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2014年2月 2日 (日)

明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の十一

先日、読者から「明治天皇すり替え説」真否について質問を受けた。質問者はいたって真面目な人物で、真顔で尋ねてきた。

このようなすり替え説が、昔から巷間にあることは知っている。その説を簡単に述べると「孝明天皇の皇子である睦仁親王は暗殺され、南朝・後醍醐天皇第十一番目の皇子満良親王の王孫・大室寅之祐を、毛利家の先祖である大江氏が代々長州の萩において守護してきて、明治天皇としてすり替え即位させた」というもの。

このようなすり替え説が出る背景には、孝明天皇と中山慶子の間に生まれた睦仁親王が、幼少より虚弱体質で、女官たちに囲まれて育ち、神経がこまやかで気が弱く、とても明治新体制で政治力を期待できる人物としては育っていなかったので、あのような立派に明治大帝として存在したはずがないという、明治天皇の素質からの疑問である。

確かに、明治天皇の死後、天皇を知る宮中に関係した人達によって書かれた追想録を見ると、相矛盾するものが多い。

ある人の回想によれば「明治天皇は幼少時代、きわめて健康で活発な少年であり、いじめっこの風貌さえあり、相撲も一番強かった」という。

ところが別の人物の回想によれば「幼少時代の天皇が虚弱で病気がちの少年であった」と述べている。さらに、蛤御門の変で初めて大砲の音を聞いて気を失ったという話が語られている。

そこで、既に述べたが(2011年2月)睦仁親王と一緒に育った乳母の子である木村禎之祐の記述を再度紹介したい。(「明治天皇の御幼児」太陽臨時増刊 大正元年刊)
「聖上には御勝気に在(ましま)す丈(だ)けいと性急に在(おわ)され、少しく御気に叶はぬことの出来れば、直ちに小さき御拳を固められ、誰にでも打ち給ふが例にて、自分など此御拳を幾何(いくら)頂きたるか数知れず。何分自分は一歳年下のこと故、恐れ多しといふ観念は更になき上に、固(もと)より考への足らぬ勝ちなるより、常(つねづね)に御気に逆らい奉りたること少なからず、其度(そのたび)毎(ごと)にぽかんぽかんと打たせ給ひたり。」

この木村禎之祐の記述は、明治天皇の親しい遊び相手として仕えた人物であり、自分がげんこつで何度も殴られたという回想であって、このような回想が嘘とは思えず、さらに、明治天皇は父の孝明天皇に似て長身であったことからも、体格には恵まれていたと推察できるので、幼少時代はきわめて健康で活発な少年であるというのが妥当な理解と判断している。

だが、いくら活発であったといえ、女官に囲まれ育ったので、西郷隆盛によって「武士的変化」をするようになったとしても、本来の素質は変わらないので、後年、軍服を着てけいけいたる眼光の君主にはなれない。という指摘もそれなりに説得性があると思っていたところ、飯沢匡による以下の見解に出合ったので紹介したい。

「明治天皇には男性的世界への強い憧れがあったのではないか。いうなら幼児期の女官に取り囲まれていた公家風な宮廷生活を否定したくて公家ではない武士の空気が好ましかったのであろう。だから側近には武士出身の人々で固めていた」「明治天皇が西郷隆盛を愛したということであるが、彼が一番武士らしく男性的で、しかも英語などペラペラ操る人間でなかったことが気に入った理由かもしれない」(異史 明治天皇伝)

歴史的考察とは「姿、かたち」を切り取った経過の断面にすぎない、という表現があるように、人によって歴史を異なる視点で見ていく場合が多い。したがって、個々人それぞれ違う見解を持つことになりやすい。

だが、なるべく裏からでなく、表舞台の事実から歴史を検討し考察することの方が、我々の生き方に参考になり、今後に活用できるのではないか。

明治天皇すり替え説は話としては面白いが、そこから歴史的考察を続けていくと、現在は擬制体制となって、現実が有名無実になってしまうだろう。

さて、ここで西郷隆盛ならびに西郷支持派の参議(江藤、後藤、板垣、副島)が辞任した明治六年(1873)政変以後、明治十年(1877)までの日本国内状況を簡単に整理してみたい。

明治六年はそれまで使われていた太陰暦が廃止され、一月に太陽暦が最初に施行された。「明治五年(1872)十二月三日を以って、明治六年一月一日とする」と、明治五年十一月九日に改暦詔書を出し、時刻法も従来の一日十二辰刻制から、一日24時間の定刻制にすることを布告した。布告から施行までわずか二十三日というスピード実施であり、しかも十二月(師走)がわずか二日で終わった。当時の人々のあわてようは想像に難くない。

このような荒技・劇的変化もふくめ、親政府は矢継ぎ早に欧米にならった近代化を推し進めた。廃藩置県・地租改正・断髪令・徴兵令。さらに、神仏分離政策により、路傍の神仏を撤去し、時には合祀したり、神号を変更したりと、それまで民衆の慣れ親しんだ世界が上からの改革で、有無を言わさず変更されていった。

民衆の多くが、これからの生活に不安を覚え、政府に不信感を抱いたとしても無理はなく、発生したのは新政府反対一揆である。

特に、西日本一帯で数年に渡って続いた明治六年の筑前竹槍一揆の参加者は、十万とも三十万ともいわれ福岡県庁すら一時占拠されるほどで、一揆は、政府の進めた文明開化政策のありとあらゆる出来事を、廃止の対象とした。 

その頂点は九年の三重県伊勢暴動と、茨城県真壁騒動で、地租改正反対一揆の代表とされ、結果として明治十年新年の四日、民衆負担軽減のため、地租を地価百分の三から、百分の二分五厘にすると天皇によって発表された。いわゆる当時「竹槍でドンと突き出す二分五厘」とうたわれたものである。

政府の歳入減少は、行政の経費削減という結果になり、天皇は各省庁に歳出費用の節減を命じた。

このことを木戸孝允は次のように日記で記録している。
「平常より願い上げてきたことなので、実に有り難いことである。この上は、叡旨貫徹されて人民に幸福がもたらされるよう、ひたすら願うばかりである」(木戸孝允日記)
この木戸は五月二十二日、長患いの上死去した。木戸の死は明治天皇にとって大きな衝撃だった。西郷が鹿児島に去り、維新三傑は大久保利通一人が政府にいるだけになったからである。

このように各地での一揆と、士族反乱がより深刻な局面を示していたのが、明治十年の西南戦争までの日本国内状況であった。

この状況の中で、明治十年に入った二十六歳の天皇は、突如として「ひきこもり」とも「ウツ」とも見られる症状を示し出し始めた。その状況を明治十年新年から探っていく。

一月四日、地価軽減発表と同じ日の明治天皇紀に「乗馬あらせられる」と記載がある。通常であれば、取り立てて触れるほどのこともない乗馬は日課の一つである。しかし、天皇はこの日から取り憑かれたように馬に乗り始めた。ほとんど連日、午後二時から日没まで励み、この月の後半から京都への行幸中もこの日課は変えなかった。

京都では七月一日の華氏九十四度という暑さ、明治時代の気温計測は現在と同じく摂氏目盛りだったが、市販の温度計は輸入品が多いため、華氏目盛りが昭和初年まで広く使われていたため、当時の猛暑の目安は華氏九十度(摂氏32・2度に相当)とされていたが、この暑さの中でも馬場へ出られた。

その後、天皇は脚気を患った。そのため一時的に乗馬を諦めたが、侍医の許可がおりた十月後半、乗馬は再開された。

何故に乗馬について触れてきたか。それは天皇の日課が今までと異なる状況になってきたタイミングと、乗馬の熱心さとが合致しているからである。

その第一は、この時期、閣僚と会うのを努めて避けるようになったことである。

その第二は、この時期、予定された学問の日課を避けるようになったことである。

明治十年の明治天皇学問ご進講予定は「続日本紀」(福羽美静)、「英国史法律」(西村茂樹)、「大学」(元田永孚)、「古今和歌集序」(近藤芳樹)、「万葉集」(渡忠秋)であったが、一月二十四日から十月二十二日まで中断された。(明治天皇紀)

一月二十四日、大和国及び京都行幸へ出発した。行幸の公式目的は神武天皇畝傍(うねび)山東北陵の参拝、また、孝明天皇十年式年蔡による後月(のちのつきの)輪(わの)東山稜(ひがしのみささぎ)の参拝にあり、京都、奈良にある歴代天皇の御陵参拝も予定し、海路をとり、一月二十八日に神戸港に到着し、京都の御所に入られた。

一月二十九日、天皇が京都に入った翌日、鹿児島では私学校徒が陸軍火薬庫を襲って弾薬を略奪し、西南戦争の口火が切られたのである。

私学校徒とは、明治新政府が推進している教育制度の支配下にない、西郷隆盛が設立した鹿児島独自の「私学校」の生徒であるが、鹿児島に不穏な動きありとの情報に不安を覚えた陸軍省が、火薬庫の弾薬を大阪に移そうとし、これを事前に知った私学校徒が、先手を打って俄かに蜂起したのである。

これらの鹿児島での動きについて、陸軍卿山県有朋は、もし鹿児島で謀反・暴動が発生すれば、これに同調する旧藩として二十一藩の名を挙げるほど脅威に感じていた。

その旧藩とは、肥前、肥後、久留米、柳川、阿波、土佐、因幡、備前、備中、備後、彦根、桑名、静岡、松代、大垣、高田、金沢、酒田、津軽、会津、米沢である。

この脅威の状況について、明治天皇は報告を受けていたが、東京に帰る気配は示さず、そのための陣頭指揮をとる様子も示さなかった。

その代わりに、京都で学校訪問、勧業場、舎(せい)密局(みきょく)(化学技術の研究・教育、および勧業のために作られた官営・公営機関)など様々な工場や、加えて牧場まで視察し始めた。

このような行動をとっている明治天皇の心境、それをどのように推測すべきか。
鹿児島では今まで最も信頼していた西郷が謀反を起こしかけている。だが、その事実を知りつつ、謀反への対策を指示せず、ひたすら巡幸の日程をこなしている。

そのような心境を窺わせる資料は見つからないが、ドナルド・キーン(明治天皇)は次のように見解を述べている。
「伝記作者たるもの、天皇の生涯の内で何としてでも心の内を覗きたい思いに駆られる時期が幾つかあって、例えば今がその一つである。全国の県の中でも特に一目置いている鹿児島が、今まさに国家の統制を乱し、離脱しようとしている。他県までが、これに同調して反乱を起こす気配を見せている。このことを知った時、天皇はいったいどんな気持ちだったか。西郷隆盛は、天皇自身がとりわけ贔屓にしている維新の英雄である。その西郷が率いる鹿児島軍と政府軍が一戦交える恐れが出てきた。この可能性を知った時、天皇はどんな反応を示したか。思えば明治天皇が脇目もふらず巡幸の日程をこなすことに専心していたのは、これらの雑念を頭から振り払うための苦肉の策であったかもしれない。残りの京都滞在を通じて天皇が見せた無気力な態度もまた、同じ理由から出たことだったかもしれない」

二月十四日、西郷の命令で鹿児島軍が熊本進軍を開始した。西郷軍が熊本の県境を越えたという急報が届いた後もなお、天皇は京都で巡幸を続けていた。

二月二十一日、西南戦争として実際の火蓋が切られた。熊本に攻め入れようとした西郷軍に対して、城兵が砲撃を加え開戦となった。

ここで乃木大将の話に触れたい。鉄舟がいかに明治天皇に影響を及ぼしたのかについて、①西郷政権⇒②維新三傑の亀裂⇒③天皇の鬱⇒④御真影の分析⇒⑤西郷、鉄舟、乃木の精神的役割という順序で展開していきたいと、既に2,012年9月号にてお伝えした。

今号は③天皇の鬱について考察しているが、最後の項目⑤西郷、鉄舟、乃木の精神的役割につなげるためにも、ここで乃木希典が連隊旗を失った戦いに触れなければならない。
熊本城攻防戦二日目の二月二十二日、「月色煌々として昼の如し」と記録にある夜、連隊長心得陸軍少佐乃木希典率いる小倉十四連隊と西郷軍が激突した。

西郷軍の攻勢に政府軍は支えきれず、退却したが、その熾烈を極めた戦いで、政府軍の騎手が戦死し、連隊旗を失った。乃木は驚愕し、死を決心して戦場に戻り、連隊旗を取り戻そうとした。しかし、部下に諌められお思い止まった。

政府軍総督有栖川宮熾仁親王は、状況からして止むを得ないと、これを不問とした。だが、乃木はこの事件を忘れずに、三十五年後、連隊旗を失った償いとして自決したのだが、明治天皇にその武士的精神をもって仕え、後年、学習院院長となり昭和天皇の教育を任せられたのである。

三月四日、木戸から西南戦争が政府軍有利に傾きつつあると報告を受け、天皇は安堵しつつ西郷の心中に思いやった。

木戸はその天皇の気持ちを知り、深く感涙し、さらに「隆盛は決して足利尊氏の如き姦悪にあらず、惜しいかな、識乏しくして時勢を知らず、一朝の怒を洩らすに己れの長ずる所を以てして、身を亡し又国を害するに至れるなり、隆盛の所業固より悪むべし、然れども政府亦反省せざるべからず」と述べたという。

その西郷であるが、明治天皇に不満を抱いていたとか、共和政が君主制にとって代わればよいと思っていたという形跡は全くない。天皇親政が、仮にそれが専制であったとしても理想の国家形態と考えていたと思われ、西郷の下で戦った鹿児島士族たちも同じだった。西郷軍の最終目的は、天皇の周辺から腐敗した官吏を除去することによって、天皇が奸臣の悪影響に乱されることなく国を統治できるようにすることだった。

戦争が始まって以来、天皇は戦争以外のことは何も考えることが出来なかったように見える。拝謁者引見の時を除いて、めったに御学問所にも出御しなかった。三条実美が報告する戦争の経緯に、毎朝耳を傾けるだけだった。

したがって、日常は日夜女官に囲まれて生活することになった。大臣、参議でさえ九等出仕女官を通さないと天皇の御前に出られない状況が続いた。

三月二一日、三条、木戸は再三にわたって諫奏し、御学問所出御を奉請し、ようやく隔日に御学問所に出御するようになり、侍講元田の講述を受けたが、実態は「午前に止まり、午後は内廷に在らせられ、自ら御閑暇あり」(明治天皇紀)というものだった。
三月二十五日、木戸のたっての進言で京都市内を騎馬で巡幸した。

三月三十一日、大阪鎮台に行幸し、士官収容の病院を慰問した。

四月十二日、熊本城の包囲が解け、西郷軍は敗走したが、天皇の状況は変わらずであった。

五月、侍講元田を東京へ帰らせた。天皇は明らかに学問を疎んじたのである。

五月二十六日、既に述べたように木戸孝允が死去した。

七月二十八日、天皇は京都を発ち東京に戻った。それまでに天皇が東京に戻ることは何度も延期されていた。熊本、鹿児島で戦っている政府軍の士気が衰えることを恐れたからである。しかし、戦争の大勢が決した今、政府の機能が東京と京都に二分されていることは不便であり戻ったのである。だが、東京でも明治天皇は政務に不熱心なことは変わりなかった。

九月二十四日、西郷は最後の拠点である城山で、別府晋介を顧みて「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」と言い、将士が跪いて見守る中、襟を正し、跪座し遙かに東に向かって拝礼した。遙拝が終わり、別府は「ごめんなったもんし(御免なっ給もんし=お許しください)」と叫んで西郷の首を刎ねた。西南戦争が終わった。

九月二十五日、西郷の死の翌日、天皇は皇后に「西郷隆盛」という勅題を与え、皇后は次の歌を詠んだ。

「薩摩潟しづみし波の浅からぬ はじめ違ひ末のあはれさ」

歌といえば明治天皇が日露開戦にあたって詠んだとされ、昭和天皇が日米開戦にあたり、御前会議では発言しないことが通例となっていたが、敢えて詠みあげたという有名な御製がある。

「よもの海みなはらからと思ふ世に なと波風の立ちさわぐらん」
(四方の海にある国々は皆兄弟姉妹と思う世に なぜ波風が騒ぎ立てるのであろう)

実は、この歌は日露戦争ではなく、明治十年西南戦争時の作であるとし、明治天皇は明確な西郷贔屓であったという根拠で主張する説がある。

その主張の背景は、明治天皇は必ずしも現政権の政治を全面的に賛同していたわけでなく、もともと鹿児島に去った西郷に絶大な信頼を置いていて、その西郷が謀反を起こしたのは、天皇に対するものでなく、薩長政権の「長」に対して西郷が抵抗しているのだと解き、皆はらから、つまり、みんな仲良くすればよいのだという歌を詠んだというのである。

したがって、西郷の起こした西南戦争の要因に対して疑問を持っていたからこそ、政務に熱心に取り組まなかった、いわばサボタージュであって、それがひきこもり状態、ウツ状態としての態度になっていたのだという。

しかし、そうではないという見解も当然にある。明治天皇がウツ状態になったのは、自ら征韓論政変を調停できずに西南戦争が起きてしまったので、日本の行く末への不安に加え、自分の無力さを感じたからだというもの。

この推定を裏づけるものは、政府軍が有利になるにつれて、次第に元気になったということを挙げている。(明治天皇 伊藤之雄)

いずれにしても、西南戦争は明治天皇にとって、その生涯における精神的な鍛練期間として貴重な事件であった。この間、鉄舟は東京においてひたすら侍従としての任務と、自らの人間完成に向けて厳しい修行の毎日を続けていた。

七月、東京に戻った明治天皇は、ひたすら修行している鉄舟を見て、何を感じたのであろうか。

明治天皇が深化して「明治大帝」と称されるまでの分析を次号でも展開したい。

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