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2014年4月12日 (土)

明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の十四

明治天皇は鉄舟が亡くなった年に描かれた軍服姿のご真影によって、明治時代を統治するにふさわしい天皇像となり、聖なるものへ昇華し、時間を超えても変わらず存在し続けた。と前号で述べたが、一方、意外に庶民性を持つ一面も持たれていたのも事実である。

 人間はひとつの面だけではないということで、それをドナルド・キーンが次のように語っている。(NHKラジオ深夜便・明治天皇を語る2002年10月17日)

「(キーン) 江戸時代の天皇の存在感は非常に希薄なものでした。しかし、明治時代になると事情が変わりました。天皇は大きな存在となり、常識があり、公平で、信頼できる人間的美徳の持ち主として、たとえば拮抗する二大派閥間で争いが生じたとき、天皇にご聖断を仰げば、公平なご裁断をいただけるのではないかと期待する雰囲気が自然にできあがっていったのです。
 また明治天皇には、もうひとつの側面があります。それは、一般庶民と共有する花火大会にご臨幸されたり、気球を揚げるのを民衆とともに観覧されたりしています。ご自分を特別な存在であるとか、一般民衆と異なる喜びを持っているという気持ちはありませんでした。初めて映画をご覧になったとき、あの時代のことですから幼稚な内容のものだったと思いますが、大変楽しまれたようです。蓄音機も大好きで、軍歌を聴いて喜ばれていました。

 ------神のような存在で、いかめしいヒゲを蓄えた肖像画の印象が残っていますが、お話をうかがっていると身近な存在に思えてきます。

 (キーン) まったく、そのとおりです。当時、明治天皇のご消息はしばしば新聞に出ていましたし、『天皇と皇后の関係』などという記事が掲載されていました。その後、時代の変化とともに皇室の位置が変化し、そのような記事が掲載されるようなことはなくなっていきました。」
 これで分かるように、明治天皇はある時期、それは鉄舟が侍従であった前後頃ではないかと推測するが、生活を垣間見ることが出来る記事が新聞に掲載されるような元来ユーモアをもつ人物なのである。
ただし、そのユーモアは「機知というよりは、むしろ男っぽい快活な精神から生まれたものだった」と、次の逸話を日野西侍従の回想からドナルド・キーンは取り上げている。
 「ある日私が出ましたらたいそう御笑いになってをりまして、昨晩面白いことがあったといふ御沙汰でございますしたから、何でございますかと御伺ひ致しますると、『昨晩は隣室に山口がをって大きな鼾をかいて、綾小路が歯ぎりする、鼾と歯ぎりの掛合で面白かった』といふ御沙汰であります。山口が丁度御側にをりまして『いや、御上もたいそう大きな鼾を御かきになったやうに存じます』と申し上げますると、御上もたいそう御笑ひでございました」
 加えて、政治関与への巧みさについても述べている。(ドナルド・キーン・NHKラジオ深夜便)
 「明治天皇がもし、政府の方針に横やりを入れたり、内閣の人事に介入したりするようなことがあったならば、日本の近代化はありませんでした。すぐれた人物があの時代に多く輩出したことは事実ですが、彼らの優秀さを認め、すべてを任せたことが大帝明治天皇の偉大な点であったと思います」

この優れた政治への関与については、伊藤之雄も「明治天皇」で同様のことを指摘し、その時期についても特定している。
 「1890年(明治22年)代以降に絶妙の政治関与を行っていた明治天皇の資質や人間性に、それまで以上に魅力を感じるようになっていたから、というのが明治天皇を引き受けた一つの理由であろう」と、著書「明治天皇」を書いた動機を、天皇の魅力にあったと語っている。

この絶妙の政治関与、その始まりタイミングが、鉄舟逝去した時期(明治21年)頃とあいまっていることを認識すべきではないかと思う。
 つまり、少年天皇として即位され、皇居内という限られた環境下で行動されていた明治天皇が、年代を経るごとに深化され、政治家をも巧みに動かす人物にまでになられた要因背景を注目すべきという意味である。
政治への関与をなされるということは、世界や日本の実態と社会全般への幅広い認識、他者の人物鑑定力にも優れていなければでき得ず、また、その関与が機微に通じていたということは、時事を含めた下世話な出来事にも関心持って、情報を入手し把握しようとしていたと考えるのが自然である。

では、その情報入手把握をする付与条件は何であったか。多くの要因があると思われるが、やはり、鉄舟という存在と、その人間性の幅広さが影響を与えたと考える。
 鉄舟は、剣豪として名高く、武骨なイメージで受けとめられやすいので、近寄りがたき存在と思われるが、実際の鉄舟は面倒見の良い、世話好きであったことを「おれの師匠」(小倉鉄樹)が語る。
 「師匠はよく人の世話をした。人が失職して困って居ると傍観して居られないのが師匠の気質であるから、誰れ彼れの差別を設けないで親身になって就職に斡旋したものだ。
 顔が廣いので夫々大方それ相応のところへ世話が出来たが、一度職を與へると全く各自の手腕に俟つのみで、殊更に後盾となって、乾分(こぶん)*を養成すると云ったケチな了見は勿論ない。然しそれ等が皆師匠の為には死んでもいゝと云ふ気になるんだから妙だ」
 これは鉄舟が失業対策についても協力していた事実を語っていて、今の言葉でいいかえれば「社会に貢献する」「世のため、人のために尽くす」ということになり、鉄舟は「社会関係力」に強い人間であったことを意味する。
また、このような人間性を備えるためには「自らの感情を長期的にコントロールする訓練」が必須であるが、鉄舟の今までの禅修行を振り返れば当然に合点できる。
 

いずれにしても、少年天皇が大帝明治天皇と称されるまでの偉大になられた背景には、本来的に持たれていた個人資質というところにあることは間違いないが、その治世の人生過程で会われた人物の影響を大きく受けているのは当然である。
 

それらの人物を挙げるとすれば、多くの名前が出てキリがない。だが、その中から特定の人物を拾い出すとしたら、明治維新の本質から考えなければいけない。
 それは明治維新の根本精神である。つまり、天皇を元帥に位置づけ、軍の統率者にしたということである。

  ここに「西郷、鉄舟、乃木の精神的役割」が関与してくる背景があるが、これについては後ほどとして、明治維新を成立させた政治家達が確立を急いだのは、対外的には列強諸国に対峙する国家、内的には一体化した国家であった。
 また、国家という統一体を運営する以上、さまざまな支配機構、即ち、政治、経済、法律、軍事、教育、道徳のメカニズムをつくりださねばならないが、最も重要視したのは天皇を国家の精神的統合の中心とし、政治的支配機構と関係させることであった。
 そのために必要不可欠な要素は、天皇を近代国家の君主にすることであって、天皇の外見を変えることであった。つまり、確実に天皇が近代国家君主に変わったということを示すためには、その外見である服装を変化させなければならない。
 今までの女官に囲まれた慣習は「軟弱の風」であって、天皇は髷を結い、薄化粧していたものを、断髪し、女官は罷免排除し「尚武の国体」に変化させるために天皇の服装変化が何よりも優先する。
 そこで打ち出されたのが、明治四年(1871)八月の内密の詔(みことのり)、内勅である。
 「朕惟(おも)フニ、風俗ナル者移換(いかん)以テ時ノ宜(よろ)シキニ随ヒ、国体ナル者不抜以テ其勢ヲ制ス。今衣冠ノ制、中古唐制ニ模倣セシヨリ、流テ軟弱の風ヲナス。朕太(はなは)ダ慨(これを)レ之(なげく)。夫レ神州ノ武ヲ以テ治ムルヤ固(もと)ヨリ久シ。天子親(みずか)ラ之ガ元帥ト為リ、衆庶以テ其風ヲ仰グ。神武創業、神功征韓ノ如キ、決テ今日ノ風姿ニアラズ。豈(あに)一日モ軟弱以テ天下ニ示ス可ケンヤ。朕今断然其服制ヲ更(あらた)メ、其風俗ヲ一新シ、祖宗以来尚武ノ国体ヲ立ント欲ス。汝近臣其レ朕ガ意ヲ体セヨ。」
 

この内勅で、「風俗」とは時流にしたがって移り変わり、「国体」は変わらないとして、長年の歴史を経た現在の「風俗」の軟弱化を批判し、「尚武ノ国体」にのっとって、今後、採用すべき服制の傾向を示そうとする意図が示された。
 この内勅で興味深いことは、ひとつに「武ヲ以テ治ムル」とし、自らが「元帥ト為リ」と主張されていることである。これは軍事国家への方向である。
 

  もうひとつは「神武創業」を呼び起こしていることである。天皇の神話化であり、これにもとづき皇室祭祀が次々と新設された。
 宗教学者の村上重良氏は、現代においてこれらの祭祀に誤解があることを指摘している。それを「天皇の肖像」(多木浩二著)が紹介している。
 「皇室祭祀は、皇居の奥深く、古式にのっとっておごそかに営まれるという先入観からなにもかも古代に発しているように思われがちであるが、近代の皇室祭祀の大半は、明治維新後に創案された新しい儀礼である。天皇が親祭する祭典(大祭)は十三にのぼるが、そのうちイネの収穫に由来する新嘗祭、伊勢神宮の祭典をあらたに皇室祭祀にとりいれた神嘗祭以外の十一の祭典は、すべて新定の祭りであり、大別して、記紀神話にもとづく祭りと皇霊の祭りから成っていた」
 

  これに成程と思う。近代天皇制とは、天皇神格化という方向にもとづき、神話づくりとして皇室祭祀の大半が設けられていることである。
 

  さて、天皇の服装に戻るが、その西欧化については、明治維新は旧来の陋習であった現在の「風俗」を改め、率先して「尚武ノ国体」にすべく、そのために西欧の衣装の導入を図るが、それは「国体」を守るためだ、という筋道から引き出されたものであった。

  さらに、それは近代的なものと、伝統的なものの妥協を図るという、つまり、西洋文明の流入にさいして、日本人が整理し心構えとした「和魂洋才」に通じるものであった。
いずれにしても、天皇の服装は、明治三年(1870)四月の陸軍連合訓練時には、直衣(のうし)を着て袴をはいて馬に乗っていたが、明治四年の操練時には洋装(軍服)となり、五月頃からは皇居内でも政務をみる御座所では洋服を着用し始めた。

明治五年(1872)九月には、天皇の陸軍大元帥の服制が定められた。帽子は黒色、上着・ズボンは紺色の洋装で、帽子及び上着袖とズボンに金線を加えている。

近代国家の君主に位置づけるためには、西洋にならって軍服を装い、日常の執務でも常に軍服を着て過ごし、軍の統率者としてのイメージを創り上げた。

これは既にみた内勅に示されたとおりであり、明治天皇は自らを元帥として意識していた証明である。

しかし、明治天皇には軍人としての経験がない。何度もいうようであるが、京都御所奥深くで女官に囲まれて生活されていたのが明治維新までの姿であったので、軍の統率者になるためには指導者が当然に必要であった。

では、誰が最初その任にあたったのか。それは西郷隆盛しかあり得ない。
その西郷は、明治元年(1868)九月の会津藩・庄内藩の降伏を受けると、鹿児島に戻ってしまい、維新後の混乱や廃藩置県等の政治改革のために上京したのは、明治四年(1871)二月であった。いわば、維新政府によって西郷は引きずり出されたのであって、西郷は明治初年時点においては天皇の側近くにはいなかった。

明治四年(1871)十一月十二日、岩倉全権大使と大久保利通・木戸孝允含む一行四十八人と、留学生五十四人がアメリカに向けて出発した岩倉使節団、この留守を預かったのは太政大臣三条実美と西郷隆盛であったが、実質的に西郷政権といわれる実態であった。

したがってこの時期、明治天皇は西郷との関係が深まり、明治四年十一月二十一日から二日間の横須賀造船所への行幸、御親兵の訓練を見学するため、日比谷門外の訓練所に乗馬で行幸、明治五年(1872)一月八日の日比谷陸軍操練所(現・日比谷公園)で陸軍始めへ行幸、翌日は海軍始めで、築地の海軍兵学寮(後の海軍兵学校)に馬車での行幸、これに続く六大巡幸の第一回目は、明治五年(1872)五月二十三日に出発した近畿、中国、四国、九州巡幸、いずれも西郷が供俸していた。

これら巡幸において、明治天皇は西郷と常に顔をあわせ、その人柄に接しているうちに、西郷の人物像がさらに分かってきて、結果として西郷が持つ人間性魅力に惹かれていったのは無理からぬことで、天皇の「武士的変化」は西郷の個性によるところが大であることは間違いない。

その一片を語るのは天皇より二歳年長と年齢の近い、親しかった公卿の西園寺公望の次の回想である。
「天皇が落馬して痛いと言った時、西郷は、どんな事があっても痛いなどとはおっしゃってはいけませんとたしなめたという」(明治天皇 伊藤之雄)
ここまで天皇に直言できるのは、西郷を軍統率するための指導者として、天皇が認識し受け入れていたからであるといえる。

したがって、その西郷が西南戦争を引き起こした際は、明治天皇はあらゆるものに無気力の症状を見せ、ウツともいえる状態となって、国家元首としての務めを果たすことを拒み、学問にも従事しようとさえしなかった。

ようやく西南戦争の収拾が見え始めた明治十年(1877)七月、京都から東京に戻って、以前の宮廷生活に入ると、そこには身近な存在としていつも変らぬ鉄舟がいて、改めて、厳しい禅修行という内面とのたたかいをしている姿を見つめた時、明治天皇の内面に何かが入っていき、そこからウツ状態が解消し始め、結果として明治天皇の相貌に賢者・風格・重厚・気品が顕れていき、それが「御真影」となった経緯については既に検討した通りである。

西郷は明治四年から六年までの約二年間、明治天皇が二十歳から二十二歳まで指導した。鉄舟は明治五年から十五年まで侍従として十年間、明治天皇が二十一歳から三十一歳まで直接仕え扶育し、その後も明治二十一年逝去するまで宮内省御用掛として務めた。

その西郷も鉄舟も亡くなって、その後に明治天皇への精神的役割として登場したのは乃木希典、かの有名な乃木大将である。

明治天皇と乃木の関係は、明宮親王(後の大正天皇)が結婚し皇孫殿下、即ち昭和天皇であった裕仁親王が明治三十四年(1901年)に誕生された時は、明宮親王の育て方と教育を一新し、大正天皇をとばして昭和天皇に期待を寄せるというより、乃木を通じて自らの意志を昭和天皇にかけたというべき行動が見受けられた。

それが乃木希典を学習院長に任命した背景であり、裕仁親王の教育を乃木に任せたのである。

この三人、西郷、鉄舟、乃木の共通性は、いずれも武士出身でということである。
相違点は、西郷と乃木は軍人であり、鉄舟は軍とは関係なき武人として生涯を過ごした。
さらに、西郷と乃木は幼少年時代、生活が貧しい階級であったが、鉄舟は高級旗本として豊かな生活環境にあった。

また、三人の亡くなり方は異なる。西郷は政府軍という天皇直轄軍隊に追い詰められ鹿児島・城山で自決。鉄舟は結跏趺坐した、正に坐脱という大往生。乃木は明治天皇大葬の儀当日、割腹死という殉死。妻静子も短刀で胸を刺していた。

乃木の遺書に、西南戦争時に軍旗を失ったことを恥とし、ひそかに死処を求め、その罪を謝そうとしたが、その機会を得なかったとあった。

乃木は日清、日露戦争でも死処を求めたが、やはり機会をえなかった。日露戦争では、乃木の命じた旅順攻撃で数万の将兵が死んだ。戦死者の中には、乃木自身の二人の息子もいた。乃木は、天皇陛下の「赤子」を失わせたことで慙愧の念にかられていた。

しかし、天皇は乃木を責めず、日露戦争が終ると乃木を学習院長に任じた。乃木は、これまでに増して天皇の恩の厚さを感じないわけにいかなかった。

明治天皇が最後の病に倒れて以来、乃木はひたすら天皇の回復を祈った。だが、その甲斐なく天皇は崩御された。

乃木は天皇の霊に対する忠義の証として、自らの生命を捧げたのだが、明らかに明治天皇と乃木の関係は、西郷と鉄舟と異なる。しかし、明治天皇の精神性に与えた影響は西郷から鉄舟、そして乃木へとつながっている。
 次号はそれを検討したい。

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