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2014年4月23日 (水)

2014年4月例会開催結果

2014年4月例会開催結果
  4月は以下の発表がなされました。

① 木下雄次郎氏

山岡鉄舟居士印存、山本玄峰老子題字「神如誠至」の掛け軸(紙本水墨・ 緞子裂・ 象牙軸)、「昭和30年9月上浣(注・上旬) 全生庵主玄實識」をご持参賜り、「鉄舟、人生のこころの標を刻する77種の印」として解読・解説いただきました。

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木下氏ならではの見事な内容に、参加者一同驚き入る時間を過ごし、鉄舟の深い人生を学ぶことができました。木下氏に感謝申し上げます。
なお、解読内容の詳細はホームページ「例会の報告」(2014年4月23日)に掲載いたしましたのでご覧願います。http://www.bushi-do.org/ 
         

② 山本紀久雄

以下の二項目について発表いたしました。
●鉄舟が文部科学省「私たちの道徳」に取り上げられた背景につきまして、 文部科学省の初等中等教育局 教育課程課を訪問し伺った内容をお伝えしました。

●清水次郎長研究のまとめとして、次郎長が鉄舟から影響を受け、明治維新後 は正業に変身した背景要因について、以下のように解説いたしました。

「次郎長は鉄舟によって生き方を変えた」

1. 天保十三年(1842) 二十三歳、故郷清水を出奔。次郎長の目標は「海道一の親分」

2. 安政六年(1859)、保下田久六を斬殺し復讐を果たし、文久元年(1861)、都田吉兵衛を殺し武闘派として鳴り響く

3. 文久元年 十月、東海道宿・菊川での次郎長と金平との手打ち式に四百余人会す。「海道一の親分」地歩へ

4. 手打ち式後、武士になるよう勧誘に来るが断る。この武士は大和五条で挙兵した天誅組の乱の一味

5. 慶応四年(1868)三月、望嶽亭から鉄舟を西郷隆盛の宿泊先・松崎屋源兵衛宅へ送り届ける。その際、次郎長の胸中に何かが走った。それは何か。己の中に「隠れていた次元」の「閾値」ともいえるもの、それを鉄舟と出会うことで引き出し得た

6. 慶応四年(1868)三月十三日、江戸薩摩屋敷の第一回海舟・西郷会談後、「命もいらず、名もいらず、金もいらず」と西郷が海舟に語った

7. 西郷と次郎長の鉄舟に対する共通人物判断認識

8. 慶応四年三月末日、駿府町差配裁判伏谷如水から突然呼び出され、東海道筋と清水港警護の役へ就任

9. 慶応四年五月、田安家の亀之助(後の徳川家(いえ)達(さと))が駿河藩七十万石、駿府藩役職として鉄舟が着任

10. 明治元年(1868)九月、咸臨丸が漂流し清水港へ。新政府軍に斬られ海に投げ捨てられる

11. 次郎長、子分を動員して浮屍を引き上げる

12. 咸臨丸事件で鉄舟と次郎長の関係深まる

13. 明治維新を契機に無宿・無頼の渡世からキッパリと足を洗い、正業で暮らしを立てようとした博徒は稀。大変身し得たのは、時代の思想、潮流、趨勢というより、それらを体現して眼前に現れた人物、鉄舟と伏谷の影響で、特に、鉄舟が次郎長の羅針盤となり、人生の師匠として大きな影響を与え続けた結果

14. 明治二十一年(1888)七月十九日鉄舟永眠。二十二日の葬儀に次郎長は子分二百名を引き連れ、折からの豪雨の中、ずぶ濡れになって泣きながら行列の先頭を歩いた。次郎長の装いは改心する前の博徒旅姿だったという。次郎長が鉄舟によって改心できたという証を示したのだろう

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