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2014年2月 2日 (日)

明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の十三

まずは前号で述べた小鳥遊(たかなし)について触れたい。

小鳥が遊ぶと書いて「たかなし」と読む。これは一見しただけではとても読めないが、寛政年間(1789‐1801)に江戸幕府が編修した系譜集「寛政重修家譜」にも掲載されている苗字である。

この来由は、「小鳥が遊んでいる」⇒「天敵がいない」⇒「鷹がいない」⇒「たかなし」という筋書き、これを聞けばなるほどと思える。

つまり、現在の状態が成り立っている背景条件・状況と、それを生じさせている因果関係を示しているのである。

この小鳥遊を敷衍させ、明治時代に「偉大な統治者」として明治天皇が国民に受け入れられた背景条件を考察するならば、そこに明治二十一年(1888)から使われた「御真影」と呼ばれる肖像写真があったことは否定できない。

当時の国民が最敬礼した「御真影」は、少年天皇から、堂々たる風格と品位をもった帝王へ深化された姿であったことが、受け入れられた最大かつ重要条件である。

だが、いくら優れた技術をもって「御真影」肖像を描いたとしても、明治天皇御自身が「背骨を持ち」「剛毅朴訥仁に近し」という秀でた君主であり、国民が日ごろ見聞きする天皇の行動実態と合致した君主像でなければ、国民は肯んじなかったであろう。

つまり、「少年明治天皇」⇒「その後の教育」⇒「君徳の涵養」⇒「偉大な統治者」となられた結果として「御真影」が存在したわけである。

さらに、この「御真影」となられた背景条件としては、江藤淳が述べる「山岡鉄舟は明治天皇の扶育係」(勝海舟全集11巻 講談社)という因果関係が存在している。

何故なら、鉄舟の生き様は、この明治天皇イメージ像とぴたりと重なり合うからで、「御真影」の背景には鉄舟がいて、鉄舟による扶育が影響し「御真影」が醸し出す偉大な君主になられた、という因果関係が成り立つと考えている。

この「御真影」が醸し出す要因については後段で分析を行いたい。

では、この明治天皇「御真影」が、国民に写実化されるにいたった経緯を検討してみたい。
天皇を戴くことで倒幕に成功した明治維新政府であるから、天皇が存在しなければ明治政府の基盤は成り立たなかった。

また、それまでの天皇はあまりにも一般民衆にとって無縁な存在であり、一日も早く天皇の姿を国民に示す必要があった。さらに、天皇親政の実を表すためにも、天皇の視覚化は政治的に最も重要な課題であった。

しかし、そのためには二つの前提条件が存在した。一つは少年天皇の「教育」=「君徳の涵養」であり、もうひとつは視覚化の手段・技術であった。
天皇の教育については既にみてきたように、学問教育として元田永孚等の侍講学者が登用され、侍従には武士的要素から士族が選ばれ、その中に扶育係となった鉄舟がいたわけである。

 まず、天皇視覚化の第一歩は、江戸時代から続いている錦絵から始まった。明治元年(1868)の一連の出来事を描いた錦絵に天皇が登場しだしたのである。

 だが、この当時の錦絵に描かれた天皇は写実的な肖像ではなく、その上錦絵の多くは明治天皇を描いたとはうたっていない。

それを「天皇の肖像」(多木浩二著)からいくつか紹介する。
 長谷川貞伸描いた「御即位之図」(明治元年)では、実際の天皇よりはるかに年長の青年が御簾の内側に座し、長い髪に小さな冠を戴いているが、「神武天皇之即位」と記されている。
 鉄砲をもった兵士に護衛された、明治天皇の大阪親征を仁徳天皇の難波行幸と名づけたり(長谷川小信画、明治元年)、そのときに天保山で実際におこなった軍艦の親閲を、神功皇后の三韓征伐と題したり(長谷川貞伸画、明治元年)しているように、この時点ではたぶんに想像的な戯作的要素が残り、比喩のたわむれが強かった。

 これは当時の慣例化した手法、政治的事件でも、事実を正確に伝えるというより、古い出来事にみたてて現在の出来事を描く”擬古画”、あるいは意味を読みかえた”寓意画”によるのが普通で、通俗的な演劇(人情物)に近い民衆の想像力で受けとめたと言える。

 この傾向に変化が見られたのは、明治元年の京都から東京への行幸、実際は遷都であるが、現実に天皇が行列をもって東海道を動くという事実によって、多くの錦絵が描かれた。中でも特に東京に近づき、東京に入る情景を描いたものが多い。

 その代表的なものに魁(さきがけ)斎(さい)芳年の「明治天皇御東幸千代田城御入城之図」(明治元年)で、これは当時の一般民衆にとって、権力交代が視覚的に認識されたことを意味している。

 江戸時代の民衆は、大名の参勤交代という権力者の行列には慣れていた。街道を通る美々しく厳めしい行列は、視覚による威力の確立であったが、それと同じ効果を明治元年の、明治天皇の東京行幸は意図したわけで、視覚化の大きな手段・技術のひとつであった。

 もうひとつは行列の仰々しさである。岩倉具視、中山忠能、伊達宗城、池田章政(岡山藩主)、木戸孝允を筆頭に、供は三千三百余人に達し、天皇が乗る鳳輦及び板輿を守って行動したのであるから、並みの大名とは比較できない規模であり、民衆の受けとめへの効果は大きかった。

 それを示すのがアーネスト・サトウの記述である。(一外交官が見た明治維新・下)
 「1868年11月26日(明治元年10月13日)、品川で一泊された天皇は、この日午前ごろ江戸へ入られた。・・・中略・・・私は、以前ハリー・パークス卿の官邸に用いられ、今では外務省みたいな役所になっている屋敷の、新しい門の前に最近できた広場に立ちながら
歯簿(ろぼ)*(天使が巡幸する際の行列や車駕・儀仗の前後の順序)を眺めた。
 外見は必ずしも壮観とは言えなかった。いやに西洋をまねた服装と、だらしない乱髪の兵隊のために、廷臣たちの服装から受ける東洋ふうの印象が台なしにされたのである。
 天皇の黒漆塗の駕籠(鳳輦)は、私たちには実際珍しかった。それが近づくにつれて、群衆がしーんと静かになったのは、まことに感動的であった」

 この記述、大名行列との比較で、外見は壮観とは言えないと述べているが、外国人であるサトウが感じた最後の「しーんと静かになった」というところが重要で、それは民衆の天皇に対する感情を示していた。

さらに、この時は既に民衆は、土下座していないことも新時代を演出している。

 加えて、天皇を迎えた東京市民に対しては、行幸の祝いとして大量の酒をふるまった。下賜された酒は、約二千九百九十樽で、加えて、各町に錫(すず)瓶子(へいし)(銀製の徳利)とするめが下賜され、市民は二日間にわたって家業を休んで楽しんだ様子が錦絵に遺されている。「御酒拝領」(国周画 明治元年)、「東京市中にぎわい之図」(了古画 明治元年)等である。

 これら東海道を行列し東京に入る天皇の歯簿、酒を振る舞う天皇等は民衆にとって何を意味させたのであろうか。

 それは、民衆は、今までの天皇は京都御所深くの空間的存在であって、現実的な権威とは受けとめていなかった。だが、新時代に入って、実際に東京へ行幸する具体的な天皇の姿に接し、国民となった民衆は天皇を「空想する」という段階から「現実の存在」へと認識を改め始めたのである。

つまり、政治的、精神的な中心として天皇をとらえ始め、明治政府の戦略が意図通り伝わっていったことを意味する。
 

そこで次なる課題は、天皇の容姿である。天皇という存在は実際に存在するということは認識した。だが、その天皇とはどのような姿であり、仰ぎ見る存在として受け入れられる人物実態なのか。そこに視点が移っていく。

 ここで出現したのは写真という技術・手法であるが、その前に、天皇の服装が課題となった。国民に写真で伝えられる服装、それを新時代にふさわしいものに変化させないといけない。

その天皇服装の変化を見ると、明治三年(1870)四月の陸軍連合訓練時には、直衣(のうし)*を着て袴をはいて馬に乗っていたが、明治四年の操練時には洋装(軍服)となり、五月頃からは皇居内でも政務をみる御座所では洋服を着用し始めた。

明治五年(1872)九月には、天皇の陸軍大元帥の服制が定められた。帽子は黒色、上着・ズボンは紺色の洋装で、帽子及び上着袖とズボンに金線を加えている。

近代国家の君主に位置づけるためには、西洋にならって軍服を装うことで、軍の統率者であるというイメージを創り上げようとしたのである。

その軍服姿で国民に「見える化」し、天皇イメージを決定的にしたのは六大巡幸であった。
その一回目は、明治五年五月二十三日に出発した近畿、中国、四国、九州巡幸である。明治天皇は軍人イメージを高めるために騎馬で皇居を出発し、品川沖に停泊する旗艦龍驤(りゅうじょう)に乗船した。供俸するのは西郷と弟従道等七十余人であった。

以後、明治十年代を通じて、それぞれ一、二カ月かけた大巡幸を六回行って、軍服としての天皇イメージを国内的に固めていった。

 では、写真はどのような意図背景から撮られたのであろうか。その動機の突端は外交面であった。

 明治五年、当時アメリカにいた岩倉具視は、外交儀礼として国家元首の写真を交換するという慣習があるので、一旦帰国した大久保利通と伊藤博文に、宮内庁に天皇の写真が必要であることを説明させた。この当時、宮内庁には当然ながら写真はなかった。

 そこで明治五年と六年に、当時、浅草で写真館を構えていた内田九一に撮影を行わせた。これが明治五年の束帯をつけた和装の写真と、翌六年に撮影された断髪姿の洋風写真であり、洋風写真がその後15年間にわたって外国の君主に贈られた写真であった。

 また、これとともに行われたのは写真の下付である。側近たる政治家、高級官僚への下付と、地方官庁への下付であった。
 明治六年六月、奈良県令四条隆平が天皇の写真を「拝戴して、新年、天長節等の祝日に之を政庁に奉掲し、県民ならびに官民をして贍拝(せんぱい)せしめんと欲し」て宮内卿にその下賜を申請し、許可されたのが始まりで、これが「御真影」礼拝儀式の発端であって、その年の十一月にはすべての府県に写真が下付された。

 このように天皇の写真は、一方では在外公館における主権の象徴であり、他方では地方官庁における国民礼拝の対象という二重の政治的機能を果たすようになっていった。
 結果的に、天皇制国家として対外的に独立国として存在し、対内的には天皇を中心に一体化するという国是を象徴するものに昇華されていった。

ところで、明治天皇は写真嫌いであった。入手可能な明治天皇の御真影は三枚である。
① 明治五年(1872)二十歳時の「束帯」姿の写真
② 明治六年(1873)二十一歳時の「洋風」姿の写真
③ 明治二十一年(1888)三十六歳時の民衆が礼拝した「御真影」としての肖像画

天皇とて人間であるから、年々歳々変化していく。明治六年の写真をもって十五年間も維持してきたが、外交的に写真交換するものとしては限界があると宮内庁は考え、改めて明治二十一年に写真を用意したのである。

 また、この時期は、翌二十二年大日本国憲法公布の年に当り「国家の機軸を皇室におく」というタイミングと重なり、その機軸にふさわしい天皇像が求められたのであり、ここに登場したのが既に述べたように「理想の君主像」としての「御真影」肖像画であった。

 この「理想の君主像」を描いたのは、明治八年(1,875)に大蔵省紙幣寮の招きで来日し、以後長く紙幣の原版の意匠、彫刻、印刷に携わったイタリア人、エドアルド・キョッソーネである。

そのキョッソーネが明治二十一年に描いた肖像画を、内田九一が明治八年に三十一歳で早世した後、当時東京で最も有名な写真家の一人であった丸木利陽が、キョッソーネの指導のもとに「試写数回、数十日を費やして」(明治天皇紀)複写し、写真として仕上げたのである。

 いよいよ明治二十一年の民衆が礼拝した「御真影」としての肖像画が、いかに優れているかの検討に入りたい。この「御真影」によって、明治天皇が理想的君主であったという国民からの決め手となったのであるから、そこには見事な「何か」があるはずである。

また、その「何か」を探る糸口は、明治六年二十一歳時の「洋風」姿の写真との比較であり、その比較を通じて十五年後の天皇がいかに深化されたかを窺うことにしたい。

それが鉄舟の明治天皇への扶育による影響についても探ることにつながるからであり、そのために読者も両方の写真を並べて見比べてほしい。

 明治六年と二十一年の違い、これも「天皇の肖像」(多木浩二著)を参考に展開する。

1 .六年は身体的な生々しさがあったが、二十一年は消えて、明らかにヨーロッパ的な肖像画や肖像写真に近いスタイルとなった。
2. 髪型も変わり、髪がすっかり顔に馴染んでいる。
3. 全体構図は、六年の写真は無作為の記念撮影の手法に近いが、二十一年は肖像としての効果を熟慮したスタイルで、眼に捉えられる「身体」としての天皇にしている。
4. 構図を意識的に切り取っている。六年の写真は全身で回りの空間が広いが、二十一年の肖像は七分身の座像で、身体が画面の大半を占め、回りにはよけいな空間が殆どなく、背景もはぶかれている。結果として、天皇の身体が前面に押しだされ、分厚い存在感が強く迫っている。
5. 六年は椅子にもたれているのに対し、二十一年は椅子の背から身を起こし、背筋を真っ直ぐに伸ばしている。この垂直で、正面を向いた身体の姿勢は、権力を示す姿勢であり、威厳を生みだしている。今の日本人の姿勢と大ちがいである。外国でよく会うツアー客、多くの人が前かがみで猫背であり、胸を張って大手を振って歩く人は少ない。
6. ポーズでの特徴が違う。六年は、両手で剣の柄を握り、このために一方の腕が身体の前を横切り、胸部正面が表現する身体の強さを殺いでいる。二十一年は右手を軍帽の見える脇の机に置き、左手で前に立てた剣の柄を握って、分厚い胸を広げている。二十一年の肖像が威厳を保ちながら、なおゆったりとした身体の印象を与えるのは、この手の置きどころにより、加えて胸一杯に飾られた勲章を誇示する効果を生んでいる。
7. 相貌からうける印象が違う。人間は相貌にたいして他のいかなる部分に対するよりも特別敏感な知覚を持ち、そのために相貌こそモデルの姿勢、服装、周囲に情景を従えて、絵画全体のなかで意味を統合する視覚の頂点になる。その相貌を個々に比較すると、眼、鼻、額、頬から顎にかけての輪郭などは、若い日の写真の細部とよく合致するが、全体としての印象はまったく変わった。二十一年の肖像は若い日の写真に似ているようで似ていない。肉付きのいい、バランスよく整った、見違えるように気品ある立派な顔立ちになった。六年の写真は生々しくきついが、二十一年の写実性は、はるかに落ち着きがあり、穏やかで、生硬さがない。六年はごく個別的存在であるのに対し、二十一年はほとんど個人的存在を感じさせない。それは天皇のある日の面影をとらえたものではなく、その精緻な写実性にもかかわらず、揺れ動く存在の一瞬ではなく、存在が示すあらゆる変化のかなたに、それを超えて構成された概念的、抽象的な相貌としている。

以上の比較分析から分かるように、明治二十一年「御真影」は、未経験の青年君主から、年齢と経験を加えて重厚で堂々たる帝王へ深化しているのであるが、その中でも最も特徴的なことは、相貌が個別性を脱していることであろう。

 ここに「御真影」の最大の意義が込められている。人は必ず年齢というものが相貌に影響を与え、相貌に顕れていく。

 ところが、明治天皇の「御真影」は、生身でありながら、その時代にとって必要であった聖なるものへと昇華され、時間を超えても変わらず存在し続けた。

 ならば、この「御真影」が描かれた時期が重要になる。その時の明治天皇が聖なるものへと昇華するに値される存在になっていなければならないからである。

 「御真影」が描かれたのは明治二十一年、この年に鉄舟は亡くなった。明治五年に侍従となり、その後天皇の身近に仕えて十六年後の逝去したその年に「御真影」が描かれたということ、それは偶然ではないだろう。

 鉄舟から受けた扶育、その成果が明治天皇の相貌に賢者・風格・重厚・気品となって、「御真影」に顕れたと考える。また、その成果を見届け、鉄舟はこの世を去ったのであろう。
鉄舟は、明治二十一年七月二十一日午前九時十五分、明治天皇がおられる御所に向かって結跏趺坐し逝去。逝去後も端然として崩れなかったという。正に坐脱であった。

翌二十二日、篠突くばかりの大雨の中、御所の前で十分間葬列を止めた。天皇・皇后陛下が高殿から目送されたという。

次号は、西郷、鉄舟、乃木の精神的役割について検討する。

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