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2014年2月 2日 (日)

明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の十二

明治十年(1877)の初頭、二十六歳の天皇は、突如として「ひきこもり」とも「ウツ」とも見られる症状を示し出し始めたことは前号でお伝えした。

では、この状態から脱皮したきっかけは何か。それについて以下の三説がある。
① 和歌に親しむことがキッカケで心が和らぐ
② 西南戦争の勝利によって回復
③ 元田永孚と情誼関係を深めたことによって脱皮

最初の①説は、西南戦争の大勢が決した明治十年七月二十八日、東京に戻る神戸から横浜へ向かう航海の途上で、明治天皇と高崎正風(まさかぜ)との間で交わされた歌論、そのやりとりが転機となったというもの。

天皇は、船上から雲間に聳える富士山を眺め、御製三種を詠み、鉛筆で手冊(しゅさつ)*に記し、それを侍従番長の高崎に見せ、忌憚のない批評を求めた。
高崎は「第二の御製殊に勝(すぐ)れたり」と述べた。その第二首を紹介する。

 あづまにといそぐ船旅の波の上に
      うれしく見ゆるふじの芝山

天皇は前後の二首についても、その評価を質し、高崎は率直に答え、そのような応答から、次第にかつて詠んだ旧作を取り出し、それを高崎が丹念に批評するという歌論のやりとりが続き、天皇は航海中の無聊を慰めることになった。

この航海中の高崎との歌論について、ドナルド・キーンは「これは西南戦争で鬱状態にあった天皇の自分の務めと人生に対して、新たなる関心を示し始めた瞬間であったかもしれない」(明治天皇)と、和歌が引きこもり・鬱から脱皮する機縁ではなかったかと述べている。

明治天皇の人物を知る手かがりは、その御製にあるといわれている。父の孝明天皇から幼少時代に直接に熱心に指導を受け、その生涯に十万首に及ぶ和歌を詠み、和歌を通じ人間形成と天皇学を学んだのであるから、ドナルド・キーンの指摘は頷ける。

二つ目の②説は、伊藤之雄(明治天皇)が述べる「政府軍が有利になるにつれて次第に元気になった」という戦争状態の好転が脱皮のきっかけという見解で、これは明治天皇が西郷隆盛に親密な情を抱いていたということについて、疑問を持つ立場からものである。

三つ目の③説は、侍講の元田永孚が新たに「侍補」に就任したことにより、元田へ天皇の信頼が、一段と深まり、個人的に語り合う機会が増えたことによるもの。

つまり、元田との会話を通じて自らを取り戻していったという説であるが、これについては少し解説を加えたい。

「侍補」制度とは、明治八年(1875)に伊藤博文によって、その名が制定されたと明治天皇紀にある。
「侍補は常に規諫闋失(きかんけつしつ)(過ちをいさめる)を補益するを掌るの官にして、其の名称は参議伊藤博文に由る所なり」と。

明治八年以降任命されたのは十名。一等侍補は吉井友実、土方久元、佐々木高行と宮内卿である徳大寺実則、二等侍補以下は元田永孚、高崎正風などだった。

「侍補」制度制定後、毎夜、天皇の食後二時間、当直の侍補が後宮に入り、皇后とも「窮屈ならず」何事にもよらず討論・対話する習慣がはじまり、侍補たちはこれを「夜話(よばなし)」と呼んだが、この「夜話」を通じ率直な意見交換が行われ、そこから元田へ信頼がさらに深まり、明治十年初頭の状態が改まっていったという見解である。

では、元田の天皇への徳育方針とはどのようなものであったか。これは元田独自の信念にもとづくものであった。と、以下のように飛鳥井雅道が述べている。
「天皇に講義し始めて間もないころ、天皇が『三国志』の英雄たち、特に張飛を好んでいることを知ると、元田はずけずけといった。

『張飛の声大なりと雖も、堯舜(ぎょうしゅん)の声に及ばず。堯舜の勇は万邦も協和す。張飛に勝れること万々』と。

『堯舜』つまり中国古代の君主を元田は求めたのであって、張飛といった英雄豪傑を理想とはしていないのであった。天皇は『大いに笑ふ』と元田は記するが、ある程度の苦笑ではなかったか」(飛鳥井雅道・明治大帝)

青年・天皇と、老人・元田の情誼関係によって、明治天皇の気持ちが整理されていったことは間違いないであろうし、結果として鬱状態から脱皮できたと思う。

しかし、この元田が求めて追及する教育は、明治政府に相容れられず、「侍補」制度は、伊藤博文によって廃されるのである。それを飛鳥井雅道が松浦玲の見解を次のように要約して引用している。

「元田的に儒教の原理をおしつめ、『天子に無限の政治的道徳的努力を要求』し、その結果、『明治天皇個人は元田の教育によって、理想的君主になったとする』。

いいかえれば天皇が堯になったとすると、その位は血統でなく、『舜に、つまり天皇家の血統以外のすぐれた能力をもつ人物に譲らなければならない』論理を『思想的理論的に拒否できない』。

これは明治維新の結果たる『血統』の論理と矛盾してくる。明治政府の論理は『天皇の能力』を問題にせず、『無能であっても国家運営に支障が起こらないように工夫がこらしてある』。

だから血統だけが天皇には問題にされ、元田の論理は政府の論理とずれてくる、と松浦玲は説く。松浦玲は元田が最終的に政府からはずされてゆく根拠をその点にもとめる」

この推論が正しいかどうかは別としても、「侍補」制度は、伊藤博文によって明治十二年(1879)に廃止され、元田は侍講に戻って、つまり、以前の知育教育掛の立場として、死去する明治二十四年(1891)にまでその任にあった。

以上、明治天皇が明治十年初頭に鬱状態となり、十年秋口から回復された要因を明治天皇研究者の見解から三説紹介した。

だが、筆者は、山岡鉄舟研究者として、この三説と異なる見解を持つが、これについては、後年、明治十七年(1884)から十八年(1885)に明治天皇が再び見せた「頻繁に閣議欠席」という状態を検討した後で述べたい。

明治十七年四月下旬以来、天皇は病気を理由に閣議を頻繁に欠席し始めた。宮内卿伊藤博文は深く心を痛め、侍医の診察を受けるよう申し上げたが、医者嫌いの天皇はただの風邪にすぎないといい診察を拒んだ。伊藤が重ねて強く勧めたので、ついにしぶしぶ同意して医師の診察を受けたが、この時点ですでに病状は一カ月以上も続いていたことが明治天皇紀の記述から明らかである。

体調を崩した天皇が、執務室にいたのは朝十時から正午まで、僅か二時間だった。晩年の天皇は、毎日長時間にわたって机に向かうことで知られていたが、この当時は全く別人の如きであった。

また、十八年春の浜離宮観桜会にも欠席、四月に広島、熊本鎮台部隊による大規模演習を視察し、帰りに山口、広島、岡山県を巡幸することにしていたが、演習には参加できず、したがって巡幸も延期されたほどであった。

天皇の楽しみの最たるものは演習であった。それに臨めないという体調不良の理由として、もうひとつ推察できるのは、当時の気候不順もあった。豪雨と暴風が、全国の家屋や穀物に大きな被害を与え、茶の収穫は例年の半分、小麦は通常の六割という酷さだった。
この状況は天保の大飢饉、江戸時代後期の天保四年(1833)に始まり、天保十年(1839)年まで続いた苦しみを思い出させるもので、これに天皇は心を痛めたと思われる。

さらにもうひとつ、宸襟を悩ます問題があった。個人としてはこちらの方が気かがりであった。それはただ一人の皇子である嘉(よし)仁(ひと)親王、後の大正天皇の健康面であった。

親王はこの時、数えで七歳に達して、親王の教育が課題となっていた。この当時親王は曾祖父中山忠能の屋敷で育てられていたので、それまで明治天皇はめったに親王の顔を見ることができなかったが、三月になって宮廷に移り住み、天皇の下で親王の正規教育が始められた。

午前中二時間が読書、習字、修身、数学。午後は体操で隔日の午後に三十分間の唱歌という日課であった。

六月、親王は久しぶりに中山忠能邸の訪問を許され、その夜、宮廷に戻った親王は俄かに発病した。高熱を発し、痙攣の発作に襲われ、回復するまで一カ月程度要した。

恐らく、これは心身症ではないかと推察されるが、幼少時代に過ごした中山邸から、父親であっても明治天皇が存在するという、厳粛な空気が漂う宮廷に帰りたくないという気持ちが生んだ病気であったろう。五人の皇子が誕生されたが、ただ一人のみ成長された嘉仁親王がこのようなひ弱な状態では、次の天皇としてどうなるのか。

これが明治天皇の率直なお気持ちであり、心を痛めていたことは間違いない。
これらいくつかの問題が重なって「閣議欠席、演習未参加、巡幸延期」などの状況を示していたのが明治十七年から十八年であるが、明治天皇の体調回復、気候平準化、加えて嘉仁親王が学習院に通う等の好転によって、明治十九年(1886)には乗馬を前年の二倍以上をこなすほどに回復したが、この両年の不調は割合明確に説明がつく。

しかし、明治十年時に見せた鬱状態からの回復については、あまりその要因について明確に出来ない。したがって既に検討した三つの説になるが、筆者はもう一人肝心要の人物の影響を忘れていると思う。それは勿論、鉄舟である。

そこで、鉄舟の明治天皇に対する影響を検討に入るが、その前に、明治天皇という人物の個性について改めて整理する必要がある。

まずは、司馬遼太郎の明治天皇への見解を、山崎正和が対談した「司馬遼太郎対話選集4 近代化の相克」からひろってみたい。

(山崎) 明治天皇は一生を通して環境が激変するでしょう。十四歳までは女に囲まれたまるで「源氏物語」の世界、それから山岡鉄舟のような人を相手に相撲をさせられたかと思うと、フロックコートを着せられる窮屈な世界。そして自分が人間的感情を寄せた人間同士のあいだに政治的葛藤があって、西郷が殺され、大久保が殺され、その他たくさんの暗殺を見送らなければならないのですが、それでいて人間的感情を失うことはなかった、というのは相当なものですね。

(司馬)明治天皇は日本の王のなかで、一ばんいい筋を持った人ですね。どうも明治天皇というのは役に立たない存在のようにされていたけれども、実は非常に役に立っていたという雰囲気を感じさせるエピソードがあるんですよ。これは柄の悪いピソードで、そういう意味では少々話すのを憚るんですけれども、明治天皇の晩年、宮中で伊藤と山県が話しているところにのちの大正天皇がチマチマと歩いてこられたとき、「次の人がこれだから困るよね」と二人で言いあったというんです。大正天皇の評価というのはわれわれの知っている通りですね。字は非常にお上手だったようだけど、並みの能力に欠けるところがあった。「これだから困る」というのは、明治天皇の持っている背骨みたいなものが明治時代をつくった、ということの逆の証明になるわけですね。伊藤、山県はたしかに明治政府をつくったが、彼らはムードまではつくれなかったでしょうからね。
日本の近代化が成功し、世界の一翼を担う国の基礎固めをした明治時代、そのバックボーンに明治天皇が存在されていたことは事実であり、司馬遼太郎の見解通りである。

 もう一人、ドナルド・キーンの「明治天皇」からひろってみる。
「明治天皇が抜群の記憶力の持主であったという事実は動かない。天皇は明らかに、いわゆる知識人ではなかった。天皇を知る者たちの思い出話からは、むしろ次の論語の一節が思い起こされる。「剛毅木訥(ぼくとつ)仁に近し」。意志が強く、容易に屈することなく、無欲で、飾りけのないこと、これ即ち、孔子の理想である仁に近い、というのである」

司馬遼太郎のいう「背骨」を持ち、ドナルド・キーンがいう孔子の人物像に近似した人物として、誰を想起されるだろうか。それは、明らかに鉄舟である。鉄舟は悟りの境地へ辿りつくため厳しい修行を自らに課し、大悟した後も、その生涯を修行者として生き抜いた姿は「正に背骨を持ち」「剛毅朴訥仁に近し」そのものであった。明治天皇のイメージ像と、鉄舟の生き様は重なり合う。多分、天皇は鉄舟の背中から多くの学びを得て、それを見につけていかれたのだと思う。そのことを見抜いた江藤淳が「山岡鉄舟は明治天皇の扶育係」(勝海舟全集11巻 講談社)と意義づけしている。

江藤淳は勝海舟評論の「海舟余波」という名著もあり、幕末から明治にかけての史実に大変詳しい文筆家である。その江藤が鉄舟を明治天皇の侍従とは表現せずに扶育係と述べた。「扶育」という意味は「世話をして育てること」(広辞苑)であるので、それをそのまま適用し理解すると、鉄舟が明治天皇を育成したことになる。

だが、優れた人物とは、手取り足取り念入りに教育されて育てられるのではない。そのような意味での扶育ではなく、他者の姿から自らの気づきを探り、自らに組み入れていく過程をもつ人物が優れた人である。

明治天皇が東京に戻って、以前の宮廷生活に戻ってみると、そこにはいつも変らぬ生活スタイルがあり、侍従としての鉄舟が身近に仕えている姿を当然ながら見た。

人は皆、ある時期、旅をすることで、家元を離れ、多くの見聞を広げ、それを持ちつつ本来の生活環境に戻っていくが、その時何を感じるであろうか。

多分、戻った環境を改めて見直すことで、今までの生活の場が変わっていないことに気づくとともに、改めて変化がないことに新鮮な味わいを持つのではないか。

旅先での変化に富む行動スタイルから、落ち着きのある自らの拠点に戻って、以前と同じ環境下におさまった自分を見つめ直し、ここが自分の本来の居所であると確認するという意味である。このような体験を我々は旅から帰った時に感じる。

明治天皇も同じである。皇居に戻り、身近にいつも位置する鉄舟を改めて見つめ、その鉄舟が修行の毎日を過ごしている姿、そこに何かを感じたはず。

この時期、鉄舟はどのような修行をしていたのか。侍従になる九年前の文久三年(1863)浅利又七郎義明と立ち合い、見事な完敗を喫し、その後もどうしても浅利に勝てなく、この壁を超えるには「心の修行しかない」と禅修行に没入邁進していた時であった。

その禅修行は、静岡県の三島龍択寺への参禅であった。当時、宮内省は一と六がつく日が休みだった。そこで十と五の日に夕食をすますと、握り飯を腰に下げて、草鞋(わらじ)がけで歩いて行った。この参禅は三年続いた。(「おれの師匠」小倉鉄樹)

この話を普通の人は嘘だと思うだろう。東京から三島まで三十余里(約120㎞)、途中に箱根越えがある。龍択寺で参禅が終わると、休息する間もなく、また、東京へ引き返す。こんなに歩けるわけがないと、一般の人々は思うだろうが、鉄舟は実際に歩いた。

剣で浅利又七郎に勝つため、普通人では不可能な厳しい心の修行を行いながら、明治天皇の傍近くに仕えていたのである。天皇の回りにいた多くの人物とは全く異なっていた。 その姿に天皇が影響されないはずがない。

では、その影響とはどのような形で顕れたのだろうか。

ここで登場するのが「御真影」である。入手可能な明治天皇の御真影は三枚ある。
① 明治五年(1872)二十歳時の「束帯」姿の写真
② 明治六年(1873)二十一歳時の「洋風」姿の写真
③ 明治二十一(1888)三十六歳時の民衆が礼拝した「御真影」としての肖像画

この三枚を比較することで、明治天皇の英邁君主であられた実態と、鉄舟がそこへの影響を分析するが、その考えるヒントは「小鳥遊(たかなし)」である。

小鳥が遊ぶと書いて「たかなし」と読む。寛政年間(1789‐1801)に江戸幕府が編修した系譜集「寛政重修家譜」にも掲載されている由来苗字である。次号でお伝えしたい。

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