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2014年6月18日(水)の例会は東京文化会館が改修のため閉館で、東京・御茶の水・ホテルジュラクへ会場を変更し開催しました。ご発表は以下の四氏です。
1.高橋育郎氏
童謡作詞家の高橋育郎氏が、千葉県習志野市「習志野市市制60周年記念」として「習志野ご当地キャラ」を作詞作曲され、その「ナラシノ♪どんどん音頭」を高橋氏ご自慢の声でご披露いただきました。
2.矢澤昌敏氏
6月8日(日)、さいたま市大宮区の安楽寺で開催された「幕末慶應150年展」を観られた矢澤氏からご報告いただきました。ご住職が幕末歴史に造詣が深く、中でも、鉄舟が大好き、とうとうご自分で鉄舟を称える詩をつくり、自らの声でCDを作成したほどです。
鉄舟という偉大な人物にほれ込む人材が各地にいるという事実を再確認いたしました。
3.末松正二氏
3月に続いて鉄舟の盟友「関口隆吉」についてご考察いただきました。
① 関口は練兵館(神道無念流、斎藤弥九郎)で剣術修行をしたが、ここの塾頭で兄弟弟子であったのが木戸孝允。この他練兵館には長州の高杉晋作、品川弥二郎、井上馨、伊藤博文、太田市之進等がいたので、関口は長州人と親密な関係であった。
② 既に愛知県令に内定していた関口が上京中に、宿舎へ伊藤博文と井上馨が訪問、山口県知事就任を懇願したが、この背景には練兵館で親しくしていた木戸孝允の推薦があった。この当時、大久保利通、木戸が旧幕臣を登用する際は、勝海舟、大久保一翁、山岡鉄舟等に相談していたので、鉄舟がこの人事にからんでいたことは確実と思われる。
③ 前原一誠は1870年9月に萩へ帰郷。しばらく自重していた。だが、10月28日に前原率いる反乱軍が山口県庁に向かって進撃を開始したが、11月5日島根県の宇龍港にて島根県警察に逮捕され、12月に斬首された。関口は准円寺の獄舎に入った前原達を厚遇、酒を飲みながら談笑し書を書き合ったりした。前原は家族に宛てた遺書の中で関口への感謝の気持ちを書き、家族のことを関口に頼んだことが書かれている。
④ 鉄舟が大いに甘えた親友で、鉄舟の依頼ならば無条件で尽くした人物であった。
●鉄舟の頼みで、武士の魂であった刀の大小を即貸している。
●関口が静岡県知事となった時に、鉄舟が清水次郎長のことを頼んだが、次郎長と付き合いがほとんど無いにも関わらず、警察に捕縛された次郎長を釈放するよう懸命に尽くした。また、それ以降も次郎長を大切にした。
●全生庵が保管していた関口と鉄舟の手紙のやりとりが清水市に贈られている。その手紙を、清水鉄舟会の加藤氏から多数送っていただき、例会で提示された。その手紙の内容は金の無心が多い。
●鉄舟は死去の際、関口に遺言をしている。末松氏の推察では、慶喜のことを頼むということではないかという。関口は実に慶喜の為に尽くしており、慶喜も関口の依頼には大いに応えている。慶喜が最も信頼した人物だったと考えてよい。
要旨は以上ですが、いつもながら末松氏の博学多彩な内容に参加者一同感心するばかりでした。改めて末松氏に感謝申し上げます。
なお、末松氏のご発表の際、永冨明郎氏による「朱子学と陽明学の違い」について、末松氏の依頼に基づき解説がなされました。永冨氏は常に歴史を大きな観点から見通したうえで、個別の事実関係を正確に細部までつかみとり、全体と個の関係性を見事に整理されるという、類まれなる才能をお持ちです。
5月の「新選組のふるさと~日野を歩く」際も同様で、高幡山明王院金剛寺の「土方歳三像」と「殉節両雄之碑」の前で、見事な補足解説をいただきました。
改めて、山岡鉄舟研究会には優れた人材が多いと再認識している次第です。
4.山本紀久雄
4月の木下雄次郎氏の発表「鉄舟、人生のこころの標を刻する77種の印」の解説・解読を受けまして、鉄舟と玄峰老師との関係、鉄舟書について考察いたしました。
① 山岡鉄舟居士印存、山本玄峰老子題字「神如誠至」掛け軸(紙本水墨・ 緞子裂・ 象牙軸)、「昭和30年9月上浣(注・上旬) 全生庵主玄實識」
(木下氏所蔵)
② 山岡鉄太郎、姓は藤原。名は高歩(たかゆき)。字は曠野(こうや)。鉄舟と号す
③ 嘉永三年三月、鉄太郎が高山・岩佐一亭へ「入木道書法入門之一札」を差し出す
(岩佐家所蔵)
④ 嘉永三年十月、岩佐一亭から入木伝承五十二世伝授受け一楽斎の号を与えられる
入木伝承52世山岡高歩
⑤ 明治十八年十二月「余が今日の書は則ち鉄舟流なり」(書法に就て)
⑧ 鉄舟と玄峰老子の関わり
⑨ 印とは何を意味するものなのか
⑩ 明治十三年三月「剣・禅二道において悟る」「書もその筆意が全くガラリと一変するに至った」(書法に就て)
⑪ 悟とは
⑫ 悟りを得た書には、鉄舟の心境が表現され、押印された引首印、落款印白文・朱文、 押脚印にも顕れているはず。
従って、印の意味究明は鉄舟の心境を突き止める行為でもある
博徒であった清水次郎長が、全国的に今日でも知られた人物となった背景には、山岡鉄舟の知遇を得、鉄舟を師と仰いだことによる幸運と、鉄舟から天田愚案(五郎)を紹介され、愚案を養子とし、その愚案によって書かれた「次郎長物語 東海遊侠伝」によって世に広まったことが大きい。
「東海遊侠伝」が刊行されたのは明治十七年(1884)四月、天田愚案が山本姓を名乗り、鉄眉と号し、愚案三十一歳、次郎長六十五歳、鉄舟四十八歳のときである。
洋装(いわゆるボール表紙本)の一冊で、成島柳北閲、山本鉄眉著、縦19.1cm×横12.9cm、本文百六十頁、タイトルは「東海遊侠伝 一名次郎長物語」、輿論社から発行された。
巻頭には次郎長の肖像画、次が鉄舟の描く富士山と大小二個の髑髏、そこに勝海舟が「鷹峰秀峰雲間、天風常飄々」と賛をした書を掲げ、後に衆議院議長や文部大臣になった大岡育蔵が序文を書いている。鉄舟と海舟、それと大臣になるほどの人物、加えて、朝野新聞の社長である成島柳北閲という豪華顔ぶれであるが、何故にこのように派手な演出で出版がなされたかのか?
それらについては後日の検討としたいが、この「東海遊侠伝」を種本として子母澤寛や岡本綺堂などの作家・劇作者が次郎長に関する著作を多数書き、世間に次郎長の名が広まった。
さらに、次郎長の名を喧伝するもとをつくったのは講釈師の三代目神田伯山である。伯山は次郎長と交流があった松廼家(まつのや)京伝(初名清竜のち太琉)、松廼家は慶応二年(1866)の伊勢荒神山の戦闘に加わったという講釈師であるが、松廼家から話を聞きだし、そこに「東海遊侠伝」を取り込み「清水一家二十八人衆」などの講談を創作し「次郎長伯山」ともいわれるほど人気を博した。
昭和に入ってからは、浪曲師の広沢虎造が次郎長もので大ヒットした。中でも人気を博したのが、講談師三代目神田伯山の弟子の「ろ山」から学んだ清水次郎長伝で、とりわけ森の石松を題材にした「石松三十石船道中」は人気が高く、「寿司食いねえ」「馬鹿は死ななきゃなおらない」などの語り、ラジオ放送の普及もあり、多くの国民がラジオの前に佇立し、聞き入り、虎造節の口真似が流行るほどだったことを筆者はよく記憶している。
この原稿を書くため、再び、改めて「東海遊侠伝」をジックリ読みなおしてみた。読み終えて感じるのは、博徒・やくざ者ほど旅に明け暮れした存在はないのでは、という実感と、「旅」が博徒・やくざ者の修行であったという感覚である。
天保十三年(1842)二十三歳の次郎長は、四十七歳になる慶応二年(1866)までの二十五年間、生まれ故郷の清水に落ち着く間もなく、旅から旅、喧嘩・出入りの毎日を過ごしたが、その過程で目の前に立ちはだかる宿敵を次々と葬り、抑え、ときには妥協し、自らの勢力を拡大し続けた結果「海道一の親分」として並みいる博徒のなかで抜きんでていったのである。
次図は次郎長の行動範囲である。この図では駿河、三河を拠点に伊豆・遠江・甲斐・信濃・尾張・伊勢の八カ国が記載されている。(図「清水次郎長・高橋敏著」)
だが、この図以外にも上州・越後・加賀・四国琴平へも足を延ばしている。
ところで、この図の旅跡を見て疑問が生じないだろうか? この時代、博徒は日本国内を自由自在に移動できたのだろうか、という疑念である。
封建制度であった江戸時代は徳川幕府の政策と、各地は藩大名によって支配され治世が行われていて、基本的に目的のない旅は許されていなかった。領民の移動は農民や商工業者の離散につながり、年貢の減少に影響するので許されていなかったのである。
例外として、寺社詣と、病気治療を理由とした温泉への湯治旅だけが認められていた。 その認められていた寺社詣であるが、江戸中期から全国的に盛況となっていき、お伊勢参り、善光寺詣、出羽の湯殿山詣、江戸の大山詣、関西では高野山詣、本願寺詣、金毘羅宮詣等、地方ごとに盛んに行われていた。
中でも一番規模の大きかったのはお伊勢参りで、享保三年(1718)には年間参拝者が五十万人であり、第二位の善光寺の参拝者が幕末の頃で約二十万人であったことと比べても群を抜いていた。
このように盛んな寺社詣には温泉がしっかりと組み込まれていた。例えば、江戸からお伊勢参りに出かけた農民の行程をみると、行きに箱根湯本に一泊して温泉に入り、伊勢神宮に参拝した後に、四国に渡って道後温泉に一泊、帰りは京都見物してから中山道を通って善光寺に詣て、伊香保温泉に一泊する。
このように当時の寺社詣は観光旅行であり、温泉旅行であったと思われるのであるが、これには実は別の目的が隠されていた。
寺社に参拝した後の温泉での宿泊は「精進落とし」と呼ばれ、飲めや歌えの大騒ぎをするのが常であった。「行きの地蔵、帰りの観音」という言葉があったように、参拝が終わるまでは、精進潔斎して身をつつしむことが求められていた。それだけに参拝後は無礼講で、温泉に入って、酒を飲み、男たちは遊郭に行く等をして、その目的のためにも寺社詣という旅が盛んに行われたともいわれている。
この寺社詣の旅が、寺社と温泉と飲食と色気をパックにしたツア-であったこと、それが戦後に大流行した、団体温泉旅行につながったと推測しているが、いずれにしても江戸時代における一般市民は、幕府や大名の管理下で規制されていた武士よりも、割合自由に動けたのである。
だが、ご存じの通り、江戸時代は「関所」が全国に五十カ所も設けられており、地元領主や代官が管理していた。さらに、関所以外に類似施設として個別領主が流通統制のため自領内に設けた「口留番所」、江戸市中に置かれた「辻番所」、異国船・難破船を監視した「遠見番所」、幕末から明治にかけて通行人の在所と目的地を取り締まった「見張番所」や、横浜の「関門」等が存在していたので、自由自在には行動できないシステムだったはず。
特に関所を通行するには武器の所持検査と、女は「関所手形」、男は「往来手形」を提示しなくてはならなく、これらを所持せずに関所を通過しようとしたり、関所を回避し裏道を通った場合、これを関所破り・抜けというが、その場合の処置は厳しく処罰され、ときには本人は磔(はりつけ)*、手引者は処刑後に晒首(さらしくび)*にされるという獄門にされた。
このように旅をするには規則があり、その上、博徒は人別帳から除かれた無宿者であるから、移動は一段と厳しかったはずであるが、この管理システムがなきがごとく、次郎長は図に示されるように広範囲を動き回っていることを「東海遊侠伝」は描いているのである。
もしかしたら我々は、江戸時代について誤解しているのかもしれない。表向きの行政としての法制度が数多く存在していても、それが運用されている社会実態は異なっていたのではないか。人々は様々な管理システムがあっても、そのなかで自由に動きまわれたのではないか。現代人が想像する以上に、多くの人々は一般的な生活をより楽しんでいたのではないか。
つまり、士農工商という厳しい身分区分によって、江戸時代が封建社会として強く規制されていたという教科書的歴史感から抜け出さないと、当時の社会実態を適切・妥当に把握できなく、そうしないと「東海遊侠伝」の述べることを認識・理解できないのではないかと思われる。
それを証明するひとつが、鉄舟と盟友であった清河八郎の書いた「西遊草」である。清河八郎とは、山形・清川村の酒造業で大富豪の齋藤家に生まれ、江戸で儒学者を目指していたのに倒幕思想へ転換し「回天の一番乗り」目指し、薩摩藩大坂屋敷に逗留するほどの人物になり、伏見寺田屋事件や幕府の浪士組から新撰組の登場にまで絡んでいき、最後は幕府によって暗殺された人物である。
その清河が、安政二年(1855)三月から母を連れて半年間、周防岩国まで旅をした。北陸から名古屋に出て、お伊勢参りをして、関西から四国、周防を回って江戸を経て戻る百六十九日間の大旅行で、その状況を、夕刻宿屋に上り、一杯傾けた後、その日の見聞を「西遊草」として綴っている。
「西遊草」を見るならば、祭り見物・名所旧跡や芝居など、母の心残りないようにと、くまなく観光している状態が分かる。素封家齋藤家であるから、お金を十分使えばこのような大旅行が自由にできたともいえる。
お金もちが旅行した事例をもうひとつ紹介したい。文化十四年(1817)であるから、「西遊草」よりも三十八年前のことであって、清河八郎が生まれた齋藤家から嫁に来た母を持つ、羽州鶴岡の三井(みつい)清野(きよの)という女性である。
旅をした年齢は三十一歳。二人の下男をつれて江戸を見物し、伊勢参拝後に奈良・京都を巡って百八日間・二千四百二十キロ余を旅している。(「きよのさんと歩く大江戸道中記」金森敦子著)
これを読んで驚くのは、清野が豪勢な買い物をしていることである。関西で大量のお土産を買って、どうやって国元まで運ぶのか心配になるほどである。しかし、この江戸時代後期になると、現在の宅配便とまではいかないが、全国的な飛脚便がネットワークされ、品物が配送できるシステムが出来上がっていた。この事実を把握すると、江戸時代は不便であるという前提意識は希薄となる。
最も驚くのは清野が何度でも決行する「関所抜け」である。関所では「出女、入り鉄砲」というように、特に女性に対しては厳重だったはずなのに、関所を非合法に抜け出ている。
その一例として、江戸時代に最も厳しいといわれた箱根の関所を難なく通過した事実を紹介したい。清野は東海道の箱根越えに近づくと、芦ノ湖湖畔の箱根関所を手形なしで通るのはさすがに厳しい詮議があると考え、箱根を迂回して脇道を通ったのであるが、その脇道である仙石原、矢倉沢、河村、谷ケ、鼡坂(ねんざか)、青野原にも関所は設けられていた。
清野はどこが通りやすいか、それを旅籠や地元民に聞き調べてみると、鼡坂関所は百姓二人が関守をしているだけで、警戒は緩く女性の取り調べはないに等しいことが分かってきた。勿論、聞きだすためには地元民や旅籠に礼金を払っている。
清野の日記には「何くの誰、伊勢なら伊勢へと参ると申し、通し下されよと申せば、脇道を教えて通し候」と記している。これだと紹介者も案内賃も要らない感じであるが、他の道中記を読むと、こうした関所を通るときには必ず旅籠屋か地元民に同道してもらい、判賃としていくらかを払っている。清野も例外ではなかったはずで、旅籠屋の親類縁者か顔見知りということにしてもらい、いくらか包んだに違いない。「何くの誰、伊勢なら伊勢へと参る」と言って通るのは、どこの関所でも同じであった。それにしても脇街道とはいえ、幕府の関所をこんなにも簡単に通ることができるのは、清野にとっても驚きだったろう。(「きよのさんと歩く大江戸道中記」)
関所を自由に通ることができたのは次郎長も同様であった。それを「駿河遊侠伝・子母澤寛著」から引用してみる。
次郎長が新居(あらい)関所、ここは五街道のなかでも最も往来の多かった東海道に設けられ、関所の創設は、慶長五年(1600)と伝えられ、舞坂宿(静岡県浜松市西区)と新居宿(静岡県湖西市)の間に位置していたが、ここへ来たときの記述である。
「駿府安東と云えば、云わずと知れた文吉親分だが、首(くび)継(つなぎ)とははじめてきいたね」
「おや。旅人さんにしては珍しい」
職人の顔に、ちょっと、駆出しだね、といっているようなものが見えた。
「この界隈、海道筋では、たあれも安東の親分とも文吉の親分さんとも云いませんよ、首継親分さんとよんでいるんです」
職人のそう云うのを次郎長は髭常と顔を見合わせ目をぱちぱちしながら
「どうしてだね」
「あの親分は御上から箱根の御関所ときびしい時のこの新居の御関所のお手形を預っていらっしゃる。首の無いような悪党でも、膝を抱いてお頼み申せば、事と次第によっちゃあお手形を出して下さるんですよ、だからうまく関所をぬけて命が助かる、首が継がるんでこう云うんでげしょう」
次郎長は苦笑した。
「おい、常さん、灯台下暗しとはこのことだな」
「そうだねえ」
いかがでしょうか。江戸時代は表面的な建前が厳しい時代だったことは確かだが、江戸幕府の多くの法令は「三日法度」といって、守る必要がなかったことは今では常識であるといわれているように、必ず抜けどころがあったわけで教科書的歴史感から脱皮しないと「東海遊侠伝」は理解できない。
さて、旅をするにはお金が必要である。清河八郎も三井清野も大金持ちであったから広範囲・長期間にわたる大名旅行ができたのである。しかし、次郎長のような博徒は生業についていないのだから、豊かな財源にめぐまれていたわけがない。だが、次郎長は広範囲・長期間歩きまわっている。それも子分を連れてである。
天保十三年の二十三歳、清水で事件を起こして出奔したときは次郎長と子分二人の三人の旅、その後いくつかの喧嘩・出入りを「東海遊侠伝」から拾い、そのときの子分総数を調べてみると少ないときで三名、最も多いのは百三十名に及んでいるから、相当のお金を要したはずである。では、この資金をどのように得たのか?
博徒がお金を獲得する手段のひとつとして、土地の親分のところに顔を出して、草鞋(わらじ)銭(せん)*を貰うという方法がある。初対面の親分を訪ね、初対面の挨拶、即ちその道でいう「近づき仁義」を切るのであるが、この仁義は遊侠の作法のなかでも、これくらい折り目、切れ目の厳しいものはない、といわれているものである。だが、草鞋銭という通りわらじを買うぐらいの金しかもらえないので、わずかな旅費程度しかならず、次郎長のような大勢の旅を支える資金にはとうていなりえない。
もうひとつは博徒とは字の如く「博打打ち」であるから、賭場で骰子(さいころ)賭博をしてお金を稼ぐことになる。または、賭場を運営してテラ銭を稼ぐことで資金を得る。
実は、次郎長はいかさま博打の名人だったといわれている。次郎長は十四五歳頃から博打を打ち、しかも家出して、その間いかさま博打ばかりやって放浪していたから、骰子を使って詐欺をする術は海道一であったと伝えられている。
「駿河遊侠伝・子母澤寛著」で次のように述べている。
「明治七年(1874)薩摩出身の大迫貞清が静岡の県令になった。この時に園遊会を三保の松原で開いた。次郎長はもう五十五歳で、すっかり人間が出来てからだ。どこで聞いていたものか大迫県令が次郎長の肩を叩いて
『おはん、いかさま骰子を使うことがうまかったそうだな』
と笑い話にした。
ところが次郎長は恐れ入るどころか
『では一つ、御座興にお目にかけましょう』
といった。
ちょっと妙にもなったが、大迫も次郎長も、実に淡々としたやりとりをしているので大気忽ち清澄。やがて次郎長は、骰子を取寄せると、三保の松原の白い砂の上へ坐って、壺をふって見せた。それが一番一番思う通りの目が出る。流石の剛腹な県令も舌を巻いて感心した」
このような「海道一のいかさま博打うち」であった次郎長が、どのようにして「海道一の親分」と称されるまでに成りあがり、「東海遊侠伝 一名次郎長物語」として豪華メンバーの推薦で出版されるほどの人物になり得たのか。
また、鉄舟の知遇を如何に得られたのか? それらを次月以下で分析紹介していきたい。
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