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2014年2月 2日 (日)

明治天皇の侍従としての鉄舟・・・其の十

明治天皇の侍従としての鉄舟・・・其の十

明治五年(1872)三月、明治に入って東京で最初の大火が、今の東京駅近くの和田倉門内にあった旧会津藩邸から出火し、神田から京橋あたりまでの五千数百戸を焼き尽くした。
この大火事によって、焦土化した丸の内から銀座一帯を首都の正面玄関とすべく、火事に強い煉瓦づくり工事を行い、当時の日本には見られない「銀座の煉瓦地」となった。
さらに大火は続いた。翌明治六年(1873)五月五日未明、今度は皇居から出火した。

明治天皇記に「皇居炎上す。昨朝来北風列し、午前一時二十分紅葉山女官房失火あり」とあるように、燃えさしが完全に消えたことを確認しなかった女官の不注意で、皇居内の物置から出火し、燃え広がったのである。

「皇居が火事だ」という連絡で飛び起きた鉄舟は、腰に一本刀をぶち込み、人力車を韋駄天のごとく走らせ、火消しで右往左往している皇居内をくぐりぬけ、目指したのは明治天皇の御寝所。だが、御寝所の戸が開かない。鍵かかっている。

鉄舟は鍛え抜いた巨体をもって猛烈な体当たりを扉に二度三度、ようやく扉を破り、御寝所に飛び込んだ。

「山岡か! 待っていたぞ」。御寝所から明治天皇を安全な場所に案内し、事なきを得たが、皇居一円が灰燼に帰した。剣璽などの三種の神器は無事であったが、太政官、宮内省の重要公文書類の多くは灰と化した。

仮皇居が元紀州藩邸の赤坂離宮と定められ、以後、明治二十二年(1889)の新皇居完成まで十数年をここで過ごすことになった。

 侍従鉄舟の働きについて「明治天皇 木村毅」に次の記述がある。
「このあとで、天皇は、山岡の愛読する『大日本史』をとりよせて、それが乙夜の覧(天子の読書)に入っている。本箱のふたに、そのいわれを墨書したこの稀書は、いま私の所有に帰して、書斎の一角をかざっている」

 明治天皇がいかに鉄舟を信頼していたかという、ひとつの証明ともなる記述であろう。

 鉄舟が静岡から東京に移り、侍従になった頃の住まいは、柏木淀橋中ノ村字天狗山六十五番地であった。今は中野区中央一丁目17-3に鉄舟ゆかりの高歩院、これは山岡鉄太郎高歩(たかゆき)*の高歩から名付けられ、現在、鉄舟会禅道場となっているあたり一帯の地であって、当時は天狗山といわれたほどの狐狸の棲む森林地帯、面積は六万平方メートル以上もある広大なものだった。

 火事を契機として、この住まいではいざという時に皇居から遠すぎると、真剣に引っ越しを考え、物件を探したところが、四谷の紀州家家老の屋敷。現在の学習院初等科があるあたりで、敷地も広く、仮御所の前に面しているので移転した。
 

さて、岩倉使節団が出発した後は、「西郷政権」というべき政治が行われ、西郷が持つ「武人的個性」によって影響された明治天皇は、質実剛健で実質的な能力によって威信と信頼を高めていったことは前号でふれた。

さらに、西郷の推輓(すいばん)で侍従となった鉄舟についても、剣・禅修行で鍛え抜いた「本物の武士」という姿が皇居火事において顕現化し、西郷ともども強い信頼を天皇から受けることになった。

 ここで西郷政権に対する評価について、福沢諭吉の「明治十年丁(てい)丑(ちゅう)公論」からみてみたい。というのも、西郷の業績に対する分析評価は数え切れないほど多くの識者が行っているが、その多くは西郷死後数十年を経た後に述べているものが多く、当時に生存していた人物によるものは少ない。

「明治十年丁丑公論」は明治三十四年(1901)に時事新報に掲載されたものであるが、西南戦争直後に脱稿したもので、福沢が当時の政情を分析し述べたものである。

 一般的に、後世の歴史家によって、過去の事実が語られ歴史がつくられていくが、事実が生じた同時代に生きた識者によって語られた文献も、当時の生々しい動きと実態を的確に示しており、それらを併せてみていくことは歴史の読み方として重要であろう。

 「明治十年丁丑公論」を書いた福沢諭吉の立場は、西南戦争について西郷擁護に立って述べたものである。まず、

「(西南戦争によって)第一政府の主人たる天皇陛下の身に一豪の災厄ある可らざるは固より論を待たず」と前提を述べ、続いて
「当初西郷が自ら今の政府の顕官と共に謀て定めたる政体なれば、僅に数年の間に自ら作りたるものを自ら破るの理ある可らず」と西郷の立場を分析している。
「西郷隆盛が兵器を携て熊本県下に乱入したるは、其の乱入の日に乱を為したるにあらず、乱を為すの原因は遥に前日に在て存せり。明治七(六)年内閣の大臣に外征を主張する者と内政を急務とする者と二派に分れ、西郷は外征論の魁(さきがけ)*にして其見込みを屈せず、遂に桐野以下附属の兵卒数百名を率ゐて故郷に帰りたり」
「内閣に残る諸大臣は之を制止せずして黙許に附したることなれば、其景況は恰も陸軍大将が兵隊を指揮して鹿児島に行くと云ふも可なり」
「其証拠には西郷が帰郷の後も政府は之に大将の月給を与えたり。之を公の俸禄とす」
「明治七年内閣の分裂以来、政府の権は益々堅固を致し、政権の集合は無論、府県の治法、些末の事に至るまでも一切これを官の手に握て私に許すものなし。人民は唯官令を聞くに忙はしくして之を報ずるに遑(いとま)あらず」と大久保利通の有司専制を批判し、
「猶維新の際に榎本の輩を放免して今日に害なく却て益する所大なるが如し。然るに維新後、佐賀の乱の時は断じて江藤を殺して之を疑わず、加之この犯罪の巨魁を捕へて更に公然たる裁判もなく其場所に於て刑に処したるは之を刑と云ふ可らず。其の実は戦場に打取たるもの如し」と述べ、最後に結論を下している。

「西郷は天下の人物なり。日本狭しと雖も、国法厳なりと雖も、豈(あに)一人を容るゝに余地なからんや。日本は一日の日本に非ず。国法は万代の国法に非ず。他日この人物を用ゐるの時ある可きなり。是亦惜む可し」(福沢諭吉集 近代日本思想体系2 筑摩書房)

このように福沢諭吉が「西郷政権」の業績を認めた内容となっているが、書き方は当時の少々難しい文体となっている。

そこで「敬天愛人 西郷隆盛 海音寺潮五郎著」が以下のようにまとめているので紹介したい。

「『丁丑公論』という著述の中に、『西郷が留守政府をあずかった二年間は国民は悦服(よろこんで心から服従する)して不平がましいこともなく、知識人らは言論の自由を享受して、自由闊達な議論を発表して、最も楽しい期間であった』」といっています。この点では、西郷は立派に留守をあずかったのです」
 福沢諭吉の西郷政権評価を、海音寺潮五郎は妥当と判断しているのである。

②維新三傑の亀裂

明治天皇が「明治大帝」と尊称されるまでになられた過程で、どのように鉄舟が関与していたかについて、①西郷政権 ②維新三傑の亀裂 ③天皇の鬱 ④御真影の分析、西郷、鉄舟、乃木の精神的役割いう順序で展開していくが、その②維新三傑の亀裂に入りたい。 
巷間、維新三傑の亀裂は明治六年の「征韓論争」からであるといわれているが、果たしてどうなのか。論争に至るには、その背景に「人の考え方」が存在し、その考え方の基盤には、その人物が経験したことが重要なファクターとして影響し存在しているはず。

明治四年(1871)十一月十二日に出発した、岩倉具視全権大使と大久保利通・木戸孝允の岩倉使節団一行は、訪れた欧米諸国の体制と現実を見て、これからの日本という国の行く末と体制について、それぞれ深い考えをめぐらした。

しかし、それへの考え方は、見聞きした事実がひとつであっても、人はそれぞれの過去経験の集積化によって培われたものによって、今後の方向性を違ったものにする。

これに関して「小国大輝論 上田篤著」が以下のように述べているので紹介したい。

「岩倉使節団が欧米各国を視察したとき、一行が、はじめアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、オーストリアそれにイタリアといった七か国の大国のどれかを日本の将来モデルの候補としてかんがえていたかはうたがわしい。

というのも使節団は、それら大国のほかにベルギー、オランダ、ザクセン、スイス、デンマークそれとスウェーデンといった小国六か国をも訪問しているからだ。むしろ使節団はこれら小国に大きな関心をよせ、かつ、期待感をにじませていた。それも、日本の国土の小ささや資源の少なさをかんがえれば、とうぜんのことだったろう。

ところが、使節団が日本を出発する前年に普仏戦争がおき、そのけっか小国プロイセンは大国フランスに勝利した。そして使節団がヨーロッパに到着したときには、プロイセンを中心とするドイツ帝国がうまれていたのである。

そうして一行はドイツ帝国で『鉄血宰相』の異名をとるオットー・ビスマルク(1815~98)の演説に魅せられた。『小国が生きていくためには国際法などおよそ役に立たない。鉄と血によるしかない』

じっさい1701年に生まれた若い小国のプロイセンは、そのごナポレオンに敗れて屈辱的条約をむすばされたが、近代官僚が登場して国の近代化をおしすすめ、ロシアと組んでとうとうナポレオンをやっつけてしまった。さらに普墺戦争でオーストラリアを、普仏戦争ではフランスを破ってヨーロッパの大国になったのである。ビスマルクに象徴される「武闘路線」の勝利である。

このようにナポレオンにおさえられていたがそれを跳ねかえした、というプロイセンの歩みは、片務的な『日米修好通商条約』を飲まされて苦々しいおもいで開国した日本人にものすごい共感をもってうけいれられた。

すると日本もまた『日米修好通商条約』をうちやぶるためには武闘路線をもって大国になるしかない。

こうして使節団一行は、ドイツにおいて『小国だったプロイセンが大国ドイツになった』というなまなましい現実をみせつけられたことが大きかった。

ここに道徳どころか国際法までも無視するビスマルクの演説に共鳴して、大久保利通の『大国志向』がうまれていった、とおもわれる」

「日米修好通商条約を打破するための手段としての『富国強兵』が、こうして日本の国是になっていったのである」

つまり、大久保利通は過去経験から内在していた「考え方」を基盤に、富国強兵路線を日本の国是にしようとしたのである。

だが、維新の三傑のもう一人、木戸孝允は違った見解を持っていた。それを「小国大輝論」から見てみよう。

「岩倉使節団が欧米をまわったとき『日本のモデルをどの国にするか』という感想は、各人によってみなちがったようだ。

スイスにはいったときのことである。
一行はそこで、レフ・イリイッチ・メーチニコフに会った。イタリア統一運動をすすめるジュゼッペ・ガリバルディの参謀もつとめたという国際的革命児である。
そのかれは、岩倉使節団の全権大使の岩倉具視についてこう書いている。

 ピョートル大帝の大の崇拝者であったかれは、このロシアの改革者の肖像画の一大コレクションを今回の旅行でもちかえっている。

そして副使の大久保利通についてはこうだ。

 フランスの中央集権制にほれこんだ大久保は、パリで得々としてセーヌ県の複雑な機構とナポレオン法典の研究にいそしんできた。

おなじく副使の木戸孝允については、

 日本議会の招集を夢み、ほどなくすばらしい炯眼をもってこう洞察した。すなわち長期にわたる共同体制をそなえたスイスこそ、領土の狭さにもかかわらず、多様な地域的、歴史的特性をもった日本のような国の為政者にとって格好の政治的教訓になる。
                 (以上、メーチニコフ『回想の明治維新』)

なんと『維新の元勲』の一人木戸はスイスに注目していたのだ。

ともあれヨーロッパで、日本の正使と二人の副使がみた『理想の国』は、このようにロシア、ドイツ、スイスとまるで異なっていた。一つの使節団とはいうものの、幹部たちの政治思想はかくもちがい、この欧米視察はいわば『同床異夢』の旅だったのだ」

このように木戸と大久保とは大きく異なる見解であり、この当時から大久保と木戸の対立があり、二人は口もきかないようになっていたといわれているが、結局、有司専制といわれた大久保への権力集中によって富国強兵路線に向かったわけである。

いずれにしても、岩倉使節団はそれぞれ「考え方の違い」をもって、長い欧米視察を終え戻ったのであるが、その日本ではいわゆる「征韓論」が巻き起こっていた。

この「征韓論」(朝鮮への西郷大使派遣問題)について、その経緯を述べ出すと、鉄舟というテーマから大きく外れるのでふれないが、これが維新後はじめて本格的な政府分裂につながった問題であった。

明治六年、岩倉、大久保、木戸が帰国し、留守政府だった西郷政権が決定済みだった「西郷大使を朝鮮に派遣する」問題は、最終的に明治天皇が裁断を下した。

明治六年十月二十四日、明治天皇は岩倉の意見に賛成し、次の宸翰の勅書を下した。

「今汝具視ガ奉状之ヲ嘉納ス。汝宜ク朕ガ意ヲ奉承セヨ(汝岩倉具視の進言を喜んで受け入れることにした。汝は朕の意とするところを慎んで受けよ)」

この天皇の一言で征韓論は消え、西郷ならびに西郷支持派の参議(江藤、後藤、板垣、副島)は、全員病気を理由に辞任した。天皇は結果として大いに心を痛めることになったが、朝鮮との戦争は避けられたのである。

この明治六年は、五月の皇居の火事、十月の征韓論と大問題が明治天皇に被さってきたが、そこに皇子、皇女の相次ぐ死去が続いた。

九月に権典侍・葉室光子から第一皇子が、十一月に権典侍・橋本夏子から第一皇女がそれぞれ生まれたが、二人とも即日死亡した。橋本夏子も翌日死亡し、天皇の子供が育たない悪しき前例がはじまった。

柳原愛子から内親王が八年に生まれたが、翌年に「脳疾」によって亡くなった。第二皇子がやはり柳原愛子から十年に生まれたが、この皇子も「脳水腫」によって十一年に死亡した。

信頼のあつかった西郷が去り、子供を次々と失う若き明治天皇、酒に走りがちの日常ではあったが、その酒の相手として鉄舟が常連であった。

「天皇の酒の強さについては、近臣たちの数々の思い出話が残っている。例えば、侍従高島鞆之助は次のように語っている。『御酒量も強く、時々御気に入りの侍臣等を集めて御酒宴を開かせられしが、自分は酒量甚だ浅く畏れ多き事ながら何時も逃げ隠れる様にして居た。所が彼の山岡鉄舟や中山大納言(忠能)の如きは却々の酒豪で、斗酒猶辞せずと云ふ豪傑であったから聖上には何時も酒宴を開かせ給ふ毎に、此等の面々を御召し寄せになっては、御機嫌殊に麗はしく、勇壮な御物語を御肴として玉杯の数を重ねさせ給ふを此上なき御楽しみとせられた。而も聖上の当時用ゐさせ給ひし玉盃は普通の小さいのではなくて下々の水飲茶碗を見るが如き大きなる玉盃に、並みゝと受けさせられては満を引かせ給ふが常であった』」(明治天皇 ロナルド・キーン著」

鉄舟も酒量は並でなく、晩年は胃を悪くして酒量を制限したが、それでも晩酌は一升ずつであったくらいであるから、明治天皇が酒宴を開くときの格好の相手であり、明治天皇が子供を立てつづけに失い、信頼する西郷が政府を去るという、苦しい中にあって楽しいひと時であったことが容易に推察できる。

さらに、明治天皇が京都の朝廷育ちであるから、世情、民情、下情、つまり世相に対しても詳しくないが、鉄舟は極端な貧乏暮らしを嘗め、その上江戸無血開城から始まる多くの修羅場を踏んで来ているのであるから、明治天皇にとっては世間、巷間、俗間という世上を知る格好の相手であったろう。

つまり、明治天皇の一般社会に対する理解の基本を、鉄舟が酒宴を付き合うことによって奏上したことになったはずである。全く生きた世界が違う同士であったが故に、鉄舟の奏上が明治天皇の心身に入っていき、鉄舟への信頼は増した。

一方、このような酒宴が続いていた中でも、明治天皇は練兵・乗馬で鍛錬を続けた。明治七年の練兵は六十七回に達し、翌八年の乗馬回数は二百二十五回に達した(明治大帝 飛鳥井雅道著)というのであるから、三日に二日は乗馬していたことになる。

乗馬の後も時には酒を飲んだが、それは青山御所であった。ここには皇太后(夙子(あさこ))がいて、同御所のお茶屋で皇太后が用意した肴で酒を飲んだ。皇后も同席することもあったが、明治天皇は夜まで仮御所に戻らない時もあり、ストレス解消でもあったのだろう。

さらに、練兵・乗馬後に「六角堂」と称していた洋館で夕食をとり、その時はワインを飲んだが、乗馬で帰れないほど泥酔したこともあり、調馬師や側仕えの者が、馬の口と尻尾をつかまえて、落馬しないように気をつけながら、仮御所に戻したこともあった。

いずれにしても当時のストレスが、このような酒の飲み方になったと思われる。

そのストレスの最大要因は、明治六年以来の政府分裂以来、重臣内部での意見対立からも来ていた。そのあらわれとして明治九年(1876)の東奥巡幸時の出来事がある。巡幸の旅先で、岩倉と木戸が天皇の前で「民情風俗」「政治の得失」をめぐって大激論になった。両者は「肺肝を吐露して上言する所あり。深更に至りて始て退出す」(木戸孝允日記)というが、その内容は今ひとつ「岩倉公実記」などによっても明らかでない。

天皇の位置、また天皇をどう補佐するかが本来のテーマだったらしいが、二人とも手づまりの情況だった。すくなくとも侍従になったばかりの藤波言忠が、天皇にその座から退出を命じられるほどの激論、対立ぶりだったのである。(明治大帝 飛鳥井雅道著)

このような情勢下、いよいよ西南戦争が勃発した。次号は「③明治天皇が鬱」についてふれたい

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