造をはじめに特に江戸湾防備の緊急性を進言していたが、この江川の予見が的中したわけで、江川は代官という低い身分の幕吏にかかわらず幕府の中枢に登用、勘定吟味役に抜擢されたのであるから超多忙であった。

 ということは島抜けの七人逮捕には人数を割けず、それより江戸に急行し、江戸湾防備策について対応するしかなかった。
 その後の安五郎は、故郷の甲州に帰り、子分の黒駒勝蔵を配下に、以前に増して侠客として売り出していったのである。
 因みに、江川太郎左衛門英龍は「内海御台場御普請幷(ならびに)大筒(おおづつ)鋳(い)立(たて)御用」となり、洋式砲術家の高島四郎太夫(秋帆)を手代として迎え入れ、中浜万次郎(ジョン万次郎)、嘉永四年(1851)に漂流後のアメリカ生活を打ち切って帰国していたが、万次郎を幕臣に登用することを建議、自らの手付きに任命、ペリー対策の懐刀とした。
 この江川の当時における江戸っ子の評判は「何をさせてもきらいなく、よくやります」(「見立当世評判記」)であったが、結局、命を縮め一年半後の安政二年(1855)正月急逝する。

 「博徒の幕末維新」では、安五郎を見逃すに当って、江川が仕切る御台場造りに、安五郎の人脈が関与していることを示唆しているが、これについては同書をご覧いただきたい。

 とにかく、江戸城造営以来の未曾有の大土木工事で、総工費七十五万両余、幕府財政を揺るがしかねない巨額投資であり、来春、ペリーが再来航するまでに完成しなければ役立たないのであるから、金に糸目をつけない大突貫工事とならざるを得なかった。

したがって、当然ではあるが、必然的に無宿者取り締まりは、手薄にならざるを得ないことが容易に推測される。

 結果として、この当時の博徒の活動社会は広がり、多くの無宿者が我がもの顔で全国を飛び回ることができた。

つまり、黒船の圧力が幕府を襲ったおかげで、博徒社会は高度成長時代を迎え、無宿者のアウトローが支配秩序の隙間を縫って、堂々と一般社会世界に躍り出て、主役となるべき人物が数多く輩出した。その何人かを生年順に並べてみよう。

飯岡助五郎 寛政四年(1792)~安政六年(1859) 相模公卿村生まれ。笹川繁蔵と抗争。
笹川繁蔵  文化七年(1810)~弘化四年(1847) 下総海上軍笹川村生まれ。子分に勢力富五郎、平手造酒
国定忠治  文化七年(1810)~嘉永三年(1851) 上州佐位郡国定村生まれ
津向文吉  文化七年(1810)~明治十六年(1883) 甲州鴨狩津向村生まれ
竹居安五郎 文化八年(1811)~文久二年(1862) 甲州八代郡竹居村生まれ。新島から島抜け脱出成功。
清水次郎長 文政三年(1820)~明治二十六年(1893) 駿河有渡郡清水生まれ。「海道一の親分」となる。

勢力富五郎 文政五年(1822)~嘉永二年(1849) 下総香取郡万歳村生まれ。天保水滸伝に潤色され浪曲となった
黒駒勝蔵  天保三年(1832)~明治四年(1871)  甲州八代郡上黒駒若宮生まれ。次郎長と覇を争う。官軍に身を投じ、官軍によって殺害。

この他にも次郎長と抗争を繰り広げた保下田の久六などが挙げられるが、これらの生年を見ると、いずれも寛政四年(1792)ロシア使節ラクスマンが根室に来航以後の幕府混迷時期であり、撹乱・昏迷した政局の中、混乱時流を桧舞台とし、マネー経済を取り込み、時代の表に登場したのである。

その列強ともいうべき博徒・侠客の中で、清水次郎長が「海道一の親分」として世に認められた要因とは何か。
何事も成功するには「時代の流れ・時流を取り込むこと」「多くの人が納得する成果を上げること」「周りに多くの人材を抱えること」などが必要条件であろうが、そこへ行くまでの前提要件として、その所属する社会の中で、何かのキッカケをつくらなくてはならない。
そのキッカケによって、業界内で認められれば、その世界へデビューしスタートできる要件を備えたといえる。
では、次郎長はどのようにしてキッカケをつかんだのであろうか。
次号でその経緯を述べたい。

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