鉄舟が影響を与えた人物・・・東海遊侠伝・・・其の一
今号から展開していく「鉄舟が影響を与えた人物」に入る前に、鉄舟の二大業績「江戸無血開城」と「明治天皇の扶育」に触れ、鉄舟がもつ哲学的な分野について少し検討し、もう一度明治天皇と徳川将軍慶喜との関係を整理してみたい。
まず、「明治天皇の扶育」については、前号まで十六回にわたって詳述してきたが、結論的に述べれば明治天皇は「自らの骨格(こつがら)*をつくるためのなにごとか」を鉄舟から学ばれている。
その骨格とは、明治天皇の背骨ともいえるものであるが、それは人間の世の中に通じていて、普通の人と同じセンスをおもちであったということである。
例えば、日露戦争前の明治三十五年(1902)、明治天皇は陸軍秋季大演習のため九州に行かれたとき、西南戦争の激戦地である田原坂を通られた際、次の御製を詠まれて、侍従の藤波言忠に筆写させ、乃木希典にあたえよと命じられた。
もののふの攻めし戦ひし田原坂
松も老木(おいぎ)になりにけるかな
田原坂の地に立ったとき、ご自分が好きであった西郷について思いを馳せ、西郷はもう亡くなったが、乃木はとられた軍旗のことを今でも気にしている。それゆえこの歌で慰めてやろうというお気持ちから詠まれたのであるが、このような普通人がもつセンスと愛情は、他の帝王にはないだろう。見事に、幼少年期を京都御所奥深き所で過ごされたのに変身をとげられている。
これらが明治天皇の徳望につながり、明治時代の雰囲気をつくりあげたのであるが、そこに天皇の家来としての鉄舟、それは郎党、郎従、家ノ子ともいえるが、その存在が大きく貢献し、影響を与えているのである。
もうひとつの偉大な業績は「江戸無血開城」で徳川将軍慶喜との対応である。
慶応四年(1868)二月に上野寛永寺大慈院に謹慎した慶喜から命を受け、三月九日駿府にて官軍・西郷と会談を行い、事実上の「江戸無血開城」成し遂げたが、ここで見逃し出来ない重要なことは、駿府に行く前に「慶喜の説得」を鉄舟が行ったことであって、その経緯について、鉄舟が書き残した「西郷氏と応接之記」(明治十五年)を基に、通説は次のような解説を展開している。
「余、旧主に述ぶるに、今日切迫の時勢、恭順の趣旨は如何なる考に出候(いでそうろう)哉(や)と問ふ。
旧主示すに、予は朝廷に対し公正無二の赤心を以て謹慎すと雖も、朝敵の命下りし上は迚(とても)も予が生命を全する事はなるまじ。斯迄(かくまで)衆人に悪まれ、遂に其志を果さずと思えば返々も歎かはしき事と落涙せられたり。
余、旧主に述ぶるに、何を弱きツマラヌ事を仰せらるゝや。謹慎とあるは詐りにても有んか、何か外にたくまれし事にてもあらざるか」と。
初のお目見えで、身分低き一幕臣鉄舟が、上野寛永寺大慈院一室にて、慶喜に向かって厳しく謹慎・蟄居の真意を問い質している。
この時代、将軍からの命令・指示に対して、諸大名や旗本は畏まって受け入れるのが、武士道「忠義」の観念から当たり前であり、鉄舟の言動は当時としは考えられない。
しかし、鉄舟は異なった。慶喜からの直接指示に対して畏まらず、返って謹慎・蟄居の姿勢に対する疑義を唱え、問い質し、以下の回答を引き出した。
「旧主曰く、予は別心なし。如何なる事にても朝命に背かざる無二赤心なりと」
そこで鉄舟は、
「余曰く、真の誠意を以て謹慎の事なれば、臣之(しんこれ)*を朝廷に貫徹し、御疑念氷解は勿論なり。鉄太郎に於て其辺は屹(きっ)と引受、必ず赤心徹底可致様(せきしんてっていいたすべきよう)尽力可仕(つかまつるべし)。鉄太郎眼(まなこ)の黒き内は決して御配慮有之間敷(ごはいりょこれあるまじく)と断言す」
と決意を新たにし、駿府に向かったのである。
大慈院で改めて鉄舟が慶喜に対して疑義を呈し、問い詰めたのには理由があった。慶喜は家康の再来といわれたほど評判の高き俊才であったが、第二次対長州戦争の突如中止や、鳥羽伏見の戦いで示した優柔不断な命令と、敗色濃くなるといち早く大坂湾から船で江戸に逃げ帰った行動、それらにみられる慶喜の行動は「二心殿」と陰口されるほど、気持ちが揺れ動き、腹が据わっていない。
だから、今回の官軍による江戸城攻撃に対しても、状況がちょっと変化すれば、すぐに慶喜の謹慎・蟄居姿勢もまた変わるのではないか、そのところを鉄舟は厳しく慶喜に問い質したのである。だが、この鉄舟の言動は、当時の武士道忠義の観念からみて、非常識極まるものであった。
以上が上野寛永寺大慈院に謹慎した「慶喜への説得」を鉄舟が行った経緯として一般に理解されている内容であるが、先日、昨年七月新橋演舞場において開催された歌舞伎「二代目市川猿翁、四代目市川猿之助、九代目市川中車」の襲名披露公演DVDを改めてみると面白いことに気づいた。
演目は昼の部がスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」、夜の部は眞山青果作「将軍江戸を去る」で、鉄舟が市川中車、慶喜を市川團十郎、泥舟を市川海老蔵という豪華配役である。
中車はご存知のように新市川猿翁の息子である俳優の香川照之で、鉄舟を演ずることの意義を次のように述べている。
「鉄太郎が実在の人物であるということ、映像でも史上の人物を演じる時は、その時代の人間になり切ることを考えました。歌舞伎の舞台で歴史上の人間を演じる。どうなるか楽しみにしています」と。
東京新聞(七月七日 長谷部浩=評論家)によると
「上野寛永寺黒門前、山岡鉄太郎が徳川慶喜に面会を求めてきたために騒然となる。門内に入ることを拒む天野八郎(右近)とのやりとりに緊迫感がある。
大慈院の場では、はじめ慶喜と高橋伊勢守が向かい合う。政治に携わる者の責任感と裸身に戻った将軍の内心の吐露が胸を打つ。中車は裂帛の気合でこの場に加わるが、一本調子にすぎて、慶喜との肚の探り合いが見えてこない。山岡を直情径行に作りすぎている」
確かに鉄舟は直情径行型ではなく、熟慮断行の人間であるから、この評が当っていると思うが、ここで関心を持ちたいのは市川中車の襲名披露公演という記念すべき歌舞伎に、鉄舟が登場していることと、舞台で展開されている眞山青果の戯曲・台本である。
眞山青果の「将軍江戸を去る」では、次の二項目が今まで一般的に語られているものと異なっている。
① 慶喜へ鉄舟のお目見えは初めてではない。
② 鉄舟が慶喜に対し尊王論と勤王論を区別し論破・説得していること。
これを検討するには眞山青果という作者について少し分析する必要があるだろう。
眞山青果(1878-1948) 明治-昭和時代の劇作家で、明治11年9月1日生まれ。二高医科を中退し,小栗風葉に師事。明治40年小説「南小泉村」を発表して自然主義の新鋭と期待されたが,明治44年原稿二重売り事件で文壇からはなれた。大正2年松竹にはいり,新派の座付き作家となる。のち「玄朴と長英」「平将門」「元禄忠臣蔵」などの歴史劇を発表。芸術院会員。
「将軍江戸を去る」は、松竹で活躍した中で書かれた歴史劇の幕末三部作で、最初は昭和元年(1926)に「江戸城総攻」、次に「慶喜命乞」が昭和五年(1930)、最後に「将軍江戸を去る」が昭和九年(1934)に書きあげられている。
この三部作を含め歴史劇を書くに当って眞山青果は
「たぶん、かれは、維新史の文献を調査しつくすと共に、政治講談のようなものからも大きな示唆をうけたにちがいない」
と花田清輝が文学昭和三十五年六月号で述べているが、眞山青果が講談や浪花節や落語等を参考にしていることは確かであり、それだけに史実・通説とは異なった展開をしている面もあるが、上記指摘の二か所を検討することで、新たなる鉄舟像をみてみたい。
まずは①であるが、「将軍江戸を去る」(眞山青果全集第七巻 講談社)三幕の「上野大慈院」に次のように書かれている。
(慶喜) さき程より詰所に於て、高聲を発し居るのは何者だ。
(高橋) 精鋭隊長山岡鉄太郎にござります。
(慶喜) 酔っているらしい。今日は、何者にも会わぬぞよ。
(高橋) 今日の御目通り禁止は彼も承知いたして居ります。ただ精鋭隊長として御機嫌伺いに罷り出ましたものを、詰所にも通すなとは、わたくしからはもうしかねまする。
(慶喜) (意味ありげにジロリと高橋を見て) 山岡は近来、ひどく勝安房守の達識(たつしき)に傾倒いたし居るそうだの。
この書き方を見れば一目瞭然で、慶喜へ鉄舟のお目見えは初めてではなく、鉄舟を慶喜がこの時点で既に認識していたことになる。
ここが通説と大きく異なる第一点であるが、これについては仙台藩士であった小野清が、大正十五年に出版した「徳川制度史料」に、将軍慶喜が鳥羽伏見の戦いに敗れ、敗軍の将として江戸に戻った際、鉄舟が警固として重要な職務を担っていたと書き示している。(出典 徳川300年ホントの内幕話 徳川宗英著 だいわ文庫)
「正月十二日巳の刻頃(午前十時)、八代洲河岸林大学頭の楊溝塾を出て、芝口仙台藩邸(注 上屋敷・汐留辺り)に行く。幸橋門(注 新橋第一ホテル辺り)に至れば、武家六騎門内に入り来る。
近寄りて見れば、その先駆者は知り合いの山岡鉄太郎なり。これに継ぐところの五騎は、いずれも裏金(うらきん)陣笠(じんがさ)、錦の筒袖、小袴の服装なり。とりわけ、その第二騎の金(きん)梨子地(なしじ)鞘(ざや)、金紋拵(こしらえ)の太刀を佩きたる風貌、すこぶる注目せらる。六騎徐々馬を駆りて西丸を指して行く。予、路傍に立ち、目送これを久しうす。
後に知る。これ、徳川慶喜公。六日夜大坂天保山沖にて開陽艦に乗じて東帰し、遠州灘にて台風にあい、黒潮付近まで航して今暁浜館(注 浜離宮)に上陸し、今、鉄太郎に迎えられ江戸城に還入するものなることを。
しかしてその六騎なる者、曰く、先駆・出迎者山岡鉄太郎、これに継ぐところの五騎の第一、前京都守護職会津藩主松平肥後守容保。第二、前大将軍徳川内大臣慶喜公。第三、前所司代桑名藩主松平越中守定敬(さだあき)。第四、老中松山藩主板倉伊賀守勝(かつ)静(きよ)。第五、老中唐津藩主小笠原壱岐守長行(ながみち)なり。勝安房守義邦は、鉄太郎浜館に先発せしのち、西丸大手門外下乗橋に出て、ここに公一行を迎うという」
続けて同書に「武家治世の終焉に遭遇し、東帰して江戸城に入る前将軍と幕僚をこの目で見たことは、じつに千載一遇のことで、一人無限の感に打たれた」とある。
「徳川300年ホントの内幕話」の著者徳川宗(むね)英(ふさ)氏は、徳川御三卿(田安・一橋・清水家)の田安徳川家十一代当主にあたる。慶喜の後を継いだ徳川宗家十六代は田安家の家(いえ)達(さと)であり、その現一門当主である宗英氏は徳川家の内情に詳しい。
その徳川宗英氏が、鉄舟が慶喜護衛の第一駆者として記された、小野清なる仙台藩士の「徳川制度史料」を引用していることを事実と認識するならば、幕末時において鉄舟は幕府内で相当知られた人物になっていたと判断できる上に、従来から言われている、上野・寛永寺に謹慎蟄居した慶喜公から、鉄舟が駿府行きを命じられた際、初めて慶喜公と接点が生じたという通説、これを覆すことになる非常に興味深く、眞山青果の台本についても一考察の必要があるだろう。
次に、②の鉄舟が慶喜に対し尊王論と勤王論を区別し論破・説得していることについてみてみたい。
「将軍江戸を去る」三幕の「上野大慈院」で慶喜に対し、鉄舟が次の説得を行っている。
(慶喜) 問おう、尊王とは何ぞや。
(山岡) 権力は即ち実質にありとの大即を認めず、ただ外面的に、皇室に対し、恭敬の誠をつくすを尊王と申します。・・・(以下省略)
(慶喜) 勤王とは?
(山岡) 権は力なり――この鉄則を遵奉することでございます。大権の保持さるべき実質を採りて、総てこれを皇室に奉還することでございます。・・・(中略)
上様はなる程、政治の権は御奉還になりました。然し国土の権と人民とは、まだ天朝に差し上げて居られません。これ、上様の御思想が、未だ尊王の域に彷徨して、勤王の実際に遠い點であろうかと存じられます。
(慶喜)・・・・・(ピタリと坐す。黙然動かず)
(山岡) 京都禁裏内にては、昔より今もって徳川家を、関東御代官と呼んでいるそうでございます。御代官とは、御政治代表者の意味でございます。これ、主権大権は依然として皇室に存在して、徳川家は一時の御代官、御代理に過ぎざる確証でございます。(遥かにへり下って平伏)御明察を願い上げます。御賢慮仰ぎ奉ります。薩長二藩の如きは、もはや敵ではございません。徳川家を潰し、将軍職を廃し、一天四海、その実力皇室に帰する時、初めて勤王の事実ありと申される事と信じます。
(慶喜) ふうむ・・・。
いかがでしょうか。眞山青果が鉄舟の真髄を喝破していると思われませんか。眞山青果はかなり鉄舟を研究したと思われ、多分、鉄舟の「西郷氏と応接之記」よりも「朝廷に奉仕すること」(明治五年十二月)を参照し、深く考えたのではないかと推察する。
この「朝廷に奉仕すること」は徳川の臣であった者が、薩長の連中と一緒に朝廷に出いりする役職に就いたことをけしからんという中傷に対し、弁解ではなく、鉄舟自らの哲学を述べたもので、最後に次のように記している。
「余嘗て少壮の頃、宇宙と人間との関係理法を案じ、其略解(りゃくかい)を作りし事あり。是れ未だ人に語らずと雖ども、考察具(つぶ)さに至り、偶々(たまたま)戊辰の変に会し、終に今日に至る。然りと雖も余が言行未だ嘗て其道に違はざるは誠に幸いなり。而も余の現在は其形少しく異なると雖も、其実体毛頭違ふなきは余の確信する所なり」
ここで述べられている「宇宙と人間」とは下図であるが、安政五年(1858)二十三歳時に創りあげた思想体系であって、この四カ月後に安政の大獄(九月)が始まった時期であった。
最初に気づくのは「宇宙界」という言葉を持ってきていること。当時の人間で、まして封建社会の武士階級身分の人物が、「宇宙」という今でも新しい響きを持たせる言葉を使っていることに驚きを禁じえない。
加えて、この図に徳川幕府という表現がないことにも、徳川家の旗本である立場からは奇異で斬新で、とうてい考えられないことである。
更に、日本国を「公卿」「部門」「神官、僧侶、諸学者等」「農、工、商、民」と四区分しながらも、その区分間に身分差なく、公平に並べ扱っていることにも驚く。「上下尊卑の別あるに非ず」、つまり、人間に本来貴賎の別はないことを明言しているが、これは民主主義の原点思想であり、これを当時二十三歳の下級一旗本が述べていることをどのように理解したらよいのだろうか。
多分、民主主義という言葉と内容は、まだ日本には伝わっていなかったと思われる時代に、既に鉄舟は図に記しているのである。驚くばかりであるが、このような哲学思想を若くして創り上げ、それを変えずに持ち続けたことこそが、上野大慈院の一室で、慶喜に対し尊王論と勤王論を見事に整理区別し、論破・説得できた背景に存在するのだろう。
そのことを眞山青果は「朝廷に奉仕すること」から「宇宙と人間」を知り、その哲学思想を文章化し、「将軍江戸を去る」の中で、鉄舟に熱弁をふるわせたと考える。
鉄舟は、明治天皇、将軍慶喜という時代をつくり、動かしてきた人物に、自らの基盤である思想哲学をもって体当たりし、ぶつけ、多大な影響を与えたのである。
したがって、このような鉄舟であるから、当然ながらその他にも大きな影響を受けた人物が数多くいる。
その最初として次号から「東海遊侠伝」の検討に入りたい。
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