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2014年4月

2014年4月23日 (水)

2014年4月例会開催結果

2014年4月例会開催結果
  4月は以下の発表がなされました。

① 木下雄次郎氏

山岡鉄舟居士印存、山本玄峰老子題字「神如誠至」の掛け軸(紙本水墨・ 緞子裂・ 象牙軸)、「昭和30年9月上浣(注・上旬) 全生庵主玄實識」をご持参賜り、「鉄舟、人生のこころの標を刻する77種の印」として解読・解説いただきました。

Img_20140325_0001_2

木下氏ならではの見事な内容に、参加者一同驚き入る時間を過ごし、鉄舟の深い人生を学ぶことができました。木下氏に感謝申し上げます。
なお、解読内容の詳細はホームページ「例会の報告」(2014年4月23日)に掲載いたしましたのでご覧願います。http://www.bushi-do.org/ 
         

② 山本紀久雄

以下の二項目について発表いたしました。
●鉄舟が文部科学省「私たちの道徳」に取り上げられた背景につきまして、 文部科学省の初等中等教育局 教育課程課を訪問し伺った内容をお伝えしました。

●清水次郎長研究のまとめとして、次郎長が鉄舟から影響を受け、明治維新後 は正業に変身した背景要因について、以下のように解説いたしました。

「次郎長は鉄舟によって生き方を変えた」

1. 天保十三年(1842) 二十三歳、故郷清水を出奔。次郎長の目標は「海道一の親分」

2. 安政六年(1859)、保下田久六を斬殺し復讐を果たし、文久元年(1861)、都田吉兵衛を殺し武闘派として鳴り響く

3. 文久元年 十月、東海道宿・菊川での次郎長と金平との手打ち式に四百余人会す。「海道一の親分」地歩へ

4. 手打ち式後、武士になるよう勧誘に来るが断る。この武士は大和五条で挙兵した天誅組の乱の一味

5. 慶応四年(1868)三月、望嶽亭から鉄舟を西郷隆盛の宿泊先・松崎屋源兵衛宅へ送り届ける。その際、次郎長の胸中に何かが走った。それは何か。己の中に「隠れていた次元」の「閾値」ともいえるもの、それを鉄舟と出会うことで引き出し得た

6. 慶応四年(1868)三月十三日、江戸薩摩屋敷の第一回海舟・西郷会談後、「命もいらず、名もいらず、金もいらず」と西郷が海舟に語った

7. 西郷と次郎長の鉄舟に対する共通人物判断認識

8. 慶応四年三月末日、駿府町差配裁判伏谷如水から突然呼び出され、東海道筋と清水港警護の役へ就任

9. 慶応四年五月、田安家の亀之助(後の徳川家(いえ)達(さと))が駿河藩七十万石、駿府藩役職として鉄舟が着任

10. 明治元年(1868)九月、咸臨丸が漂流し清水港へ。新政府軍に斬られ海に投げ捨てられる

11. 次郎長、子分を動員して浮屍を引き上げる

12. 咸臨丸事件で鉄舟と次郎長の関係深まる

13. 明治維新を契機に無宿・無頼の渡世からキッパリと足を洗い、正業で暮らしを立てようとした博徒は稀。大変身し得たのは、時代の思想、潮流、趨勢というより、それらを体現して眼前に現れた人物、鉄舟と伏谷の影響で、特に、鉄舟が次郎長の羅針盤となり、人生の師匠として大きな影響を与え続けた結果

14. 明治二十一年(1888)七月十九日鉄舟永眠。二十二日の葬儀に次郎長は子分二百名を引き連れ、折からの豪雨の中、ずぶ濡れになって泣きながら行列の先頭を歩いた。次郎長の装いは改心する前の博徒旅姿だったという。次郎長が鉄舟によって改心できたという証を示したのだろう

「鉄舟、人生のこころの標を刻する77の印」

2014年4月例会 木下雄次郎氏発表
「鉄舟、人生のこころの標を刻する77の印」

山岡鉄舟居士印存、山本玄峰老子題字「神如誠至」の掛け軸(紙本水墨・ 緞子裂・ 象牙軸)、「昭和30年9月上浣(注・上旬) 全生庵主玄實識」をご持参賜り、掛け軸印に番号をつけられ、その漢字と意味を「鉄舟、人生のこころの標を刻する77種の印」として解読・解説いただきました。

鉄舟印存作成の山本玄峰とは

山本玄峰は慶応2年、和歌山県に生まれる。生後間もなく旅館の前に捨てられるを岡田夫妻に拾われ、岡田芳吉と名づけられる。
幼少期は、暴れん坊で咸応丸とよばれる。
十代前半より、筏流し等の肉体労働に従事し、17歳で結婚。その後、目を患い、家督を弟に譲り、四国88か所の巡礼に出る。
7回目の遍路の途中、雪蹊寺の門前に倒れ、助けられ寺男として働く。その勤勉ぶりから、入門を勧められ養子となり住職につく。
その後、龍沢寺、松陰寺、瑞雲寺など白隠ゆかりの古刹を再興。
1926年より欧米、インド等を訪問、帰国後、妙心寺管長を経て、龍沢寺住職に就く。
終戦の詔勅の耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍びの文言を進言。天皇国家象徴の定義を発案。鈴木貫太郎の相談役を務め、終戦を勧める。

玄峰印

A:般若蜜  般若は迷いを払い悟りを得る、蜜は奥深く知りがたい
B:玄峰
C:臨済宗  

玄峰と鉄舟の共通するもの

鉄舟は江戸無血開城を行い、玄峰は太平洋戦争を終結に導く。
鉄舟は明治天皇に仕え、玄峰は昭和天皇に進言を果たす。
両者ともに禅に悟りを求め、禅寺復興に尽力。

印の意味するもの

印とは、兆および心覚えの意味で、陰陽の2気を刻します。
陽は明らか、陰は密かにを意味し、人知れずの心模様は印刻しています。
命運に対し開運を印として,心模様の軌跡を刻し、刻した瞬間の鉄舟心の奥まで覗けます。
ただ、人知れず心の奥深くに秘めたものは、安易に読めないよう自分だけの心の記憶として、片や旁を巧みに変化・作字しているため、辞書等にありませんので、解読に確証を得られません。77個の印は鉄舟印のすべてではありません。他にも多くの印が存在しています。
箱書きが全生庵玄實とあり、これだけ多くの印がそろうということは、全生庵に存在した印で作成したと推測できます。
同様のものが全生庵、金沢市の春風館文庫に存在し、京都で同時期に見たとのことから、何本か作成されたことが推察されます。

Img_20140325_0001

                      1

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印から見える鉄舟成長の名称

ご存知のように生まれ以て親が命名したものは
小野鉄太郎高歩です
山岡鉄太郎:なし    鉄は強く正しい男

高歩:4,35,68                    
山岡高歩:24,53,55      高歩,世俗を離れ生きる

山岡高歩:45,50           岡に××はナナで芽生えるで、山は頂点、頂点を目指す高歩

山岡高歩:53             岡に口あり、口は関門で、一生懸命励めど関門あり高歩

山岡高歩:55      山を大きくで高い頂点、岡に××に目覚め、岡の構えは
              遠く離れた行きづまり、歩は止まると止まると裏字止は静、
              裏字で動は移り変わる世の治乱、高いは俗界を超す。
              高い俗界を超す頂点に目覚め行き詰る治乱を静視する

高歩士印:59      高歩、知識・学問を以て道を志すを刻す

高歩号楽:58             高歩、号を楽となずける

一楽斎:34              楽しきを、一は始めん、斎は読み書きするで、
              楽しき読み書きを始める

壱栗斎:63               栗は実で、読み書きが実り始める

壱祝三火才口:66   祝は神に仕える、三火は3つの煩悩(貧、シン、痴)、
              口才は弁才、壱は専念する(意味不明)

山岡鉄泰郎:23,37    強く正しくおごらずのびのびと安らかに

号鉄士:40,54,7     号は別名を名づける:学問や知識で身を
                           立て強く正しくを志す

鉄口生:16         口生は虜、強く正しくなるために懸命である

号曰鉄舟:20(舟は裏字) 裏字は未だならず。舟は授かる。鉄舟と名付けるも未完

鉄舟:1,5,10,21,26,44,51,52,60,71 強く正しくを授かりました

鉄舟:60                 失うを大きくかねは小さく、授かりは倒れ、金を失い授からず

鉄舟:73(裏字)     強く正しくを授からず

臣鉄舟:76        家臣、鉄舟

山岡高歩号鉄舟:31  私が山岡鉄舟高歩です 

印号鉄舟:62      印の号を鉄舟となずける      

鉄舟居士:32,33,36,48,64,65 鉄舟、仏門に入る

高歩士単:61       世俗を離れ、知識・学問を以て誠の道を尽す。単は誠を尽す

藤印高歩:8       印はめでたい、天皇から授かるの意味があります。
              印を裏字にしていますので、めでたくもなしですが、
              最大級レベルの印を作っていることから嬉しいのでしょう。

藤原高歩:3、8,22,41   天皇を守る藤原家。天皇より授かると推察

山岡高歩:(山に目作字)17 目は古来、官位4位を示します。従4位の官位綬領印。

以下は時代の中で心模様を刻した印

2:江上清星  水面には清らかに星が煌めき、山間には名月が輝く
  山間名月

6:銀盤雪星  銀色の平原に星がきらめき雪が降る

9:帝右而帰  天皇のもとになんじ戻らん.秦の王と会合した趙王は
          事なきに帰還した古事、完璧而帰を自分の出来事に
          充てています。いつのことでしょうか?

12:全作字印  右上:同じに縦2本:同じは主体性の共同体。1本線を点に変えて上へ
              主体性のない仲間より離れ
          右中:己の線を下げている:己を下に置く
          右下:甲乙は一番手、二番手、くの上向きは勝れる人
              病たれは感覚。逆にしているので、感覚を逆にとる
              点はわずかな動作を示すが、無いということは動作を外し
              2本線は太刀をあわせる
          左上:霞:ぼんやりとみる、調息八方目を意味し、
              物を見て動くのではなく、気配で動け
          左下:歩をばらして横組み、己才は生まれ持った才能、
              以て穴、つまり穴に嵌る
       

       *以上をまとめると、主体性のない仲間から離れ、己を下に置き
        すぐれた1番2番手と太刀合わせ、感覚を逆にとり、わずかに動作を外せ
        物を見て動くのではなく、気配で動け。生まれ持った才能に頼れば
        すなわち穴に嵌る
        *この解釈は確証がありません。

13:關廣野号鉄舟(舟裏字)荒野を掃き清める鉄舟、未だならず。

14:入木伝承五十世山岡高歩 免許皆伝印

15:九日閉界山入己雷出 ちょうは久しく。ただしここでは日の横棒がとってある。
                 閉は門を閉ざすべく、界は仲たがいをし決別する。、
                 山は万一の幸運を願い冒険的な行動に出る。
                 入りは関わり、己は終える。
                 雷の下の田田は者を連れるを意味する。
                 *つまり、長くもない関係に終わりを告げ門を閉ざす。
                 仲たがいし決別。幸運を願い、弟たちを連れ
                 雷のような大きな声を上げ、家を出る。

18:月木鈎明月禾亀(甲骨文字:一部) 

           月は歳月、木は育成の徳、
           金に口:こうは隠れる事実を明るみに出す。
           明は物事を見分ける知力。月はえぐりとられた。
           禾秋は聞き存亡の時。*つまり歳月育成の徳、
           隠れる事実を明るみにだし物事を見分ける知力
           えぐりとられる危機存亡の時。

25:一昧瀬    一は始まる。昧は通りに暗い愚かな、瀬は出会い。
          *道理に暗い愚かな出会いが始まった。

27:雪上相霜   雪のように高貴で清く、さらに霜のように清く研ぎ澄まされるを願う。

28:無刀流印

29:筆有神     精神、宗教観、自らの考えを筆に託す。

30:壺中天地改新印 禅語の壺中日月長を文字って理想郷へ世界を革新するという印。

38:屋成強(行人偏)強は40歳、行人偏は過ぎる、屋は家を示します。
                    しかも奥に屋根が2つある。
                   *40歳を過ぎて2階建ての家を建てるに至る。

39:浮生適意既渓(サンズイ編なし)楽 はかない命も思うにかないて終える、
                         いかんぞや楽し。辞世印です。

42:屏風一双き臨済宗法灯派本山越中州国泰寺五十四世越そう
  禅師山岡鉄舟居士印

43:一刀正伝無刀流開祖

46:無儘(人偏なし)蔵 無中無尽蔵のこと。
               何もないということは何でもできるということ。

49:端遂書高歩印   端は本源の正しさ、遂行のしんにゅうではなく禾、作字で
              遂は成就、禾は収穫、しんにゅうがないということは未だ
              道に至らず、書は筆と者が本来の意味。
              書の部分が未だになっています。
              つまり端正で美しい本源の書を成就する道未だ至らず

56:三徑就荒松菊猶存 二君に仕えることを潔しとしない陶淵明は隠遁すると、
                           荒れ果てた庭に青々とした松や菊が残っていた。
               帰去来辞の一節。これをみて、不沈栄枯盛衰に
               かかわらぬ誠を感じた。世が乱れても、
               節操の高くあれの意味です。
               こうして鉄舟は決断を得たことを刻しています。

57:浮雲(空を作字)  浮きに空を作字し、しかも家を示すウ冠の一部をカットして、
               家を取られたことを意味させている。
               江戸城がなくなったことを意味させている。
               雲に隠された太陽、つまり慶喜に対し、
               邪心が生じ、心迷うところある。
              *無血開城したが、心空しさに迷うところあり。
               誰にもわからないよう、作字されていると、推察。

67:一両潤居士    宗門に入りて穏やかに心豊かに潤されん。

72:天楽無彊     天の道に和合する楽しみは果てしない

74:即両端:      即は就く、両端をもって慶喜と明治天皇を指す。
              端は本源を持って正しい誠での意味。
              *本源の正しい誠をもって、両極の君に仕える。
              端を2つの意味にかけ、
              強調したい部分を大きくしている。

75:丘容光恵     孟子儘書には丘の門においてするは、
             聖人の門に置いて和せざるところなり。
             容光必ず照らす、道に本あり。
             日月の隙においても照らさらざることなき。
             丘の門とは空しさが必ず通る所、
             知徳に優れ通りの明るいものが和せず
             容光さすところどんなところでも、一筋の光さす。
             鉄舟は心の本体を極めるに、これを決行のよりどころとした。
             和こそが聖人の行う本質なり。
             無血開城で和を得ることが道理と悟を印しています。

77:武帰必門甲壱  もっとも勝れたものになるには何としてもやり遂げる、
             必ず通り抜ける重要な処、
             それはひとたび武をもとからやり直すこと。

2014年4月19日 (土)

6月から11月例会会場の変更について

毎月の例会は東京文化会館で行っておりますが、この度改修のため休館となりますので、6月から11月まではホテルジュラクで開催いたします。

会場  御茶ノ水 ホテルジュラク C白鳥の間会議室(中二階)

(住所)〒101-0063  千代田区神田淡路町2-9   (Tel) 03-3251-7222

(交通)JR御茶ノ水駅 聖橋口より徒歩2分。
    地下鉄千代田線新御茶ノ水駅B2口より徒歩2分。

(駐車場)10台限定無料、要電話予約。満車時近隣有料駐車場(1泊3000円目安)を案内。

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5月例会は「新選組のふるさと・・・日野を歩く」です

「山岡鉄舟研究会」5月例会ご案内

                「新選組のふるさと~日野を歩く」

1. 概  要

今回は、日野市観光協会のご尽力を賜り、更に其処のガイドである松崎勇二様の多大なるご縁をいただき、開催の運びに至りました。
その日野市は、東京都多摩地域の南部に位置し、以前は江戸から十里の「日野宿」が設置されており、甲州街道の農業を中心とした宿場町として繁栄していた処です。
そして、何よりも新選組の副長として活躍した土方歳三や六番隊隊長の井上源三郎の出身地として知られていますが、中々訪ねる機会のない処でもありました。
この地域では、住宅地と多少少なくなったが水田を含めた農地が共存しています。
先人が、残された用水が網目のように張り巡らされ、総延長約120kmに及び、日野の農業を受け継がれております。
兎に角、今回も見どころ多く、お楽しみになれます。

2. 開 催 日    平成26年5月25日(日)10:00~16:30予定

3. 集合場所    JR中央線「日野駅」改札口 10:00時間厳守

4. 会  費    4,000円(月例会費、昼食代、各資料館入場料、モノレール代を含む)

5. 案 内 人    日野市観光協会のガイド:松崎 勇二 様
            参考HPとして、
            *ようこそ幕末の世界へ http://hobby.life.coocan.jp/bkmts/

6. コ ― ス    

今般は、1日のコースでモノレールも利用しますが、比較的平坦なる道 をたっぷり7km強ありますので、何よりも足元の準備をしっかりとお願いします。
        

【JR日野駅集合】 コース案内説明 ⇒ 【日野本町】甲州街道「日野宿」西の玄関口:①西の地蔵堂 ⇒ 臨済宗建長寺派:②宝泉寺(井上家菩提寺) ⇒ ③井上源三郎生家跡 ⇒ ④やんめ(病目)地蔵(眼病治癒祈願の地蔵) ⇒ 浄土宗智恩派:⑤大昌寺(佐藤家菩提寺) ⇒ ⑥佐藤彦五郎新選組資料館(特別開館):新選組に物心共に応援し続けた
名主。歳三と彦五郎の鉄扇、近藤勇から譲られた短銃など。⇒ ⑦日野宿本陣(佐藤彦五郎邸:都内に現存する唯一の本陣建築。天然理心流の道場として隊士が集まった。維新後明治天皇の随行で山岡鉄舟を迎える。)⇒ ⑧有山薫邸(佐藤彦五郎の四男:彦吉の養子先、街道筋一、二を競う資産家と云われた。近代洋風建築)⇒ 昼食休憩:「とんでん」 ⇒ 甲州街道口駅・・モノレール・・万願寺駅 ⇒ 【石田】⑨とうかんの森(稲荷森):250年以上のムクの木。歳三の生家跡付近。⇒ 愛宕山地蔵院:⑩石田寺(せきでんじ:
土方家菩提寺)⇒ 万願寺駅・・モノレール・・高幡不動駅 ⇒ 【高幡】⑪高幡山明王院金剛寺(高幡不動尊:関東三大不動尊の一つ。「土方歳三像」「殉節両雄の碑」「奥殿拝観」。土方歳三の生家は、高幡山の檀家総代格で、佐藤家も有力な信徒。天然理心流の門弟が、境内や裏山で戦闘訓練を行った。)

*** 皆様、お疲れ様でした ***

♠ ♠ ♠ 此処からは、希望者のみでの懇親会 ♠ ♠ ♠

6. 懇 親 会     17:00~19:00予定
         (「新撰組のふるさと~日野を歩く」により、開始時間早まる可能性もあり。)
            「魚民」高幡不動駅前店
           京王線・多摩都市モノレール「高幡不動駅」駅前
               TEL:042-591-5688

         会費:4,000円予定(宴会コース)
         (会場にて、徴収させていただきます。)

7. お申込み・お問合せ
         

下記の参加申込書にご記入の上、FAXにて送信してください。
         担当:矢澤昌敏  携帯:090-6021-1519
                     TEL&FAX:0480-58-5732
                     E-mail:m_yaza10@eos.ocn.ne.jp ないし
                     info@tessyuu.jp

                                    

            参加申込書      

 

「新選組のふるさと~日野を歩く」(平成26年5月25日開催)に出席します

 

           
 

お  名  前

 
 

 

 
 

緊急のご連絡先(携帯電話など)

 
 

 

 
 

懇親会へのご参加

 
 

参加します    参加しません

 

 

申込締切:5月15日(木) FAX送信先:0480-58-5732(矢澤)

2014年4月12日 (土)

明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の十六

明治天皇は「大日本帝国憲法は、自らがつくった欽定憲法である」という認識を強く持ち、そのことを誇りにしていたという。

その背景には、憲法制定検討会議に全て臨御され、条文解釈を徹底的に行い、天皇としての自らの立場と位置づけを納得され、国民に公布したという経緯があるからである。したがって、憲法への理解度は、伊藤博文枢密院議長と並ぶほどであったと思う。

その結果、天皇としての行動は、憲法と皇室規範から下されるので、常に判断にブレが少ない。つまり、体得された基準から意志決定を行うので、妥当な判断が可能となって、伊藤之雄が「明治天皇」で述べる「明治天皇の絶妙なる政治関与」という状況となり、そのことは諸外国のマスコミが伝えた、故明治天皇を称える哀悼の論評からもわかる。

「君主たるミカドの人格というものが無かったならば、政治家たちもあそこまで仕事を遂行することは出来なかったろうし、また遂行するにあたってもっと時間がかかったに違いないということである。ミカドが備えていた資質の中に人間を見抜く能力があって、これは恐らく一国の君主が持つべき資質の中で最も貴重なものである。憲法欽定に先立つ会議に欠かさず出席したことにも示されたように、ミカドは国事に熱心かつ勤勉だった。また細かいことに到るまで記憶力に優れ、肉体的、精神的ともに極めて勇気があった。またミカドは、自身の個人的安楽をまったく顧みることがなかった」(The Globe紙 ドナルド・キーン「明治天皇」)

この記事を書いたグローブ紙の記者は、どのように情報を入手したのか。多分、明治天皇の側近であった日本人が外国の報道機関に「洩らした」と推測し、それを敷衍するならば、天皇側近たちは、天皇の資質という個人的能力を高く評価していたことがわかる。

その通りで、明治天皇の個人的能力が優れていたことは、既に何回となくお伝えしているが、政治面で仕えるのは、伊藤博文、山県有朋、西園寺公望、桂太郎等の政治家と官僚たちで、全員卓抜な才能をもつ人物であり「その持つ能力」を天皇に提供することで任務を全うしていた。

そこで、仮に、これら優れた能力を持つ提供者に、明治天皇が同じく個人的能力で対応していたならば、どういう状態になったであろうか。

多分、それは政治家・官僚たちから反発を受け、グローブ紙が述べる「政治家たちもあそこまで仕事を遂行することは出来なかったろう」という評価にはならなかっただろう。
明治天皇の人格と能力、それに加えて憲法と皇室規範によって鍛えたブレない判断基準があったからこそ、素晴らしい治世を四十五年間も続けられたのである。

しかし、明治天皇の立場になって考えれば、憲法と皇室規範に基づく行動とは、立憲君主制国家での法制上から発するものであって、それは自然人としての人間である部分を少なくさせる結果とならざるを得ない。

さらに、政治家や官僚も同様で、法制的存在という立場から天皇に接することになり、その場合も自然人としての行動はとれない。

したがって、天皇と政治家・官僚の関係は、親密な報告・連絡、奏上はあるものの、そこには人間的な親密さに欠けることになる。

つまり、好きな人間としては、政治家・官僚とは接し得ないのである。

そこでもう一度、司馬遼太郎の言葉を借りたい。(司馬遼太郎対話選集4 近代化の相克)
「あの人(明治天皇)の好きな人は、山岡鉄舟、元田永孚(えいふ)(注 ながざねともいう)、西郷隆盛、乃木希で、きらいなのは山県有朋、黒田清隆です。要するに男性的な人物が好きだったようですね」
司馬遼太郎が述べる好きな人物とは、少年天皇として京都御所から東京に来て、最初に軍の統率者たるべく指導を受けた西郷、その西郷の推輓で侍従となった鉄舟、大久保利通の推薦で熊本の中流武士階級から、侍読として宮中に入り、学問を通じて帝王学を講義した元田、加えて、乃木は長州藩支藩の長門府中藩(ながとふちゅうはん)出身であって、この四人に共通しているのは武士出身ということである。

勿論、伊藤博文、山県有朋、黒田清隆も武士出身、さらに、日露戦争当時に軍司令官であった大山巌、黒木爲楨、野津道貫たちも武士階級であったが、明治天皇の前では法制的存在であり、臣僚として行動することになる。

ところが、この四人は臣僚ではなく、別の立場から天皇に接していて「好きな人物」という評価を受けていたが、それには明治天皇に何か一つ隠された大きな区別基準、物差しがあるはず。それは何か。

西郷は「天皇が落馬して痛いと言った時、西郷は、どんな事があっても痛いなどとはおっしゃってはいけませんとたしなめたという」(明治天皇 伊藤之雄)、これは臣僚としての立場ではない。昔の家老や側仕えが大名の嫡男を育てようとしているときの接し方である。つまり、臣僚でなく家来といえる。

家来とは、主君や主家に仕える者、古くは家礼、家頼などと書き、家来は中世以降で使われたが、もともと親・尊族を敬い、礼を尽くすこと、転じて、他人に礼を尽くすことという意味合いを持っている。西郷は家来として明治天皇に仕えたのである。

この西郷の推輓で侍従となったのが鉄舟である。鉄舟は今まで見てきたように一種の求道家である。無私ということをもって、大悟する目標とした。そのために剣を追求し、禅によって剣機を悟り、無刀流を創始し、春風館をひらいた。

鉄舟の明治天皇への仕えも家来であった。司馬遼太郎は「殉死」で次のように鉄舟を語っている。
「中世の頃、草深い関東の野で鎌倉武士たちがつれて歩いた郎党、郎従、家ノ子といわれる存在にちかいものが山岡鉄舟であり、それであればこそ、帝は鎌倉武士がその郎党を愛したように鉄舟を愛した」「山岡鉄舟から人間としての骨格(こつがら)をつくるためのなにごとかを学ばれた」

鉄舟は家来として明治天皇に献身していた。例えば、明治六年(1873)、皇居が炎上した際、淀橋の屋敷で変を聞き、寝巻に袴をつけて、韋駄天の如く人力車を走らせ駆けつけたが、天皇の御寝所には鍵がかかっていた。鉄舟がその扉に体当たりし、破り、御寝所に飛び込んだとき、「山岡か! 待っていたぞ」という言葉、ここに鉄舟へ深い信頼と愛情が表れている。

明治九年(1876)、東北へ巡幸された際、皇后は西郷が下野している上に、東北の地は戊辰戦争で官軍に抗したところであり、何か問題が発生し、その際、留守中での対応について、特に心配されたが
「案ずることはない。山岡がついている」
という明治天皇の一言で出発された。鉄舟への信頼は厚かった。

しかし、その鉄舟は明治二十一年(1888)五十三歳で病没した。まだ亡くなるには惜しい年齢である。正に天皇にとって郎党、郎従、家ノ子というべき鉄舟の死は、心に深い痛手としてのこった。
鉄舟に続いて、明治二十四年に元田も病没した。侍読として学問を通じ帝王としての姿を説き続けた元田、その死も明治天皇には深い痛手となった。家来的存在がいなくなったのである。

そこに表れたのが乃木希典である。鉄舟と元田の死後、明治天皇の乃木を見る目が変わっていった。鉄舟に似ているという気持ちから、鉄舟に代わる対象として見だしたのではないか。

乃木には鉄舟が持つ禅的明朗さはない。鉄舟ほどの天性からの叡智もない。鉄舟のような剣の悟達者でもない。鉄舟のように威風を感じさせる肉体条件も持っていない。

だが、ひとつ共通するのは武士らしさであり、古格な武士の規範のなかで生死しようとしている生き様である。

乃木の生まれは長州藩支藩の長門府中藩、長府毛利家の藩邸長屋である。場所は港区麻布北日ケ窪町、今は六本木六丁目、六本木ヒルズの位置するところである。
この長府毛利家は、元禄十五年(1702)の赤穂浪士の仇討で、捕縛された義士のうち十人を預かった。他に細川家、久松家、水野家の四家が分担し預かり、長府毛利家に預けられた十人は、150年ばかり後の嘉永二年(1849)に乃木が生まれた長屋で切腹している。
当然に乃木はこの経緯を聞いて育っているだろう。それを司馬遼太郎「殉死」は次のように語っている。

「子どものころにその切腹の光景の酷(むご)さを極彩色に想像しつつ戦慄したかもしれないし、同時にこの詩人としての感受性をもっていた少年は、そういう最期を人としてもっとも美しいものとして思ったにちがいない。さらに連想はとぶが、乃木希典は軍事技術者としてほとんど無能にちかかったとはいえ、詩人としては第一級の才能にめぐまれていた。その中国音の韻律のうつくしさと正しさは、『古来、日本人としてはまれではないか』と、中国人でさえほめている」

文部省唱歌と認定されている「水師営の会見」佐々木信綱作詞・岡野貞一作曲であるが、幼少時代に親から何度も聞かせられ、記憶に残っている。読者も同様ではあるまいか。
旅順開城約成りて 敵の将軍ステッセル
乃木大将と会見の 所はいずこ水師営

庭に一本棗の木  弾丸あとも いちじるく
くずれ残れる民屋に 今ぞ相見る二将軍

乃木大将は おごそかに、御めぐみ深き大君の
大みことのり伝うれば 彼かしこみて謝しまつる

昨日の敵は今日の友  語ることばもうちとけて
我はたたえつかの防備 かれは称えつわが武勇・・・(以下略)

両軍合わせて約8万7千人もの死傷者を出した旅順攻囲戦でロシア軍が降伏した後の水師営の会見での記念写真がある。通常、降伏した側は帯剣を許されないが、「武士の名誉を保たしむべき」ということからステッセル将軍以下、軍装の上、勲章をつけ帯剣していた。
 同地にはアメリカの従軍映画技師もいて、この会見を映画撮影したいと申し入れていた。しかし、乃木将軍は敗軍の将にいささかも恥辱を与えてはならないとこれを許さず、この一枚の記念写真だけを認めたのである。
 

会見の模様は、この写真とともに全世界に報道された。武士道精神に基づく乃木のステッセルへの仁愛と礼節にあふれた態度は、世界を感銘させた。

 この六年後、乃木はイギリス国王戴冠式に参列される東伏見宮依(より)仁(ひと)親王に東郷平八郎とともに随行してイギリスを訪問したが、イギリスの一新聞は「各国より多数の知名の士参列すべきも、誰か東郷、乃木両大将とその光輝を争いうる者があろう」と報じた。

乃木の経歴を見ると面白いことに、明治四年(1871)二十三歳でいきなり陸軍少佐に任じられていることである。

それまでの兵歴はそれほど目立つものはない。幕末、長州藩が幕府と戦ったとき、乃木も十八歳で出戦したが負傷し、藩に戻り、明倫館文学寮に入ったが、この時点で自分の詩人的体質に気づいていた。

その後、伏見の御親兵兵営でフランス式教練を一カ月間受け藩に戻っていたところ、明治四年に少佐として任命されたのである。何かの軍歴上の功績があったわけではない。

明治八年(1875)、熊本鎮台歩兵第十四連隊の連隊長心得に任命。その二年後に西南戦争、この戦争で軍旗を奪われるという事態を起こした。

奪われた軍旗を薩摩軍が陣頭にかざして官軍に見せびらかしたため、乃木は死を冀(こいねが)*い、それからの戦場でしばしば危地に立とうとし、山県有朋中将に隊罪書を送り、進退を伺ったが不問に付せられた。この軍旗事件で乃木は、その名を世間に知られることになった。

西南戦争後は歩兵第一連隊長へ栄進したが、生活は後年の乃木とは別人で、料亭で毎日のように酒を飲み、素面で帰宅することは稀であった。

三十歳で結婚したが、この素行は変わらず、夫人静子は二児をつれて別居したこともあるほどであった。

ところが乃木の人格を一変させる事態がおきた。それは明治十九年(1886)、三十八歳のときのドイツ留学である。帰国した乃木は、性行、容儀、嗜好、日常習慣といったものすべて一変させた。別人となって帰国したのである。

留学前は、紬の着物を着て、角帯を締め、料亭に出入りしていたのが、帰国後は、日常から軍服を着用、帰宅しても脱がず、寝るときも軍服のまま寝る。

続いて、名古屋の歩兵第五旅団長になり、まもなく休職、再び歩兵第一旅団長となって日清戦争に従軍、中将となり男爵を授けられた。

明治三十四年(1901)に再び休職、那須の別荘で農人の生活に入った。この時期が最も乃木は気に入っていて「自分の生涯は、山田の案山子である」としばしば洩らしている。

明治三十七年(1904)、日露戦争勃発。乃木は第三軍司令官として旅順に向かった。旅順での戦いぶりについては、既に前号でお伝えしている通りである。

軍旗事件から二十八年過ぎた日露戦争前の明治三十五年(1903)、明治天皇は陸軍秋季大演習のため九州に行かれたとき、西南戦争の激戦地である田原坂を通られた際、次の御製を詠まれて、侍従の藤波言忠に筆写させ、乃木にあたえよと命じられた。

もののふの攻めし戦ひし田原坂
       松も老木(おいぎ)になりにけるかな

これは乃木に対して、他の将軍にはない特別な感情があることを示している。では、いつから明治天皇はこのような感情を乃木に持たれたのか。

それには三つの背景があると推察する。

一つは軍旗事件、もうひとつはドイツ留学後の豹変によって乃木に関心を持たれたこと。加えて、三つ目が重要である。乃木の明治天皇に対する他者とは異なる態度からである。
帰国後、乃木は山鹿素行の諸述を読み漁った。反復し熟読した。特に素行の秘著「中朝事実」、これは「日本は外国に支配されたことがなく、万世一系の天皇が支配して君臣の義が守られている。中国は中華ではなく、日本こそが中朝(中華)である」というのが、この書の主張であるが、日夜これを手写し、写し終ると更に写し人に与え、自らは写したうえ更にそれを読んだ。

「この道統(中朝事実)には、大石内蔵助良雄と吉田松陰、そして西郷隆盛がいる」と五十代のころ、その副官に語ったことがある。(司馬遼太郎「殉死」)

乃木は度々の休職中も、年に一度の陸軍大演習には必ず出ていった。休職軍人や退役軍人は通常出る義務はなく、出ても用事はなかった。

だが、乃木は必ず出て、明治天皇の傍らで佇立し、常に天皇に気を配っていた。それは天皇を守護するがごとくであり、かつ傍近くに行くことを遠慮するごとくであり、一種いい難いはにかみとも、恥ずかしさともいえるものであった。

「乃木は感心である」

「誰でも休職になれば、ほとんど演習には出て来ない。が、乃木は必ず出て来て、あのように雨にぬれそぼっている」

この姿を誰とオーバーラップされるだろうか。鉄舟である。

鉄舟も乃木も明治天皇を近代国家の法制的君主として尊崇するのでなく、天皇を田舎の土豪であって、自分はその土豪の郎党、郎従、家ノ子であるような感覚をもっていた。
当然ではあるが、明治天皇は乃木に対して特別な感情、愛情をもつことになる。
それが旅順の戦い状況の乃木更迭御前会議での、異例な第三軍激励の勅語下賜となり、更迭はなされなく、日露戦争から凱旋した翌年の明治四十年(1907)に学習院の院長に任命し、更に、宮内省御用掛を命じた。

その結果として、乃木は足しげく参内することになる。単なる華族では、年に数度、定められた日に儀礼の奉伺をするだけであったが、学習院長と宮内省御用掛という二つの職があるので、必然的に参内が毎日のようになる。

天皇も「今日は、乃木は来ないのか」と侍従に聞かれるほどの関係になった。
日露戦争から凱旋し、明治三十九年(1906)一月十四日、明治天皇に戦役の経過を奏上した際の最後に「微臣の罪、正に万死に当ると存じ、恐懼に堪えません。願わくは、臣に死を賜え、割腹して罪を謝し奉りたい」と乃木が言上した。

明治天皇は、退出しようとした乃木を呼びとめられ、「卿もし死を願うならば、われの世を去りてのちにせよ」と仰せられた。

この「お言葉」には西郷、鉄舟から続く、土豪の郎党、郎従、家ノ子という感覚の武士を求めた明治天皇のお気持ちが籠められていたのである。

これで明治天皇に対する、西郷、鉄舟、乃木の精神的役割についての考察を終えたい。
次号からは新たなるテーマに入る。

明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の十五

日本の首相が毎年コロコロと変わるのは問題である。これは日本人なら誰でも認識している。では、どうして問題なのか、と問うと、人は一瞬、黙る。多くの人は問題を具体的に考えず、一般論として受けとめやすい。

今の日本での首相という役目は、日本国のリーダーで、日本国の方向性を指示する人である。だから、その首相が毎年コロコロ変わると、指示の方向性がぶれてしまい、継続性が薄く、前首相の方針は掻き消えていく。「脱原発」を提唱した菅元首相の事例を見ればよくわかる。したがって、国民も官僚も一歩下がって、またコロっと首相が変わるかもしれないと、様子見を繰り返すことになる。

その結果、国家としての歩みは弱弱しく、他国からみると消極的な姿勢に見え、国際間での位置づけで徐々にひ弱くなり、そこに領土問題で付け込まれる事態となる。

ところが、明治時代は違った。明治天皇が国家君主として四十五年六カ月に及ぶ治世を行ってきた。つまり、一人でのリーダーシップが続いたわけである。その結果は、誰もが認める国家隆盛期となった。いかに有能な人材による、長期にわたる国家リーダーが重要で大事であるかということがわかる。

しかし、明治天皇が即位された当初から、有能であったとは言えない。明治(1868)と改元した当時は、まだ十五歳の少年であったから、維新に始まる数々の重大な変革に天皇が何らかの重要な貢献をなし得たとは考えにくい。

伊藤之雄がその著書「明治天皇」で「明治二十二年(1890)代以降、明治天皇は絶妙の政治関与を行っていった」と、優れた政治への関与をし始めた時期について述べているが、そこにいたるまでにはどのような契機があったのだろうか。

明治天皇の内面への影響については、既に鉄舟であることを本稿で示唆しているが、政治に絶妙な関与ができるようになった具体的な切っ掛けは何か。

これについて少し検討してから、乃木将軍との関係に入りたい。

実は、伊藤之雄が指摘するタイミングよりもっと早く、明治天皇は積極的に自らの意志を示し始めている。例えば、

① 明治十四年(1881)の新年年賀を行うに当って、井上馨外務卿が外国公使夫妻は賓客であるから、第一次に拝賀を許すべきと奉請したが、明治天皇は「新年拝賀は君臣の礼を正しくするのが第一の目的である」と伝え、大臣・参議や各省の長官らを第一とする方針を変えなかった。

② 参議兼海軍卿の川村純義が、外国の例に倣い、新造軍艦の名として歴代天皇の尊号と武臣の名を使おうとし、尊号使用の可否について徳大寺宮内卿に問い合わせた。これに対し、明治十六年(1883)に尊号は使わず日本の旧国名を使うべきと明治天皇は考えていると、徳大寺は川村に伝え、その通りに実施された。なお、現在の海上自衛隊では戦艦、巡洋艦、駆逐艦の艦種の区別はしておらず、一様に護衛艦と称しており、名づけは海上自衛隊の訓令に規定されている天象・気象・山岳・地方名を使うことになっていて、ヘリ搭載護衛艦が「ひゅうが」「いせ」などが命名されている。

③ 皇居が明治六年(1873)に焼失し、その再建について、明治十六年(1883)に本格的な西洋建築案と、日本建築案とが提案され対立したが、明治天皇は軍拡のため増税をしている折であり、国民負担を考慮し、建築費用の安い和風建築にするよう指示した。
等であり、これらは宮中に関するものであるが、天皇が自らの意志をもって、それらに関与し始めていた。

では、「政治に絶妙な関与ができるようになった」具体的な切っ掛けとは何か。それは憲法であった。

明治十四年(1881)に十年後に憲法を制定し、国会を開くということが決まった。そこで、伊藤博文は憲法調査のため、明治十五年(1882)三月から翌十六年八月までという一年半もの間、ヨーロッパに出かけた。

ヨーロッパで伊藤に最も影響を与えた人物は、ウィーン大学のシュタイン教授であった。伊藤はシュタインから「憲法の下に君主権を制限していく」というヨーロッパ最先端の考え方を学び、それを日本に導入したのである。

この考えを別の表現におきかえるならば、天皇を現人神から「人として十分なる尊敬される」立場に変更し、一方、天皇は憲法によって「一定の限界以上は決して侵させない」ようにすることであったが、そのために不可欠な条件は、明治天皇がこの考え方を受け入れるということであった。

そこで打った次なる一手は、明治天皇から信頼の厚い侍従の藤波言忠(公家出身)に憲法を学ばして、天皇に講義させるべく、藤波をヨーロッパに派遣したのである。

当時、藤波は馬掛主任の地位にあったように、馬が専門でドイツ語も英語も不得手であったが、通訳掛として新山荘輔をつけ、ウィーンでシュタインの講義を受けた。
藤波は過度の勉強の結果、精神疾患になるほどであったが、二年三カ月ぶりの明治二十年(1887)に帰国した。若いとはいえない藤波が、遠い異国で必死に専門でない憲法を学び、精神疾患になったという事実、明治天皇はこういう愚直なまでに努力する人物を好きであった。

この藤波から二~三日に一回というペースで、午後九時半から十時までという時間帯に、美子皇后と一緒に受け、明治二十一年(1888)に講義は終った。

この間、藤波の講義は三十三回にも及び、両陛下は熱心に耳を傾け、納得できないところは藤波に質問し、藤波が即答できないときは、新山に調べてもらい、改めて奉答するという、極めて真摯な両陛下の受講姿勢であった。

この藤波の講義の後、明治二十一年に枢密院、これは憲法と皇室規範等の重要法令を審議するために設置されたものであるが、ここで天皇が臨御(りんぎょ)し議事を聴くという意志を自ら述べ、憲法と皇室規範等への制定に強い意欲を示された。

枢密院は、五月から審議に入り、七月に議了したが、これら審議のすべてに出席し、修正事項は朱書にして提出させ、理解できないところは伊藤枢密院議長を召しい説明を受けた。季節は夏に向かい、窓を通して暑い日差しが入っても、明治天皇は暑さを訴えることなく、常に真剣であった。

憲法と皇室規範審議の後は、議院法・会計法等の憲法付属法案の審議を行い、明治二十二年(1889)二月に終了したが、これにも明治天皇は毎回臨御した。

この審議期間中、昭宮(あきのみや)(猷(みち)仁(ひと)親王)が脳膜炎のため逝去した。昭宮は明治天皇の第四皇子であり、一歳二カ月を過ぎたばかりの可愛い盛りであったが、議場で昭宮の逝去を聴いた明治天皇は「むう、むう」と頷いたのみであっという。

伊藤は議事を中止しようとしたが、許さず、審議は続行された。午後三時に審議が終り、明治天皇が議場を去った後、伊藤は他の審議者に昭宮の逝去を告げた。その場のすべての者が恐れ入りかしこまり、明治天皇の法制定にかける決意に感動した。

これらの審議において、明治天皇は直接には意見を挟まないものの、原案や修正点をよく理解したうえで承認したので「大日本帝国憲法は、自らがつくった欽定憲法である」という認識を強く持ち、そのことを誇りにしていたという。

つまり、大日本帝国憲法は万世一系の天皇が統治する(第一条)とある一方で、天皇の統治は憲法の条理により行う(第四条)という限定がついていたことを、よく分かっていたということであるが、これは重大な意味合いをもっている。

それは、天皇としての行為範囲を承知している、つまり、天皇としての行動権限と、行動限界範囲を悟り納得していたということである。言葉を代えていえば「自らの行動判断基準」を身につけられたということになる。

それまで明治天皇は、帝王として必要な学問を一応学んでいたが、それよりは馬術にのめり込み、酒を好み、どちらかといえば勉学は得意ではなかった。だが、この憲法制定過程では、徹底的に検討し、問題点の把握と、自らの立場の検討を行ってきたことを通じ、その後に発生した問題・事件に対してどう立ち向かうか、という判断基準を体にしみ込ませたのである。

その体得された基準から意志決定を行うので、妥当な判断が可能となって、伊藤之雄が述べる「明治天皇の絶妙なる政治関与」という状況になったのではないかと考える。

人はある一定の境地、囲碁将棋棋士や画家や一流スポーツ選手でいえば名人の域に達すると、そこから世の中がよく見えるようになるという。鉄舟の大悟という心境に近いレベルと考えられるが、明治天皇も同じではなかったかと思う。

脳の中に妥当な判断基準を持つことが出来れば、その人は素晴らしい才能を発揮するという事例が明治天皇で、それが政治への絶妙な関与となって顕れたのだと考えている。

 さて、乃木将軍に入る前にもうひとつ横道に入ることをお許し願いたい。
 先日、千葉県館山市に祭りの取材で伺った。日本各地を訪ね、その地を欧米人観光客に立ち替わって見つめてみると、残念ながらその外見景観は魅力に欠ける。特に酷いのは街並みである。
 明治時代から昭和前期までの、一定感のある落ち着いた宿場町・街道筋であったところが、今は新しい建築様式で、それも様々な家並み、個性というよりはばらばらの街づくりとなって、過去とは比較にならない猥雑な状況となっている。
 したがって、欧米諸国では古い町並みが観光資源として成り立つが、日本では無理であり、別の角度から欧米人対策を講じなければならない。

 その第一候補は文化である。日本の文化は優れている。特に、食については「和食」として世界に冠たる位置づけとなっている。

食の次は祭りではないだろうか。日本全国いたるところで毎日のように祭りがある。日本人は祭り好きであり、その祭りを訪ねて観光客が集まってくる。京都「祇園祭」、大阪「天神祭」、東京「神田祭」、東北の「ねぶた祭」、九州の「博多どんたく」、「長崎くんち」のように人気の祭りには大勢の観光客が集まる。

しかし、各地方にも独自の趣向をもった素晴らしい祭りがたくさんあって、それらを欧米人に的確に紹介できれば、その地に観光客は訪れることになるだろう。

という目標をもって、房総半島最南端の小さな漁村・布良(現・館山市富崎地区)に伺った。そこで布良﨑神社と保管されている神輿を拝見し、境内の中にある集会所で、地元の関係者の方々からいろいろ教えてもらっているうちに、ふと、壁にかかった一枚のポスターが目に入った。
「布良という聖地に行こう・青木繁が『海の幸』を描いた漁村」とある。青木繁は、日本で初めて国の重要文化財に指定された西洋画「海の幸」の作者であり、満二十八歳という短い年月の中で、後世に衝撃を与え続ける人生を突き進んだ、史上稀にみる「天才」として知られている。その青木繁と、この布良が関係あるのか。

その質問には、布良漁業組合長の島田吉廣氏が「芸術新潮2011年7月号」で以下のように語っているので、それを紹介したい。
「<海の幸>の構図は、神輿を担いでいる男衆そのものですよ。ほら、前の男は前後姿勢、後ろは直立しているでしょ。しかも明治の頃だと、神輿を担ぐ男衆はふんどし姿だったはず。ちょうど青木が滞在した小谷家のすぐ隣には、布良﨑神社がある。夏祭りは8月1日だったから、まず間違いなく見ているはずだね。小谷喜録は地元の世話役だから、若い青木らに神輿を担がせたんじゃないかな。でもね、この神輿は館山で一番重くて、800キロもある。40~50人で担ぐんだけれど、普通の体力の男なら2分ともたないし、激しく揺らすものだから、担ぎ棒が激しく肩に当ると血が出ちゃう。好きな人の傷を早く治すために、おしろいを塗るのが、布良流のバレンタインデーってやつなのよ。青木とたねも、案外そんなことやっていたんじゃないのか」

青木繁は明治三十七年(1904)の夏、福田たね、坂本繁二郎ともう一人の男と布良に来て、小谷家に寄寓して描いた絵が「海の幸」なのである。
この小谷家から最近、鉄舟の書が見つかったことも面白いが、それより島田吉廣氏がつけ加えて、次のように筆者に語ったことが忘れられない。
「日露戦争当時、兵隊に徴集された男衆、もう二度と布良には帰れない。残るのは女衆だけだ。そうなれば祭りでこの重い神輿も担げない。だったら神輿は要らなくなる。ということから海に捨てたという。当時は今の800キロと、それより重い1トンを超える二つの神輿があって、重いほうを捨てたのだ」と。

この語りを聞いて、関心は青木繁から乃木将軍に突然に移った。日露戦争における旅順の戦いの第三軍司令官は乃木希典将軍である。
乃木将軍の戦いは、将兵達が、ただ前進、ただ攻撃のために戦闘を展開し続けた。「師団が数回の突撃も効を奏さず、今はただ、残兵を集めて唯一回の突撃を行わんのみ」という司令官から出る突撃命令に従うというだけが目的で、突撃の成否は殆ど顧みられない。決死隊でなく、文字通り必死隊であった。
相次ぐ消耗戦は、招集された未熟な兵で補充される。長く戦った兵と、補充された兵とでは、戦意や戦術において格段の差があるが、だが、そのような差なぞ関係なく、ともに突撃し、ともに戦死するという結果であった。
「旅順に向かう者は、士気消沈すること屠所の羊の如し」という状況で、これが国民の間に伝わり、軍を非難する声が高まるばかりであった。
それを証明するのが、布良の島田氏の語りである。旅順に行けば全員戦死となる。ならば、祭りの神輿は二つも要らない。担ぐ人がいなくなるのだから不要のものだ。ということになる。日露戦争は地方の一漁村の祭りにまでも影響を与えていたことが分かる。

非難は国民の声だけでなく、大本営、満洲軍司令部など軍事専門家の中にも当然あり、明治天皇にも伝わっている。

侍従の日野西資博によると、天皇は旅順攻撃に多数の戦死者を出している状況について「乃木もアー人を殺しては、どもならぬ」と述べたという。(「明治天皇」伊藤之雄著)

明治天皇も乃木将軍の指揮には心を痛めていたのであるが、乃木更迭の御前会議では、異例の第三軍激励の勅語下賜となって、更迭はなされなかった。
旅順の戦いは、結局、満洲軍司令部から児玉源太郎大将が出張り、直接に戦陣を改め、僅か二日にして、半年にわたる消耗戦を逆転させ、その後、一か月を経ず、ステッセルは旅順の開城を申し入れてきた。(「軍神」福岡徹著)

日露戦争は、その後、日本海海戦の勝利とともに、日露休戦から講和となり、乃木将軍は東郷提督とともに二大英雄として、国民の畏敬の対象となった。

ここでまた脱線話となるが、先日、館山の帰りに岐阜県高山市に向かった。用件は勿論、鉄舟の資料集めである。
鉄舟の父が代官として江戸から赴任し、高山の地で少年時代を過ごしたのであるが、ここでの体験と学びが、後日の江戸無血開城と明治天皇扶育に大きく影響しているはずで、そのためには高山という土地について研究する必要があり、年に数回訪れている。
今回は、地元で生まれ、地元で育ち、今も代官所近くに百三十年以上経過する典型的な飛騨造りの家屋、裏庭の向こうには土蔵があり、最近、この土蔵を修復したという年配の女性宅を訪ねた。

土蔵の修復工事ができる建築会社は、今では限られているが、これからも土蔵を活用する生活を続けるので、修復したのである。また、このお宅の居間、四方を高山の和紙で貼られた障子に囲まれていて、そこでお話を伺ったが、意外に暖かい。和紙の障子紙は暖房効果がよいので、雪深き寒い高山であるが、各家庭は障子を多用している。

高山の昔話をお聞きしているうちに、そういえば市内中心地にあった南小学校が、駅の反対側のところに移転した。その際、乃木大将「お手植えの松」というのも大事に移植され、市の保存樹として今でもしっかり管理されているし、桜山八幡宮の入口わきに乃木将軍の直筆石碑が建っているという。

高山に乃木将軍が来ているのだ。特に飛騨地区からは戦役に駆り出された人が多かったと地元の人が語る。乃木将軍は戦死者の遺族を訪ねる旅を続けていたのだが、その敬虔ともいうべき将軍の態度に、受けとめる方は「日露戦争の英雄」として対応し、各地で「万歳!万歳!」と迎えられていた。

その結果が、小学校校庭の「お手植えの松」として雪の中に立派な枝ぶりとして遺っているのだ。

将軍の人気はその後も落ちることなく、自刃にいたって、その絶頂に達する。
乃木将軍は、明治三十九年(1906)一月十四日、明治天皇に戦役の経過を奏上した際の最後に「微臣の罪、正に万死に当ると存じ、恐懼に堪えません。願わくは、臣に死を賜え、割腹して罪を謝し奉りたい」と言上した。
明治天皇は、退出しようとした乃木将軍を呼びとめられ、「卿もし死を願うならば、われの世を去りてのちにせよ」と仰せられ。
これをどのように理解したらよいのか。この「お言葉」に西郷、鉄舟、乃木へと続く何かが隠されているはず。次回でそれを解明したい。

明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の十四

明治天皇は鉄舟が亡くなった年に描かれた軍服姿のご真影によって、明治時代を統治するにふさわしい天皇像となり、聖なるものへ昇華し、時間を超えても変わらず存在し続けた。と前号で述べたが、一方、意外に庶民性を持つ一面も持たれていたのも事実である。

 人間はひとつの面だけではないということで、それをドナルド・キーンが次のように語っている。(NHKラジオ深夜便・明治天皇を語る2002年10月17日)

「(キーン) 江戸時代の天皇の存在感は非常に希薄なものでした。しかし、明治時代になると事情が変わりました。天皇は大きな存在となり、常識があり、公平で、信頼できる人間的美徳の持ち主として、たとえば拮抗する二大派閥間で争いが生じたとき、天皇にご聖断を仰げば、公平なご裁断をいただけるのではないかと期待する雰囲気が自然にできあがっていったのです。
 また明治天皇には、もうひとつの側面があります。それは、一般庶民と共有する花火大会にご臨幸されたり、気球を揚げるのを民衆とともに観覧されたりしています。ご自分を特別な存在であるとか、一般民衆と異なる喜びを持っているという気持ちはありませんでした。初めて映画をご覧になったとき、あの時代のことですから幼稚な内容のものだったと思いますが、大変楽しまれたようです。蓄音機も大好きで、軍歌を聴いて喜ばれていました。

 ------神のような存在で、いかめしいヒゲを蓄えた肖像画の印象が残っていますが、お話をうかがっていると身近な存在に思えてきます。

 (キーン) まったく、そのとおりです。当時、明治天皇のご消息はしばしば新聞に出ていましたし、『天皇と皇后の関係』などという記事が掲載されていました。その後、時代の変化とともに皇室の位置が変化し、そのような記事が掲載されるようなことはなくなっていきました。」
 これで分かるように、明治天皇はある時期、それは鉄舟が侍従であった前後頃ではないかと推測するが、生活を垣間見ることが出来る記事が新聞に掲載されるような元来ユーモアをもつ人物なのである。
ただし、そのユーモアは「機知というよりは、むしろ男っぽい快活な精神から生まれたものだった」と、次の逸話を日野西侍従の回想からドナルド・キーンは取り上げている。
 「ある日私が出ましたらたいそう御笑いになってをりまして、昨晩面白いことがあったといふ御沙汰でございますしたから、何でございますかと御伺ひ致しますると、『昨晩は隣室に山口がをって大きな鼾をかいて、綾小路が歯ぎりする、鼾と歯ぎりの掛合で面白かった』といふ御沙汰であります。山口が丁度御側にをりまして『いや、御上もたいそう大きな鼾を御かきになったやうに存じます』と申し上げますると、御上もたいそう御笑ひでございました」
 加えて、政治関与への巧みさについても述べている。(ドナルド・キーン・NHKラジオ深夜便)
 「明治天皇がもし、政府の方針に横やりを入れたり、内閣の人事に介入したりするようなことがあったならば、日本の近代化はありませんでした。すぐれた人物があの時代に多く輩出したことは事実ですが、彼らの優秀さを認め、すべてを任せたことが大帝明治天皇の偉大な点であったと思います」

この優れた政治への関与については、伊藤之雄も「明治天皇」で同様のことを指摘し、その時期についても特定している。
 「1890年(明治22年)代以降に絶妙の政治関与を行っていた明治天皇の資質や人間性に、それまで以上に魅力を感じるようになっていたから、というのが明治天皇を引き受けた一つの理由であろう」と、著書「明治天皇」を書いた動機を、天皇の魅力にあったと語っている。

この絶妙の政治関与、その始まりタイミングが、鉄舟逝去した時期(明治21年)頃とあいまっていることを認識すべきではないかと思う。
 つまり、少年天皇として即位され、皇居内という限られた環境下で行動されていた明治天皇が、年代を経るごとに深化され、政治家をも巧みに動かす人物にまでになられた要因背景を注目すべきという意味である。
政治への関与をなされるということは、世界や日本の実態と社会全般への幅広い認識、他者の人物鑑定力にも優れていなければでき得ず、また、その関与が機微に通じていたということは、時事を含めた下世話な出来事にも関心持って、情報を入手し把握しようとしていたと考えるのが自然である。

では、その情報入手把握をする付与条件は何であったか。多くの要因があると思われるが、やはり、鉄舟という存在と、その人間性の幅広さが影響を与えたと考える。
 鉄舟は、剣豪として名高く、武骨なイメージで受けとめられやすいので、近寄りがたき存在と思われるが、実際の鉄舟は面倒見の良い、世話好きであったことを「おれの師匠」(小倉鉄樹)が語る。
 「師匠はよく人の世話をした。人が失職して困って居ると傍観して居られないのが師匠の気質であるから、誰れ彼れの差別を設けないで親身になって就職に斡旋したものだ。
 顔が廣いので夫々大方それ相応のところへ世話が出来たが、一度職を與へると全く各自の手腕に俟つのみで、殊更に後盾となって、乾分(こぶん)*を養成すると云ったケチな了見は勿論ない。然しそれ等が皆師匠の為には死んでもいゝと云ふ気になるんだから妙だ」
 これは鉄舟が失業対策についても協力していた事実を語っていて、今の言葉でいいかえれば「社会に貢献する」「世のため、人のために尽くす」ということになり、鉄舟は「社会関係力」に強い人間であったことを意味する。
また、このような人間性を備えるためには「自らの感情を長期的にコントロールする訓練」が必須であるが、鉄舟の今までの禅修行を振り返れば当然に合点できる。
 

いずれにしても、少年天皇が大帝明治天皇と称されるまでの偉大になられた背景には、本来的に持たれていた個人資質というところにあることは間違いないが、その治世の人生過程で会われた人物の影響を大きく受けているのは当然である。
 

それらの人物を挙げるとすれば、多くの名前が出てキリがない。だが、その中から特定の人物を拾い出すとしたら、明治維新の本質から考えなければいけない。
 それは明治維新の根本精神である。つまり、天皇を元帥に位置づけ、軍の統率者にしたということである。

  ここに「西郷、鉄舟、乃木の精神的役割」が関与してくる背景があるが、これについては後ほどとして、明治維新を成立させた政治家達が確立を急いだのは、対外的には列強諸国に対峙する国家、内的には一体化した国家であった。
 また、国家という統一体を運営する以上、さまざまな支配機構、即ち、政治、経済、法律、軍事、教育、道徳のメカニズムをつくりださねばならないが、最も重要視したのは天皇を国家の精神的統合の中心とし、政治的支配機構と関係させることであった。
 そのために必要不可欠な要素は、天皇を近代国家の君主にすることであって、天皇の外見を変えることであった。つまり、確実に天皇が近代国家君主に変わったということを示すためには、その外見である服装を変化させなければならない。
 今までの女官に囲まれた慣習は「軟弱の風」であって、天皇は髷を結い、薄化粧していたものを、断髪し、女官は罷免排除し「尚武の国体」に変化させるために天皇の服装変化が何よりも優先する。
 そこで打ち出されたのが、明治四年(1871)八月の内密の詔(みことのり)、内勅である。
 「朕惟(おも)フニ、風俗ナル者移換(いかん)以テ時ノ宜(よろ)シキニ随ヒ、国体ナル者不抜以テ其勢ヲ制ス。今衣冠ノ制、中古唐制ニ模倣セシヨリ、流テ軟弱の風ヲナス。朕太(はなは)ダ慨(これを)レ之(なげく)。夫レ神州ノ武ヲ以テ治ムルヤ固(もと)ヨリ久シ。天子親(みずか)ラ之ガ元帥ト為リ、衆庶以テ其風ヲ仰グ。神武創業、神功征韓ノ如キ、決テ今日ノ風姿ニアラズ。豈(あに)一日モ軟弱以テ天下ニ示ス可ケンヤ。朕今断然其服制ヲ更(あらた)メ、其風俗ヲ一新シ、祖宗以来尚武ノ国体ヲ立ント欲ス。汝近臣其レ朕ガ意ヲ体セヨ。」
 

この内勅で、「風俗」とは時流にしたがって移り変わり、「国体」は変わらないとして、長年の歴史を経た現在の「風俗」の軟弱化を批判し、「尚武ノ国体」にのっとって、今後、採用すべき服制の傾向を示そうとする意図が示された。
 この内勅で興味深いことは、ひとつに「武ヲ以テ治ムル」とし、自らが「元帥ト為リ」と主張されていることである。これは軍事国家への方向である。
 

  もうひとつは「神武創業」を呼び起こしていることである。天皇の神話化であり、これにもとづき皇室祭祀が次々と新設された。
 宗教学者の村上重良氏は、現代においてこれらの祭祀に誤解があることを指摘している。それを「天皇の肖像」(多木浩二著)が紹介している。
 「皇室祭祀は、皇居の奥深く、古式にのっとっておごそかに営まれるという先入観からなにもかも古代に発しているように思われがちであるが、近代の皇室祭祀の大半は、明治維新後に創案された新しい儀礼である。天皇が親祭する祭典(大祭)は十三にのぼるが、そのうちイネの収穫に由来する新嘗祭、伊勢神宮の祭典をあらたに皇室祭祀にとりいれた神嘗祭以外の十一の祭典は、すべて新定の祭りであり、大別して、記紀神話にもとづく祭りと皇霊の祭りから成っていた」
 

  これに成程と思う。近代天皇制とは、天皇神格化という方向にもとづき、神話づくりとして皇室祭祀の大半が設けられていることである。
 

  さて、天皇の服装に戻るが、その西欧化については、明治維新は旧来の陋習であった現在の「風俗」を改め、率先して「尚武ノ国体」にすべく、そのために西欧の衣装の導入を図るが、それは「国体」を守るためだ、という筋道から引き出されたものであった。

  さらに、それは近代的なものと、伝統的なものの妥協を図るという、つまり、西洋文明の流入にさいして、日本人が整理し心構えとした「和魂洋才」に通じるものであった。
いずれにしても、天皇の服装は、明治三年(1870)四月の陸軍連合訓練時には、直衣(のうし)を着て袴をはいて馬に乗っていたが、明治四年の操練時には洋装(軍服)となり、五月頃からは皇居内でも政務をみる御座所では洋服を着用し始めた。

明治五年(1872)九月には、天皇の陸軍大元帥の服制が定められた。帽子は黒色、上着・ズボンは紺色の洋装で、帽子及び上着袖とズボンに金線を加えている。

近代国家の君主に位置づけるためには、西洋にならって軍服を装い、日常の執務でも常に軍服を着て過ごし、軍の統率者としてのイメージを創り上げた。

これは既にみた内勅に示されたとおりであり、明治天皇は自らを元帥として意識していた証明である。

しかし、明治天皇には軍人としての経験がない。何度もいうようであるが、京都御所奥深くで女官に囲まれて生活されていたのが明治維新までの姿であったので、軍の統率者になるためには指導者が当然に必要であった。

では、誰が最初その任にあたったのか。それは西郷隆盛しかあり得ない。
その西郷は、明治元年(1868)九月の会津藩・庄内藩の降伏を受けると、鹿児島に戻ってしまい、維新後の混乱や廃藩置県等の政治改革のために上京したのは、明治四年(1871)二月であった。いわば、維新政府によって西郷は引きずり出されたのであって、西郷は明治初年時点においては天皇の側近くにはいなかった。

明治四年(1871)十一月十二日、岩倉全権大使と大久保利通・木戸孝允含む一行四十八人と、留学生五十四人がアメリカに向けて出発した岩倉使節団、この留守を預かったのは太政大臣三条実美と西郷隆盛であったが、実質的に西郷政権といわれる実態であった。

したがってこの時期、明治天皇は西郷との関係が深まり、明治四年十一月二十一日から二日間の横須賀造船所への行幸、御親兵の訓練を見学するため、日比谷門外の訓練所に乗馬で行幸、明治五年(1872)一月八日の日比谷陸軍操練所(現・日比谷公園)で陸軍始めへ行幸、翌日は海軍始めで、築地の海軍兵学寮(後の海軍兵学校)に馬車での行幸、これに続く六大巡幸の第一回目は、明治五年(1872)五月二十三日に出発した近畿、中国、四国、九州巡幸、いずれも西郷が供俸していた。

これら巡幸において、明治天皇は西郷と常に顔をあわせ、その人柄に接しているうちに、西郷の人物像がさらに分かってきて、結果として西郷が持つ人間性魅力に惹かれていったのは無理からぬことで、天皇の「武士的変化」は西郷の個性によるところが大であることは間違いない。

その一片を語るのは天皇より二歳年長と年齢の近い、親しかった公卿の西園寺公望の次の回想である。
「天皇が落馬して痛いと言った時、西郷は、どんな事があっても痛いなどとはおっしゃってはいけませんとたしなめたという」(明治天皇 伊藤之雄)
ここまで天皇に直言できるのは、西郷を軍統率するための指導者として、天皇が認識し受け入れていたからであるといえる。

したがって、その西郷が西南戦争を引き起こした際は、明治天皇はあらゆるものに無気力の症状を見せ、ウツともいえる状態となって、国家元首としての務めを果たすことを拒み、学問にも従事しようとさえしなかった。

ようやく西南戦争の収拾が見え始めた明治十年(1877)七月、京都から東京に戻って、以前の宮廷生活に入ると、そこには身近な存在としていつも変らぬ鉄舟がいて、改めて、厳しい禅修行という内面とのたたかいをしている姿を見つめた時、明治天皇の内面に何かが入っていき、そこからウツ状態が解消し始め、結果として明治天皇の相貌に賢者・風格・重厚・気品が顕れていき、それが「御真影」となった経緯については既に検討した通りである。

西郷は明治四年から六年までの約二年間、明治天皇が二十歳から二十二歳まで指導した。鉄舟は明治五年から十五年まで侍従として十年間、明治天皇が二十一歳から三十一歳まで直接仕え扶育し、その後も明治二十一年逝去するまで宮内省御用掛として務めた。

その西郷も鉄舟も亡くなって、その後に明治天皇への精神的役割として登場したのは乃木希典、かの有名な乃木大将である。

明治天皇と乃木の関係は、明宮親王(後の大正天皇)が結婚し皇孫殿下、即ち昭和天皇であった裕仁親王が明治三十四年(1901年)に誕生された時は、明宮親王の育て方と教育を一新し、大正天皇をとばして昭和天皇に期待を寄せるというより、乃木を通じて自らの意志を昭和天皇にかけたというべき行動が見受けられた。

それが乃木希典を学習院長に任命した背景であり、裕仁親王の教育を乃木に任せたのである。

この三人、西郷、鉄舟、乃木の共通性は、いずれも武士出身でということである。
相違点は、西郷と乃木は軍人であり、鉄舟は軍とは関係なき武人として生涯を過ごした。
さらに、西郷と乃木は幼少年時代、生活が貧しい階級であったが、鉄舟は高級旗本として豊かな生活環境にあった。

また、三人の亡くなり方は異なる。西郷は政府軍という天皇直轄軍隊に追い詰められ鹿児島・城山で自決。鉄舟は結跏趺坐した、正に坐脱という大往生。乃木は明治天皇大葬の儀当日、割腹死という殉死。妻静子も短刀で胸を刺していた。

乃木の遺書に、西南戦争時に軍旗を失ったことを恥とし、ひそかに死処を求め、その罪を謝そうとしたが、その機会を得なかったとあった。

乃木は日清、日露戦争でも死処を求めたが、やはり機会をえなかった。日露戦争では、乃木の命じた旅順攻撃で数万の将兵が死んだ。戦死者の中には、乃木自身の二人の息子もいた。乃木は、天皇陛下の「赤子」を失わせたことで慙愧の念にかられていた。

しかし、天皇は乃木を責めず、日露戦争が終ると乃木を学習院長に任じた。乃木は、これまでに増して天皇の恩の厚さを感じないわけにいかなかった。

明治天皇が最後の病に倒れて以来、乃木はひたすら天皇の回復を祈った。だが、その甲斐なく天皇は崩御された。

乃木は天皇の霊に対する忠義の証として、自らの生命を捧げたのだが、明らかに明治天皇と乃木の関係は、西郷と鉄舟と異なる。しかし、明治天皇の精神性に与えた影響は西郷から鉄舟、そして乃木へとつながっている。
 次号はそれを検討したい。

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