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2014年2月16日 (日)

江戸無血開城までの史実経緯

江戸無血開城までの史実経緯について

1. 慶応4年(1868)正月2日に勃発した鳥羽伏見の戦いに敗れ、薩長軍は官軍、幕府軍は賊軍となり、慶喜は大坂湾から船で脱出、江戸に1月12日に戻った。

2. 江戸城では恭順派と抗戦派に分かれ議論が紛糾したが、慶喜は恭順策を採り、その意を表すべく、上野の寛永寺一室に謹慎・蟄居した。

3. しかし、薩摩・長州を中心とした官軍は、総勢5万人といわれる兵力を結集し、朝敵徳川慶喜の居城江戸城を攻めるべく、続々と京都を下っていた。

4. この状況下において、慶喜は恭順の意を正確に官軍に伝え、かつ、江戸を戦火から防ぐべく、一介の旗本山岡鐡太郎(=山岡鉄舟、以下「鉄舟」と略する)に、江戸から駿府に乗り込み、実質の官軍総司令官であった西郷隆盛と会見・交渉することを命じた。

5. この時、幕府の対官軍交渉は手詰っていた。静寛院宮(14代家茂夫人)、天璋院(13代家定夫人)、輪王寺宮公現法親王による打開工作も通ぜず、官軍先鋒は品川まで迫っていた。最後の奇策としての鉄舟投入であった。

6. 鉄舟は明治15年3月に岩倉具視と三条実美賞勲局総裁の求めに応じ「慶応戊辰三月駿府大総督府に於て西郷隆盛氏と談判筆記」を提出した。その中で慶喜から命を受け、始めて海舟を訪ねた経緯を次のように記している。(参考資料「山岡鐡舟」教育評論社・全生庵編)
「余は、国家百万の生霊に代り。生を捨るは素より余が欲する所なりと。心中青天白日の如く。一点の曇りなき赤心を。一二の重臣に計れども。其事決して成り難しとして肯ぜず。当時軍事総裁勝安房は。余素より知己ならずと雖も。曾て其胆略あるを聞く。故に行て是を安房に計る」

7. 海舟はこの鉄舟の訪問を「慶応四戊辰日記・3月5日」に
「旗本山岡鉄太郎に逢ふ。一見、其人となりに感ず。同人申旨あり、益満生を同伴して駿府に行き、参謀西郷氏に談ぜむと云。我れ是を良とし、言上を経て、其事を執せしむ。西郷氏に一書を寄す」
と記している。(参考資料「勝海舟全集1・幕末日記」講談社)

8. 慶応4年3月9日の西郷と鉄舟の駿府会見で「江戸総攻撃を取り止めさせる」交渉の模様を「慶応戊辰三月駿府大総督府に於て西郷隆盛氏と談判筆記」で、西郷から以下の五箇条の条件が出されたと記している。(参考資料「山岡鐡舟」教育評論社・全生庵編)
     1.城を明け渡す事。
      2.城中の人数を向島へ移す事。
      3.兵器を渡す事。
      4.軍艦を渡す事。
      5.徳川慶喜を備前へ預る事。
鉄舟は1条から4条は受け入れるが、断じて5条の「徳川慶喜を備前に預けること」については受け入れなかった。以下のように強く反論している。
「余曰主人慶喜を独り備前へ預る事。決して相成らざる事なり。如何となれば。此場に至り徳川恩顧の家士。決して承伏不致なり。詰る所兵端を開き。空しく数万の生命を絶つ。是王師のなす所にあらず。されば先生は只の人殺しなる可し。故に拙者此条に於ては決して不肯なり。
西郷氏曰。朝命なり。
余曰。たとひ朝命なりと雖も。拙者に於て決して承伏せざるなりと断言す。
西郷氏又強いて、朝命なりと云ふ。
余曰然らば先生と余と。其位置を易へて暫く之を論ぜん。先生の主人島津公。若し誤りて朝敵の汚名を受け。官軍征討の日に当り。其君恭順謹慎の時に及んで。先生余が任に居り。主家の為め尽力するに。主人慶喜の如き御処置の 朝命あらば。先生其命を奉戴し。速かに其君を差出し。安閑として傍観する事。君臣の情。先生の義に於て如何ぞや。此義に於ては鐡太郎決して忍ぶ事能はざる所なりと激論せり。西郷氏黙然暫くありて曰く。先生の説尤も然り。然らば即徳川慶喜殿の事に於ては。吉之助屹と引受け取計ふべし。先生必ず心痛する事なかれと誓約せり」

Photo

 (静岡駅近くの西郷・鉄舟会見碑)

9. ここに江戸無血開城が事実上決まり、これによって明治維新大業への一歩が示されたのであり、鉄舟の個としての行動戦略性によって、近代日本の扉が開いたのである。

10. そのことを海舟は「慶応四戊辰日記・3月10日」に次のように記している。
「山岡氏帰東。駿府にて西郷氏に面談。君上之御意を達し、且 総督府の御内書、御処置之箇条書を乞ふて帰れり。嗚呼山岡氏沈勇にして、其識高く、能く 君上之英意を演説して残すところなし、尤以て敬服するに堪たり」(参考資料「勝海舟全集1・幕末日記」講談社)

11.また、鉄舟も前記「慶応戊辰三月駿府大総督府に於て西郷隆盛氏と談判筆記」で次のように記している。(参考資料「山岡鐡舟」教育評論社・全生庵編)
「益満と共に馬上談じ。急ぎ江戸城に帰り。即ち大総督宮より御下げの五ヶ条。西郷氏と約せし云々を。詳かに参政大久保一翁勝安房等に示す。両氏其他の重臣。官軍徳川の間。事情貫徹せし事を喜べり。旧主徳川慶喜の欣喜言語を以て云ふべからず」と述べ、早速に江戸市中に高札を立てて布告した。その大意は「大総督府下参謀西郷吉之助殿へ応接相済。恭順謹慎実効相立候上は。寛典の御処置相成候に付。市中一同動揺不致。家業可致との高札を」であり、これにより江戸市民はようやく一安心できたのであった。

12.3月9日の会見から4日後の慶応4年3月13日
海舟と西郷の第一回会談が芝高輪の薩摩屋敷で行われたことが、「慶応四戊辰日記・3月13日」記載されている。(参考資料「勝海舟全集1・幕末日記」講談社)

また、以下の見解は一般に認識されている内容である。(参考資料「南洲翁遺訓」)
海舟と西郷はすでに面識があり、会談後2人は愛宕山に登った。そのとき西郷が「命もいらず、名もいらず、金もいらず、といった始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて、共に天下の大事を誓い合うわけには参りません。本当に無我無私の忠胆なる人とは、山岡さんの如きでしょう」と語った。この内容が、後年西郷の「南州翁遺訓」の中に一節として記されたが、これは正に鉄舟の武士道精神真髄を示したものであった。

13.JR田町駅近く、都営浅草線三田駅を上がったところ、第一京浜と日比谷通り交差点近くのビルの前に「江戸開城 西郷南洲 勝海舟 会見の地 西郷吉之助書」と書かれた石碑が立っている。その石碑の下前面、向かって左側に「この敷地は、明治維新前夜慶応4年(1868)3月14日幕府の陸軍参謀勝海舟が江戸100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた『勝・西郷会談』の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある場所である・・・。」と書かれ、石碑の下前面、向かって右側に高輪邉繒圖が描かれている。

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(田町駅近くの石碑と西郷と海舟の会見銅板)

14.結論的には、「慶応四戊辰日記・3月14日」(参考資料「勝海舟全集1・幕末日記」講談社)に記されたように、慶応4年3月14日の西郷・勝会見(鉄舟同席・参考資料「山岡鐡舟」教育評論社・全生庵編)で正式に「江戸無血開城」が決まったといえるが、その前段階で鉄舟の駿府行きがあって、この日を迎えたのである。
                                                  以上

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