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2014年6月25日 (水)

鉄舟が影響を与えた人物 東海遊侠伝・・・その二

博徒であった清水次郎長が、全国的に今日でも知られた人物となった背景には、山岡鉄舟の知遇を得、鉄舟を師と仰いだことによる幸運と、鉄舟から天田愚案(五郎)を紹介され、愚案を養子とし、その愚案によって書かれた「次郎長物語 東海遊侠伝」によって世に広まったことが大きい。

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 「東海遊侠伝」が刊行されたのは明治十七年(1884)四月、天田愚案が山本姓を名乗り、鉄眉と号し、愚案三十一歳、次郎長六十五歳、鉄舟四十八歳のときである。
 洋装(いわゆるボール表紙本)の一冊で、成島柳北閲、山本鉄眉著、縦19.1cm×横12.9cm、本文百六十頁、タイトルは「東海遊侠伝 一名次郎長物語」、輿論社から発行された。
 巻頭には次郎長の肖像画、次が鉄舟の描く富士山と大小二個の髑髏、そこに勝海舟が「鷹峰秀峰雲間、天風常飄々」と賛をした書を掲げ、後に衆議院議長や文部大臣になった大岡育蔵が序文を書いている。鉄舟と海舟、それと大臣になるほどの人物、加えて、朝野新聞の社長である成島柳北閲という豪華顔ぶれであるが、何故にこのように派手な演出で出版がなされたかのか?

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それらについては後日の検討としたいが、この「東海遊侠伝」を種本として子母澤寛や岡本綺堂などの作家・劇作者が次郎長に関する著作を多数書き、世間に次郎長の名が広まった。
さらに、次郎長の名を喧伝するもとをつくったのは講釈師の三代目神田伯山である。伯山は次郎長と交流があった松廼家(まつのや)京伝(初名清竜のち太琉)、松廼家は慶応二年(1866)の伊勢荒神山の戦闘に加わったという講釈師であるが、松廼家から話を聞きだし、そこに「東海遊侠伝」を取り込み「清水一家二十八人衆」などの講談を創作し「次郎長伯山」ともいわれるほど人気を博した。

昭和に入ってからは、浪曲師の広沢虎造が次郎長もので大ヒットした。中でも人気を博したのが、講談師三代目神田伯山の弟子の「ろ山」から学んだ清水次郎長伝で、とりわけ森の石松を題材にした「石松三十石船道中」は人気が高く、「寿司食いねえ」「馬鹿は死ななきゃなおらない」などの語り、ラジオ放送の普及もあり、多くの国民がラジオの前に佇立し、聞き入り、虎造節の口真似が流行るほどだったことを筆者はよく記憶している。

この原稿を書くため、再び、改めて「東海遊侠伝」をジックリ読みなおしてみた。読み終えて感じるのは、博徒・やくざ者ほど旅に明け暮れした存在はないのでは、という実感と、「旅」が博徒・やくざ者の修行であったという感覚である。

天保十三年(1842)二十三歳の次郎長は、四十七歳になる慶応二年(1866)までの二十五年間、生まれ故郷の清水に落ち着く間もなく、旅から旅、喧嘩・出入りの毎日を過ごしたが、その過程で目の前に立ちはだかる宿敵を次々と葬り、抑え、ときには妥協し、自らの勢力を拡大し続けた結果「海道一の親分」として並みいる博徒のなかで抜きんでていったのである。

次図は次郎長の行動範囲である。この図では駿河、三河を拠点に伊豆・遠江・甲斐・信濃・尾張・伊勢の八カ国が記載されている。(図「清水次郎長・高橋敏著」)
だが、この図以外にも上州・越後・加賀・四国琴平へも足を延ばしている。

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 ところで、この図の旅跡を見て疑問が生じないだろうか? この時代、博徒は日本国内を自由自在に移動できたのだろうか、という疑念である。
封建制度であった江戸時代は徳川幕府の政策と、各地は藩大名によって支配され治世が行われていて、基本的に目的のない旅は許されていなかった。領民の移動は農民や商工業者の離散につながり、年貢の減少に影響するので許されていなかったのである。

例外として、寺社詣と、病気治療を理由とした温泉への湯治旅だけが認められていた。 その認められていた寺社詣であるが、江戸中期から全国的に盛況となっていき、お伊勢参り、善光寺詣、出羽の湯殿山詣、江戸の大山詣、関西では高野山詣、本願寺詣、金毘羅宮詣等、地方ごとに盛んに行われていた。
 中でも一番規模の大きかったのはお伊勢参りで、享保三年(1718)には年間参拝者が五十万人であり、第二位の善光寺の参拝者が幕末の頃で約二十万人であったことと比べても群を抜いていた。
 このように盛んな寺社詣には温泉がしっかりと組み込まれていた。例えば、江戸からお伊勢参りに出かけた農民の行程をみると、行きに箱根湯本に一泊して温泉に入り、伊勢神宮に参拝した後に、四国に渡って道後温泉に一泊、帰りは京都見物してから中山道を通って善光寺に詣て、伊香保温泉に一泊する。
 このように当時の寺社詣は観光旅行であり、温泉旅行であったと思われるのであるが、これには実は別の目的が隠されていた。
 寺社に参拝した後の温泉での宿泊は「精進落とし」と呼ばれ、飲めや歌えの大騒ぎをするのが常であった。「行きの地蔵、帰りの観音」という言葉があったように、参拝が終わるまでは、精進潔斎して身をつつしむことが求められていた。それだけに参拝後は無礼講で、温泉に入って、酒を飲み、男たちは遊郭に行く等をして、その目的のためにも寺社詣という旅が盛んに行われたともいわれている。
 この寺社詣の旅が、寺社と温泉と飲食と色気をパックにしたツア-であったこと、それが戦後に大流行した、団体温泉旅行につながったと推測しているが、いずれにしても江戸時代における一般市民は、幕府や大名の管理下で規制されていた武士よりも、割合自由に動けたのである。

 だが、ご存じの通り、江戸時代は「関所」が全国に五十カ所も設けられており、地元領主や代官が管理していた。さらに、関所以外に類似施設として個別領主が流通統制のため自領内に設けた「口留番所」、江戸市中に置かれた「辻番所」、異国船・難破船を監視した「遠見番所」、幕末から明治にかけて通行人の在所と目的地を取り締まった「見張番所」や、横浜の「関門」等が存在していたので、自由自在には行動できないシステムだったはず。

 特に関所を通行するには武器の所持検査と、女は「関所手形」、男は「往来手形」を提示しなくてはならなく、これらを所持せずに関所を通過しようとしたり、関所を回避し裏道を通った場合、これを関所破り・抜けというが、その場合の処置は厳しく処罰され、ときには本人は磔(はりつけ)*、手引者は処刑後に晒首(さらしくび)*にされるという獄門にされた。

 このように旅をするには規則があり、その上、博徒は人別帳から除かれた無宿者であるから、移動は一段と厳しかったはずであるが、この管理システムがなきがごとく、次郎長は図に示されるように広範囲を動き回っていることを「東海遊侠伝」は描いているのである。
 もしかしたら我々は、江戸時代について誤解しているのかもしれない。表向きの行政としての法制度が数多く存在していても、それが運用されている社会実態は異なっていたのではないか。人々は様々な管理システムがあっても、そのなかで自由に動きまわれたのではないか。現代人が想像する以上に、多くの人々は一般的な生活をより楽しんでいたのではないか。

つまり、士農工商という厳しい身分区分によって、江戸時代が封建社会として強く規制されていたという教科書的歴史感から抜け出さないと、当時の社会実態を適切・妥当に把握できなく、そうしないと「東海遊侠伝」の述べることを認識・理解できないのではないかと思われる。

 それを証明するひとつが、鉄舟と盟友であった清河八郎の書いた「西遊草」である。清河八郎とは、山形・清川村の酒造業で大富豪の齋藤家に生まれ、江戸で儒学者を目指していたのに倒幕思想へ転換し「回天の一番乗り」目指し、薩摩藩大坂屋敷に逗留するほどの人物になり、伏見寺田屋事件や幕府の浪士組から新撰組の登場にまで絡んでいき、最後は幕府によって暗殺された人物である。

その清河が、安政二年(1855)三月から母を連れて半年間、周防岩国まで旅をした。北陸から名古屋に出て、お伊勢参りをして、関西から四国、周防を回って江戸を経て戻る百六十九日間の大旅行で、その状況を、夕刻宿屋に上り、一杯傾けた後、その日の見聞を「西遊草」として綴っている。

「西遊草」を見るならば、祭り見物・名所旧跡や芝居など、母の心残りないようにと、くまなく観光している状態が分かる。素封家齋藤家であるから、お金を十分使えばこのような大旅行が自由にできたともいえる。

お金もちが旅行した事例をもうひとつ紹介したい。文化十四年(1817)であるから、「西遊草」よりも三十八年前のことであって、清河八郎が生まれた齋藤家から嫁に来た母を持つ、羽州鶴岡の三井(みつい)清野(きよの)という女性である。
旅をした年齢は三十一歳。二人の下男をつれて江戸を見物し、伊勢参拝後に奈良・京都を巡って百八日間・二千四百二十キロ余を旅している。(「きよのさんと歩く大江戸道中記」金森敦子著)
これを読んで驚くのは、清野が豪勢な買い物をしていることである。関西で大量のお土産を買って、どうやって国元まで運ぶのか心配になるほどである。しかし、この江戸時代後期になると、現在の宅配便とまではいかないが、全国的な飛脚便がネットワークされ、品物が配送できるシステムが出来上がっていた。この事実を把握すると、江戸時代は不便であるという前提意識は希薄となる。
最も驚くのは清野が何度でも決行する「関所抜け」である。関所では「出女、入り鉄砲」というように、特に女性に対しては厳重だったはずなのに、関所を非合法に抜け出ている。
その一例として、江戸時代に最も厳しいといわれた箱根の関所を難なく通過した事実を紹介したい。清野は東海道の箱根越えに近づくと、芦ノ湖湖畔の箱根関所を手形なしで通るのはさすがに厳しい詮議があると考え、箱根を迂回して脇道を通ったのであるが、その脇道である仙石原、矢倉沢、河村、谷ケ、鼡坂(ねんざか)、青野原にも関所は設けられていた。
清野はどこが通りやすいか、それを旅籠や地元民に聞き調べてみると、鼡坂関所は百姓二人が関守をしているだけで、警戒は緩く女性の取り調べはないに等しいことが分かってきた。勿論、聞きだすためには地元民や旅籠に礼金を払っている。
清野の日記には「何くの誰、伊勢なら伊勢へと参ると申し、通し下されよと申せば、脇道を教えて通し候」と記している。これだと紹介者も案内賃も要らない感じであるが、他の道中記を読むと、こうした関所を通るときには必ず旅籠屋か地元民に同道してもらい、判賃としていくらかを払っている。清野も例外ではなかったはずで、旅籠屋の親類縁者か顔見知りということにしてもらい、いくらか包んだに違いない。「何くの誰、伊勢なら伊勢へと参る」と言って通るのは、どこの関所でも同じであった。それにしても脇街道とはいえ、幕府の関所をこんなにも簡単に通ることができるのは、清野にとっても驚きだったろう。(「きよのさんと歩く大江戸道中記」)

関所を自由に通ることができたのは次郎長も同様であった。それを「駿河遊侠伝・子母澤寛著」から引用してみる。
次郎長が新居(あらい)関所、ここは五街道のなかでも最も往来の多かった東海道に設けられ、関所の創設は、慶長五年(1600)と伝えられ、舞坂宿(静岡県浜松市西区)と新居宿(静岡県湖西市)の間に位置していたが、ここへ来たときの記述である。

「駿府安東と云えば、云わずと知れた文吉親分だが、首(くび)継(つなぎ)とははじめてきいたね」
「おや。旅人さんにしては珍しい」
職人の顔に、ちょっと、駆出しだね、といっているようなものが見えた。
「この界隈、海道筋では、たあれも安東の親分とも文吉の親分さんとも云いませんよ、首継親分さんとよんでいるんです」
職人のそう云うのを次郎長は髭常と顔を見合わせ目をぱちぱちしながら
「どうしてだね」
「あの親分は御上から箱根の御関所ときびしい時のこの新居の御関所のお手形を預っていらっしゃる。首の無いような悪党でも、膝を抱いてお頼み申せば、事と次第によっちゃあお手形を出して下さるんですよ、だからうまく関所をぬけて命が助かる、首が継がるんでこう云うんでげしょう」
次郎長は苦笑した。
「おい、常さん、灯台下暗しとはこのことだな」
「そうだねえ」

いかがでしょうか。江戸時代は表面的な建前が厳しい時代だったことは確かだが、江戸幕府の多くの法令は「三日法度」といって、守る必要がなかったことは今では常識であるといわれているように、必ず抜けどころがあったわけで教科書的歴史感から脱皮しないと「東海遊侠伝」は理解できない。

さて、旅をするにはお金が必要である。清河八郎も三井清野も大金持ちであったから広範囲・長期間にわたる大名旅行ができたのである。しかし、次郎長のような博徒は生業についていないのだから、豊かな財源にめぐまれていたわけがない。だが、次郎長は広範囲・長期間歩きまわっている。それも子分を連れてである。

天保十三年の二十三歳、清水で事件を起こして出奔したときは次郎長と子分二人の三人の旅、その後いくつかの喧嘩・出入りを「東海遊侠伝」から拾い、そのときの子分総数を調べてみると少ないときで三名、最も多いのは百三十名に及んでいるから、相当のお金を要したはずである。では、この資金をどのように得たのか?

博徒がお金を獲得する手段のひとつとして、土地の親分のところに顔を出して、草鞋(わらじ)銭(せん)*を貰うという方法がある。初対面の親分を訪ね、初対面の挨拶、即ちその道でいう「近づき仁義」を切るのであるが、この仁義は遊侠の作法のなかでも、これくらい折り目、切れ目の厳しいものはない、といわれているものである。だが、草鞋銭という通りわらじを買うぐらいの金しかもらえないので、わずかな旅費程度しかならず、次郎長のような大勢の旅を支える資金にはとうていなりえない。

もうひとつは博徒とは字の如く「博打打ち」であるから、賭場で骰子(さいころ)賭博をしてお金を稼ぐことになる。または、賭場を運営してテラ銭を稼ぐことで資金を得る。

 実は、次郎長はいかさま博打の名人だったといわれている。次郎長は十四五歳頃から博打を打ち、しかも家出して、その間いかさま博打ばかりやって放浪していたから、骰子を使って詐欺をする術は海道一であったと伝えられている。

「駿河遊侠伝・子母澤寛著」で次のように述べている。
「明治七年(1874)薩摩出身の大迫貞清が静岡の県令になった。この時に園遊会を三保の松原で開いた。次郎長はもう五十五歳で、すっかり人間が出来てからだ。どこで聞いていたものか大迫県令が次郎長の肩を叩いて
『おはん、いかさま骰子を使うことがうまかったそうだな』
と笑い話にした。
ところが次郎長は恐れ入るどころか
『では一つ、御座興にお目にかけましょう』
といった。
ちょっと妙にもなったが、大迫も次郎長も、実に淡々としたやりとりをしているので大気忽ち清澄。やがて次郎長は、骰子を取寄せると、三保の松原の白い砂の上へ坐って、壺をふって見せた。それが一番一番思う通りの目が出る。流石の剛腹な県令も舌を巻いて感心した」

 このような「海道一のいかさま博打うち」であった次郎長が、どのようにして「海道一の親分」と称されるまでに成りあがり、「東海遊侠伝 一名次郎長物語」として豪華メンバーの推薦で出版されるほどの人物になり得たのか。

また、鉄舟の知遇を如何に得られたのか? それらを次月以下で分析紹介していきたい。

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