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2014年4月12日 (土)

明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の十五

日本の首相が毎年コロコロと変わるのは問題である。これは日本人なら誰でも認識している。では、どうして問題なのか、と問うと、人は一瞬、黙る。多くの人は問題を具体的に考えず、一般論として受けとめやすい。

今の日本での首相という役目は、日本国のリーダーで、日本国の方向性を指示する人である。だから、その首相が毎年コロコロ変わると、指示の方向性がぶれてしまい、継続性が薄く、前首相の方針は掻き消えていく。「脱原発」を提唱した菅元首相の事例を見ればよくわかる。したがって、国民も官僚も一歩下がって、またコロっと首相が変わるかもしれないと、様子見を繰り返すことになる。

その結果、国家としての歩みは弱弱しく、他国からみると消極的な姿勢に見え、国際間での位置づけで徐々にひ弱くなり、そこに領土問題で付け込まれる事態となる。

ところが、明治時代は違った。明治天皇が国家君主として四十五年六カ月に及ぶ治世を行ってきた。つまり、一人でのリーダーシップが続いたわけである。その結果は、誰もが認める国家隆盛期となった。いかに有能な人材による、長期にわたる国家リーダーが重要で大事であるかということがわかる。

しかし、明治天皇が即位された当初から、有能であったとは言えない。明治(1868)と改元した当時は、まだ十五歳の少年であったから、維新に始まる数々の重大な変革に天皇が何らかの重要な貢献をなし得たとは考えにくい。

伊藤之雄がその著書「明治天皇」で「明治二十二年(1890)代以降、明治天皇は絶妙の政治関与を行っていった」と、優れた政治への関与をし始めた時期について述べているが、そこにいたるまでにはどのような契機があったのだろうか。

明治天皇の内面への影響については、既に鉄舟であることを本稿で示唆しているが、政治に絶妙な関与ができるようになった具体的な切っ掛けは何か。

これについて少し検討してから、乃木将軍との関係に入りたい。

実は、伊藤之雄が指摘するタイミングよりもっと早く、明治天皇は積極的に自らの意志を示し始めている。例えば、

① 明治十四年(1881)の新年年賀を行うに当って、井上馨外務卿が外国公使夫妻は賓客であるから、第一次に拝賀を許すべきと奉請したが、明治天皇は「新年拝賀は君臣の礼を正しくするのが第一の目的である」と伝え、大臣・参議や各省の長官らを第一とする方針を変えなかった。

② 参議兼海軍卿の川村純義が、外国の例に倣い、新造軍艦の名として歴代天皇の尊号と武臣の名を使おうとし、尊号使用の可否について徳大寺宮内卿に問い合わせた。これに対し、明治十六年(1883)に尊号は使わず日本の旧国名を使うべきと明治天皇は考えていると、徳大寺は川村に伝え、その通りに実施された。なお、現在の海上自衛隊では戦艦、巡洋艦、駆逐艦の艦種の区別はしておらず、一様に護衛艦と称しており、名づけは海上自衛隊の訓令に規定されている天象・気象・山岳・地方名を使うことになっていて、ヘリ搭載護衛艦が「ひゅうが」「いせ」などが命名されている。

③ 皇居が明治六年(1873)に焼失し、その再建について、明治十六年(1883)に本格的な西洋建築案と、日本建築案とが提案され対立したが、明治天皇は軍拡のため増税をしている折であり、国民負担を考慮し、建築費用の安い和風建築にするよう指示した。
等であり、これらは宮中に関するものであるが、天皇が自らの意志をもって、それらに関与し始めていた。

では、「政治に絶妙な関与ができるようになった」具体的な切っ掛けとは何か。それは憲法であった。

明治十四年(1881)に十年後に憲法を制定し、国会を開くということが決まった。そこで、伊藤博文は憲法調査のため、明治十五年(1882)三月から翌十六年八月までという一年半もの間、ヨーロッパに出かけた。

ヨーロッパで伊藤に最も影響を与えた人物は、ウィーン大学のシュタイン教授であった。伊藤はシュタインから「憲法の下に君主権を制限していく」というヨーロッパ最先端の考え方を学び、それを日本に導入したのである。

この考えを別の表現におきかえるならば、天皇を現人神から「人として十分なる尊敬される」立場に変更し、一方、天皇は憲法によって「一定の限界以上は決して侵させない」ようにすることであったが、そのために不可欠な条件は、明治天皇がこの考え方を受け入れるということであった。

そこで打った次なる一手は、明治天皇から信頼の厚い侍従の藤波言忠(公家出身)に憲法を学ばして、天皇に講義させるべく、藤波をヨーロッパに派遣したのである。

当時、藤波は馬掛主任の地位にあったように、馬が専門でドイツ語も英語も不得手であったが、通訳掛として新山荘輔をつけ、ウィーンでシュタインの講義を受けた。
藤波は過度の勉強の結果、精神疾患になるほどであったが、二年三カ月ぶりの明治二十年(1887)に帰国した。若いとはいえない藤波が、遠い異国で必死に専門でない憲法を学び、精神疾患になったという事実、明治天皇はこういう愚直なまでに努力する人物を好きであった。

この藤波から二~三日に一回というペースで、午後九時半から十時までという時間帯に、美子皇后と一緒に受け、明治二十一年(1888)に講義は終った。

この間、藤波の講義は三十三回にも及び、両陛下は熱心に耳を傾け、納得できないところは藤波に質問し、藤波が即答できないときは、新山に調べてもらい、改めて奉答するという、極めて真摯な両陛下の受講姿勢であった。

この藤波の講義の後、明治二十一年に枢密院、これは憲法と皇室規範等の重要法令を審議するために設置されたものであるが、ここで天皇が臨御(りんぎょ)し議事を聴くという意志を自ら述べ、憲法と皇室規範等への制定に強い意欲を示された。

枢密院は、五月から審議に入り、七月に議了したが、これら審議のすべてに出席し、修正事項は朱書にして提出させ、理解できないところは伊藤枢密院議長を召しい説明を受けた。季節は夏に向かい、窓を通して暑い日差しが入っても、明治天皇は暑さを訴えることなく、常に真剣であった。

憲法と皇室規範審議の後は、議院法・会計法等の憲法付属法案の審議を行い、明治二十二年(1889)二月に終了したが、これにも明治天皇は毎回臨御した。

この審議期間中、昭宮(あきのみや)(猷(みち)仁(ひと)親王)が脳膜炎のため逝去した。昭宮は明治天皇の第四皇子であり、一歳二カ月を過ぎたばかりの可愛い盛りであったが、議場で昭宮の逝去を聴いた明治天皇は「むう、むう」と頷いたのみであっという。

伊藤は議事を中止しようとしたが、許さず、審議は続行された。午後三時に審議が終り、明治天皇が議場を去った後、伊藤は他の審議者に昭宮の逝去を告げた。その場のすべての者が恐れ入りかしこまり、明治天皇の法制定にかける決意に感動した。

これらの審議において、明治天皇は直接には意見を挟まないものの、原案や修正点をよく理解したうえで承認したので「大日本帝国憲法は、自らがつくった欽定憲法である」という認識を強く持ち、そのことを誇りにしていたという。

つまり、大日本帝国憲法は万世一系の天皇が統治する(第一条)とある一方で、天皇の統治は憲法の条理により行う(第四条)という限定がついていたことを、よく分かっていたということであるが、これは重大な意味合いをもっている。

それは、天皇としての行為範囲を承知している、つまり、天皇としての行動権限と、行動限界範囲を悟り納得していたということである。言葉を代えていえば「自らの行動判断基準」を身につけられたということになる。

それまで明治天皇は、帝王として必要な学問を一応学んでいたが、それよりは馬術にのめり込み、酒を好み、どちらかといえば勉学は得意ではなかった。だが、この憲法制定過程では、徹底的に検討し、問題点の把握と、自らの立場の検討を行ってきたことを通じ、その後に発生した問題・事件に対してどう立ち向かうか、という判断基準を体にしみ込ませたのである。

その体得された基準から意志決定を行うので、妥当な判断が可能となって、伊藤之雄が述べる「明治天皇の絶妙なる政治関与」という状況になったのではないかと考える。

人はある一定の境地、囲碁将棋棋士や画家や一流スポーツ選手でいえば名人の域に達すると、そこから世の中がよく見えるようになるという。鉄舟の大悟という心境に近いレベルと考えられるが、明治天皇も同じではなかったかと思う。

脳の中に妥当な判断基準を持つことが出来れば、その人は素晴らしい才能を発揮するという事例が明治天皇で、それが政治への絶妙な関与となって顕れたのだと考えている。

 さて、乃木将軍に入る前にもうひとつ横道に入ることをお許し願いたい。
 先日、千葉県館山市に祭りの取材で伺った。日本各地を訪ね、その地を欧米人観光客に立ち替わって見つめてみると、残念ながらその外見景観は魅力に欠ける。特に酷いのは街並みである。
 明治時代から昭和前期までの、一定感のある落ち着いた宿場町・街道筋であったところが、今は新しい建築様式で、それも様々な家並み、個性というよりはばらばらの街づくりとなって、過去とは比較にならない猥雑な状況となっている。
 したがって、欧米諸国では古い町並みが観光資源として成り立つが、日本では無理であり、別の角度から欧米人対策を講じなければならない。

 その第一候補は文化である。日本の文化は優れている。特に、食については「和食」として世界に冠たる位置づけとなっている。

食の次は祭りではないだろうか。日本全国いたるところで毎日のように祭りがある。日本人は祭り好きであり、その祭りを訪ねて観光客が集まってくる。京都「祇園祭」、大阪「天神祭」、東京「神田祭」、東北の「ねぶた祭」、九州の「博多どんたく」、「長崎くんち」のように人気の祭りには大勢の観光客が集まる。

しかし、各地方にも独自の趣向をもった素晴らしい祭りがたくさんあって、それらを欧米人に的確に紹介できれば、その地に観光客は訪れることになるだろう。

という目標をもって、房総半島最南端の小さな漁村・布良(現・館山市富崎地区)に伺った。そこで布良﨑神社と保管されている神輿を拝見し、境内の中にある集会所で、地元の関係者の方々からいろいろ教えてもらっているうちに、ふと、壁にかかった一枚のポスターが目に入った。
「布良という聖地に行こう・青木繁が『海の幸』を描いた漁村」とある。青木繁は、日本で初めて国の重要文化財に指定された西洋画「海の幸」の作者であり、満二十八歳という短い年月の中で、後世に衝撃を与え続ける人生を突き進んだ、史上稀にみる「天才」として知られている。その青木繁と、この布良が関係あるのか。

その質問には、布良漁業組合長の島田吉廣氏が「芸術新潮2011年7月号」で以下のように語っているので、それを紹介したい。
「<海の幸>の構図は、神輿を担いでいる男衆そのものですよ。ほら、前の男は前後姿勢、後ろは直立しているでしょ。しかも明治の頃だと、神輿を担ぐ男衆はふんどし姿だったはず。ちょうど青木が滞在した小谷家のすぐ隣には、布良﨑神社がある。夏祭りは8月1日だったから、まず間違いなく見ているはずだね。小谷喜録は地元の世話役だから、若い青木らに神輿を担がせたんじゃないかな。でもね、この神輿は館山で一番重くて、800キロもある。40~50人で担ぐんだけれど、普通の体力の男なら2分ともたないし、激しく揺らすものだから、担ぎ棒が激しく肩に当ると血が出ちゃう。好きな人の傷を早く治すために、おしろいを塗るのが、布良流のバレンタインデーってやつなのよ。青木とたねも、案外そんなことやっていたんじゃないのか」

青木繁は明治三十七年(1904)の夏、福田たね、坂本繁二郎ともう一人の男と布良に来て、小谷家に寄寓して描いた絵が「海の幸」なのである。
この小谷家から最近、鉄舟の書が見つかったことも面白いが、それより島田吉廣氏がつけ加えて、次のように筆者に語ったことが忘れられない。
「日露戦争当時、兵隊に徴集された男衆、もう二度と布良には帰れない。残るのは女衆だけだ。そうなれば祭りでこの重い神輿も担げない。だったら神輿は要らなくなる。ということから海に捨てたという。当時は今の800キロと、それより重い1トンを超える二つの神輿があって、重いほうを捨てたのだ」と。

この語りを聞いて、関心は青木繁から乃木将軍に突然に移った。日露戦争における旅順の戦いの第三軍司令官は乃木希典将軍である。
乃木将軍の戦いは、将兵達が、ただ前進、ただ攻撃のために戦闘を展開し続けた。「師団が数回の突撃も効を奏さず、今はただ、残兵を集めて唯一回の突撃を行わんのみ」という司令官から出る突撃命令に従うというだけが目的で、突撃の成否は殆ど顧みられない。決死隊でなく、文字通り必死隊であった。
相次ぐ消耗戦は、招集された未熟な兵で補充される。長く戦った兵と、補充された兵とでは、戦意や戦術において格段の差があるが、だが、そのような差なぞ関係なく、ともに突撃し、ともに戦死するという結果であった。
「旅順に向かう者は、士気消沈すること屠所の羊の如し」という状況で、これが国民の間に伝わり、軍を非難する声が高まるばかりであった。
それを証明するのが、布良の島田氏の語りである。旅順に行けば全員戦死となる。ならば、祭りの神輿は二つも要らない。担ぐ人がいなくなるのだから不要のものだ。ということになる。日露戦争は地方の一漁村の祭りにまでも影響を与えていたことが分かる。

非難は国民の声だけでなく、大本営、満洲軍司令部など軍事専門家の中にも当然あり、明治天皇にも伝わっている。

侍従の日野西資博によると、天皇は旅順攻撃に多数の戦死者を出している状況について「乃木もアー人を殺しては、どもならぬ」と述べたという。(「明治天皇」伊藤之雄著)

明治天皇も乃木将軍の指揮には心を痛めていたのであるが、乃木更迭の御前会議では、異例の第三軍激励の勅語下賜となって、更迭はなされなかった。
旅順の戦いは、結局、満洲軍司令部から児玉源太郎大将が出張り、直接に戦陣を改め、僅か二日にして、半年にわたる消耗戦を逆転させ、その後、一か月を経ず、ステッセルは旅順の開城を申し入れてきた。(「軍神」福岡徹著)

日露戦争は、その後、日本海海戦の勝利とともに、日露休戦から講和となり、乃木将軍は東郷提督とともに二大英雄として、国民の畏敬の対象となった。

ここでまた脱線話となるが、先日、館山の帰りに岐阜県高山市に向かった。用件は勿論、鉄舟の資料集めである。
鉄舟の父が代官として江戸から赴任し、高山の地で少年時代を過ごしたのであるが、ここでの体験と学びが、後日の江戸無血開城と明治天皇扶育に大きく影響しているはずで、そのためには高山という土地について研究する必要があり、年に数回訪れている。
今回は、地元で生まれ、地元で育ち、今も代官所近くに百三十年以上経過する典型的な飛騨造りの家屋、裏庭の向こうには土蔵があり、最近、この土蔵を修復したという年配の女性宅を訪ねた。

土蔵の修復工事ができる建築会社は、今では限られているが、これからも土蔵を活用する生活を続けるので、修復したのである。また、このお宅の居間、四方を高山の和紙で貼られた障子に囲まれていて、そこでお話を伺ったが、意外に暖かい。和紙の障子紙は暖房効果がよいので、雪深き寒い高山であるが、各家庭は障子を多用している。

高山の昔話をお聞きしているうちに、そういえば市内中心地にあった南小学校が、駅の反対側のところに移転した。その際、乃木大将「お手植えの松」というのも大事に移植され、市の保存樹として今でもしっかり管理されているし、桜山八幡宮の入口わきに乃木将軍の直筆石碑が建っているという。

高山に乃木将軍が来ているのだ。特に飛騨地区からは戦役に駆り出された人が多かったと地元の人が語る。乃木将軍は戦死者の遺族を訪ねる旅を続けていたのだが、その敬虔ともいうべき将軍の態度に、受けとめる方は「日露戦争の英雄」として対応し、各地で「万歳!万歳!」と迎えられていた。

その結果が、小学校校庭の「お手植えの松」として雪の中に立派な枝ぶりとして遺っているのだ。

将軍の人気はその後も落ちることなく、自刃にいたって、その絶頂に達する。
乃木将軍は、明治三十九年(1906)一月十四日、明治天皇に戦役の経過を奏上した際の最後に「微臣の罪、正に万死に当ると存じ、恐懼に堪えません。願わくは、臣に死を賜え、割腹して罪を謝し奉りたい」と言上した。
明治天皇は、退出しようとした乃木将軍を呼びとめられ、「卿もし死を願うならば、われの世を去りてのちにせよ」と仰せられ。
これをどのように理解したらよいのか。この「お言葉」に西郷、鉄舟、乃木へと続く何かが隠されているはず。次回でそれを解明したい。

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