2021年9月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    

最近のトラックバック

無料ブログはココログ

« 明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の十五 | トップページ | 5月例会は「新選組のふるさと・・・日野を歩く」です »

2014年4月12日 (土)

明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の十六

明治天皇は「大日本帝国憲法は、自らがつくった欽定憲法である」という認識を強く持ち、そのことを誇りにしていたという。

その背景には、憲法制定検討会議に全て臨御され、条文解釈を徹底的に行い、天皇としての自らの立場と位置づけを納得され、国民に公布したという経緯があるからである。したがって、憲法への理解度は、伊藤博文枢密院議長と並ぶほどであったと思う。

その結果、天皇としての行動は、憲法と皇室規範から下されるので、常に判断にブレが少ない。つまり、体得された基準から意志決定を行うので、妥当な判断が可能となって、伊藤之雄が「明治天皇」で述べる「明治天皇の絶妙なる政治関与」という状況となり、そのことは諸外国のマスコミが伝えた、故明治天皇を称える哀悼の論評からもわかる。

「君主たるミカドの人格というものが無かったならば、政治家たちもあそこまで仕事を遂行することは出来なかったろうし、また遂行するにあたってもっと時間がかかったに違いないということである。ミカドが備えていた資質の中に人間を見抜く能力があって、これは恐らく一国の君主が持つべき資質の中で最も貴重なものである。憲法欽定に先立つ会議に欠かさず出席したことにも示されたように、ミカドは国事に熱心かつ勤勉だった。また細かいことに到るまで記憶力に優れ、肉体的、精神的ともに極めて勇気があった。またミカドは、自身の個人的安楽をまったく顧みることがなかった」(The Globe紙 ドナルド・キーン「明治天皇」)

この記事を書いたグローブ紙の記者は、どのように情報を入手したのか。多分、明治天皇の側近であった日本人が外国の報道機関に「洩らした」と推測し、それを敷衍するならば、天皇側近たちは、天皇の資質という個人的能力を高く評価していたことがわかる。

その通りで、明治天皇の個人的能力が優れていたことは、既に何回となくお伝えしているが、政治面で仕えるのは、伊藤博文、山県有朋、西園寺公望、桂太郎等の政治家と官僚たちで、全員卓抜な才能をもつ人物であり「その持つ能力」を天皇に提供することで任務を全うしていた。

そこで、仮に、これら優れた能力を持つ提供者に、明治天皇が同じく個人的能力で対応していたならば、どういう状態になったであろうか。

多分、それは政治家・官僚たちから反発を受け、グローブ紙が述べる「政治家たちもあそこまで仕事を遂行することは出来なかったろう」という評価にはならなかっただろう。
明治天皇の人格と能力、それに加えて憲法と皇室規範によって鍛えたブレない判断基準があったからこそ、素晴らしい治世を四十五年間も続けられたのである。

しかし、明治天皇の立場になって考えれば、憲法と皇室規範に基づく行動とは、立憲君主制国家での法制上から発するものであって、それは自然人としての人間である部分を少なくさせる結果とならざるを得ない。

さらに、政治家や官僚も同様で、法制的存在という立場から天皇に接することになり、その場合も自然人としての行動はとれない。

したがって、天皇と政治家・官僚の関係は、親密な報告・連絡、奏上はあるものの、そこには人間的な親密さに欠けることになる。

つまり、好きな人間としては、政治家・官僚とは接し得ないのである。

そこでもう一度、司馬遼太郎の言葉を借りたい。(司馬遼太郎対話選集4 近代化の相克)
「あの人(明治天皇)の好きな人は、山岡鉄舟、元田永孚(えいふ)(注 ながざねともいう)、西郷隆盛、乃木希で、きらいなのは山県有朋、黒田清隆です。要するに男性的な人物が好きだったようですね」
司馬遼太郎が述べる好きな人物とは、少年天皇として京都御所から東京に来て、最初に軍の統率者たるべく指導を受けた西郷、その西郷の推輓で侍従となった鉄舟、大久保利通の推薦で熊本の中流武士階級から、侍読として宮中に入り、学問を通じて帝王学を講義した元田、加えて、乃木は長州藩支藩の長門府中藩(ながとふちゅうはん)出身であって、この四人に共通しているのは武士出身ということである。

勿論、伊藤博文、山県有朋、黒田清隆も武士出身、さらに、日露戦争当時に軍司令官であった大山巌、黒木爲楨、野津道貫たちも武士階級であったが、明治天皇の前では法制的存在であり、臣僚として行動することになる。

ところが、この四人は臣僚ではなく、別の立場から天皇に接していて「好きな人物」という評価を受けていたが、それには明治天皇に何か一つ隠された大きな区別基準、物差しがあるはず。それは何か。

西郷は「天皇が落馬して痛いと言った時、西郷は、どんな事があっても痛いなどとはおっしゃってはいけませんとたしなめたという」(明治天皇 伊藤之雄)、これは臣僚としての立場ではない。昔の家老や側仕えが大名の嫡男を育てようとしているときの接し方である。つまり、臣僚でなく家来といえる。

家来とは、主君や主家に仕える者、古くは家礼、家頼などと書き、家来は中世以降で使われたが、もともと親・尊族を敬い、礼を尽くすこと、転じて、他人に礼を尽くすことという意味合いを持っている。西郷は家来として明治天皇に仕えたのである。

この西郷の推輓で侍従となったのが鉄舟である。鉄舟は今まで見てきたように一種の求道家である。無私ということをもって、大悟する目標とした。そのために剣を追求し、禅によって剣機を悟り、無刀流を創始し、春風館をひらいた。

鉄舟の明治天皇への仕えも家来であった。司馬遼太郎は「殉死」で次のように鉄舟を語っている。
「中世の頃、草深い関東の野で鎌倉武士たちがつれて歩いた郎党、郎従、家ノ子といわれる存在にちかいものが山岡鉄舟であり、それであればこそ、帝は鎌倉武士がその郎党を愛したように鉄舟を愛した」「山岡鉄舟から人間としての骨格(こつがら)をつくるためのなにごとかを学ばれた」

鉄舟は家来として明治天皇に献身していた。例えば、明治六年(1873)、皇居が炎上した際、淀橋の屋敷で変を聞き、寝巻に袴をつけて、韋駄天の如く人力車を走らせ駆けつけたが、天皇の御寝所には鍵がかかっていた。鉄舟がその扉に体当たりし、破り、御寝所に飛び込んだとき、「山岡か! 待っていたぞ」という言葉、ここに鉄舟へ深い信頼と愛情が表れている。

明治九年(1876)、東北へ巡幸された際、皇后は西郷が下野している上に、東北の地は戊辰戦争で官軍に抗したところであり、何か問題が発生し、その際、留守中での対応について、特に心配されたが
「案ずることはない。山岡がついている」
という明治天皇の一言で出発された。鉄舟への信頼は厚かった。

しかし、その鉄舟は明治二十一年(1888)五十三歳で病没した。まだ亡くなるには惜しい年齢である。正に天皇にとって郎党、郎従、家ノ子というべき鉄舟の死は、心に深い痛手としてのこった。
鉄舟に続いて、明治二十四年に元田も病没した。侍読として学問を通じ帝王としての姿を説き続けた元田、その死も明治天皇には深い痛手となった。家来的存在がいなくなったのである。

そこに表れたのが乃木希典である。鉄舟と元田の死後、明治天皇の乃木を見る目が変わっていった。鉄舟に似ているという気持ちから、鉄舟に代わる対象として見だしたのではないか。

乃木には鉄舟が持つ禅的明朗さはない。鉄舟ほどの天性からの叡智もない。鉄舟のような剣の悟達者でもない。鉄舟のように威風を感じさせる肉体条件も持っていない。

だが、ひとつ共通するのは武士らしさであり、古格な武士の規範のなかで生死しようとしている生き様である。

乃木の生まれは長州藩支藩の長門府中藩、長府毛利家の藩邸長屋である。場所は港区麻布北日ケ窪町、今は六本木六丁目、六本木ヒルズの位置するところである。
この長府毛利家は、元禄十五年(1702)の赤穂浪士の仇討で、捕縛された義士のうち十人を預かった。他に細川家、久松家、水野家の四家が分担し預かり、長府毛利家に預けられた十人は、150年ばかり後の嘉永二年(1849)に乃木が生まれた長屋で切腹している。
当然に乃木はこの経緯を聞いて育っているだろう。それを司馬遼太郎「殉死」は次のように語っている。

「子どものころにその切腹の光景の酷(むご)さを極彩色に想像しつつ戦慄したかもしれないし、同時にこの詩人としての感受性をもっていた少年は、そういう最期を人としてもっとも美しいものとして思ったにちがいない。さらに連想はとぶが、乃木希典は軍事技術者としてほとんど無能にちかかったとはいえ、詩人としては第一級の才能にめぐまれていた。その中国音の韻律のうつくしさと正しさは、『古来、日本人としてはまれではないか』と、中国人でさえほめている」

文部省唱歌と認定されている「水師営の会見」佐々木信綱作詞・岡野貞一作曲であるが、幼少時代に親から何度も聞かせられ、記憶に残っている。読者も同様ではあるまいか。
旅順開城約成りて 敵の将軍ステッセル
乃木大将と会見の 所はいずこ水師営

庭に一本棗の木  弾丸あとも いちじるく
くずれ残れる民屋に 今ぞ相見る二将軍

乃木大将は おごそかに、御めぐみ深き大君の
大みことのり伝うれば 彼かしこみて謝しまつる

昨日の敵は今日の友  語ることばもうちとけて
我はたたえつかの防備 かれは称えつわが武勇・・・(以下略)

両軍合わせて約8万7千人もの死傷者を出した旅順攻囲戦でロシア軍が降伏した後の水師営の会見での記念写真がある。通常、降伏した側は帯剣を許されないが、「武士の名誉を保たしむべき」ということからステッセル将軍以下、軍装の上、勲章をつけ帯剣していた。
 同地にはアメリカの従軍映画技師もいて、この会見を映画撮影したいと申し入れていた。しかし、乃木将軍は敗軍の将にいささかも恥辱を与えてはならないとこれを許さず、この一枚の記念写真だけを認めたのである。
 

会見の模様は、この写真とともに全世界に報道された。武士道精神に基づく乃木のステッセルへの仁愛と礼節にあふれた態度は、世界を感銘させた。

 この六年後、乃木はイギリス国王戴冠式に参列される東伏見宮依(より)仁(ひと)親王に東郷平八郎とともに随行してイギリスを訪問したが、イギリスの一新聞は「各国より多数の知名の士参列すべきも、誰か東郷、乃木両大将とその光輝を争いうる者があろう」と報じた。

乃木の経歴を見ると面白いことに、明治四年(1871)二十三歳でいきなり陸軍少佐に任じられていることである。

それまでの兵歴はそれほど目立つものはない。幕末、長州藩が幕府と戦ったとき、乃木も十八歳で出戦したが負傷し、藩に戻り、明倫館文学寮に入ったが、この時点で自分の詩人的体質に気づいていた。

その後、伏見の御親兵兵営でフランス式教練を一カ月間受け藩に戻っていたところ、明治四年に少佐として任命されたのである。何かの軍歴上の功績があったわけではない。

明治八年(1875)、熊本鎮台歩兵第十四連隊の連隊長心得に任命。その二年後に西南戦争、この戦争で軍旗を奪われるという事態を起こした。

奪われた軍旗を薩摩軍が陣頭にかざして官軍に見せびらかしたため、乃木は死を冀(こいねが)*い、それからの戦場でしばしば危地に立とうとし、山県有朋中将に隊罪書を送り、進退を伺ったが不問に付せられた。この軍旗事件で乃木は、その名を世間に知られることになった。

西南戦争後は歩兵第一連隊長へ栄進したが、生活は後年の乃木とは別人で、料亭で毎日のように酒を飲み、素面で帰宅することは稀であった。

三十歳で結婚したが、この素行は変わらず、夫人静子は二児をつれて別居したこともあるほどであった。

ところが乃木の人格を一変させる事態がおきた。それは明治十九年(1886)、三十八歳のときのドイツ留学である。帰国した乃木は、性行、容儀、嗜好、日常習慣といったものすべて一変させた。別人となって帰国したのである。

留学前は、紬の着物を着て、角帯を締め、料亭に出入りしていたのが、帰国後は、日常から軍服を着用、帰宅しても脱がず、寝るときも軍服のまま寝る。

続いて、名古屋の歩兵第五旅団長になり、まもなく休職、再び歩兵第一旅団長となって日清戦争に従軍、中将となり男爵を授けられた。

明治三十四年(1901)に再び休職、那須の別荘で農人の生活に入った。この時期が最も乃木は気に入っていて「自分の生涯は、山田の案山子である」としばしば洩らしている。

明治三十七年(1904)、日露戦争勃発。乃木は第三軍司令官として旅順に向かった。旅順での戦いぶりについては、既に前号でお伝えしている通りである。

軍旗事件から二十八年過ぎた日露戦争前の明治三十五年(1903)、明治天皇は陸軍秋季大演習のため九州に行かれたとき、西南戦争の激戦地である田原坂を通られた際、次の御製を詠まれて、侍従の藤波言忠に筆写させ、乃木にあたえよと命じられた。

もののふの攻めし戦ひし田原坂
       松も老木(おいぎ)になりにけるかな

これは乃木に対して、他の将軍にはない特別な感情があることを示している。では、いつから明治天皇はこのような感情を乃木に持たれたのか。

それには三つの背景があると推察する。

一つは軍旗事件、もうひとつはドイツ留学後の豹変によって乃木に関心を持たれたこと。加えて、三つ目が重要である。乃木の明治天皇に対する他者とは異なる態度からである。
帰国後、乃木は山鹿素行の諸述を読み漁った。反復し熟読した。特に素行の秘著「中朝事実」、これは「日本は外国に支配されたことがなく、万世一系の天皇が支配して君臣の義が守られている。中国は中華ではなく、日本こそが中朝(中華)である」というのが、この書の主張であるが、日夜これを手写し、写し終ると更に写し人に与え、自らは写したうえ更にそれを読んだ。

「この道統(中朝事実)には、大石内蔵助良雄と吉田松陰、そして西郷隆盛がいる」と五十代のころ、その副官に語ったことがある。(司馬遼太郎「殉死」)

乃木は度々の休職中も、年に一度の陸軍大演習には必ず出ていった。休職軍人や退役軍人は通常出る義務はなく、出ても用事はなかった。

だが、乃木は必ず出て、明治天皇の傍らで佇立し、常に天皇に気を配っていた。それは天皇を守護するがごとくであり、かつ傍近くに行くことを遠慮するごとくであり、一種いい難いはにかみとも、恥ずかしさともいえるものであった。

「乃木は感心である」

「誰でも休職になれば、ほとんど演習には出て来ない。が、乃木は必ず出て来て、あのように雨にぬれそぼっている」

この姿を誰とオーバーラップされるだろうか。鉄舟である。

鉄舟も乃木も明治天皇を近代国家の法制的君主として尊崇するのでなく、天皇を田舎の土豪であって、自分はその土豪の郎党、郎従、家ノ子であるような感覚をもっていた。
当然ではあるが、明治天皇は乃木に対して特別な感情、愛情をもつことになる。
それが旅順の戦い状況の乃木更迭御前会議での、異例な第三軍激励の勅語下賜となり、更迭はなされなく、日露戦争から凱旋した翌年の明治四十年(1907)に学習院の院長に任命し、更に、宮内省御用掛を命じた。

その結果として、乃木は足しげく参内することになる。単なる華族では、年に数度、定められた日に儀礼の奉伺をするだけであったが、学習院長と宮内省御用掛という二つの職があるので、必然的に参内が毎日のようになる。

天皇も「今日は、乃木は来ないのか」と侍従に聞かれるほどの関係になった。
日露戦争から凱旋し、明治三十九年(1906)一月十四日、明治天皇に戦役の経過を奏上した際の最後に「微臣の罪、正に万死に当ると存じ、恐懼に堪えません。願わくは、臣に死を賜え、割腹して罪を謝し奉りたい」と乃木が言上した。

明治天皇は、退出しようとした乃木を呼びとめられ、「卿もし死を願うならば、われの世を去りてのちにせよ」と仰せられた。

この「お言葉」には西郷、鉄舟から続く、土豪の郎党、郎従、家ノ子という感覚の武士を求めた明治天皇のお気持ちが籠められていたのである。

これで明治天皇に対する、西郷、鉄舟、乃木の精神的役割についての考察を終えたい。
次号からは新たなるテーマに入る。

« 明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の十五 | トップページ | 5月例会は「新選組のふるさと・・・日野を歩く」です »

鉄舟研究」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の十六:

« 明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の十五 | トップページ | 5月例会は「新選組のふるさと・・・日野を歩く」です »