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2014年2月

2014年2月25日 (火)

2014年3月例会のご案内

20143月例会は以下のように開催いたします。

開催日  2014319()

場所   東京文化会館第二中会議室

時間   18:3020:00

会費   1500

内容  ①矢澤昌敏氏

     ●5月25日例会「新選組のふるさと~日野を歩く」のご案内

●淑徳大学池袋の公開講座「山岡鉄舟の世界」のご案内

●「歌謡曲と浪曲でつづる駿府の鉄舟」のご案内

 

②山本紀久雄

清水次郎長研究のまとめとして以下を考察いたします。

●清水次郎長が海道一の親分とうたわれるようになった人物要因

●次郎長が鉄舟から影響を受け、一家をあげて社会事業集団に変身した背 景要因

●以上に加えて道徳教科書に鉄舟を掲載する件について報告いたします

 

20144月例会について

 

 

   開催日  2014416()

 

 場所   東京文化会館第一中会議室

 

 

   時間   18:3020:00

 

   会費   1500

 

   発表者  末松正二氏

  関口隆吉についてご考察いただきます  

2014年2月例会報告

20142月例会は15()に千葉県館山市で「里見八犬伝実行委員会」と共催開催予でしたが、今回の大雪のため中止いたしました。

なお、中止に伴う例会は614()に館山市で開催するよう計画しております。

詳細は後日ご案内申し上げますので、よろしくお願いいたします。

2014年2月16日 (日)

江戸無血開城までの史実経緯

江戸無血開城までの史実経緯について

1. 慶応4年(1868)正月2日に勃発した鳥羽伏見の戦いに敗れ、薩長軍は官軍、幕府軍は賊軍となり、慶喜は大坂湾から船で脱出、江戸に1月12日に戻った。

2. 江戸城では恭順派と抗戦派に分かれ議論が紛糾したが、慶喜は恭順策を採り、その意を表すべく、上野の寛永寺一室に謹慎・蟄居した。

3. しかし、薩摩・長州を中心とした官軍は、総勢5万人といわれる兵力を結集し、朝敵徳川慶喜の居城江戸城を攻めるべく、続々と京都を下っていた。

4. この状況下において、慶喜は恭順の意を正確に官軍に伝え、かつ、江戸を戦火から防ぐべく、一介の旗本山岡鐡太郎(=山岡鉄舟、以下「鉄舟」と略する)に、江戸から駿府に乗り込み、実質の官軍総司令官であった西郷隆盛と会見・交渉することを命じた。

5. この時、幕府の対官軍交渉は手詰っていた。静寛院宮(14代家茂夫人)、天璋院(13代家定夫人)、輪王寺宮公現法親王による打開工作も通ぜず、官軍先鋒は品川まで迫っていた。最後の奇策としての鉄舟投入であった。

6. 鉄舟は明治15年3月に岩倉具視と三条実美賞勲局総裁の求めに応じ「慶応戊辰三月駿府大総督府に於て西郷隆盛氏と談判筆記」を提出した。その中で慶喜から命を受け、始めて海舟を訪ねた経緯を次のように記している。(参考資料「山岡鐡舟」教育評論社・全生庵編)
「余は、国家百万の生霊に代り。生を捨るは素より余が欲する所なりと。心中青天白日の如く。一点の曇りなき赤心を。一二の重臣に計れども。其事決して成り難しとして肯ぜず。当時軍事総裁勝安房は。余素より知己ならずと雖も。曾て其胆略あるを聞く。故に行て是を安房に計る」

7. 海舟はこの鉄舟の訪問を「慶応四戊辰日記・3月5日」に
「旗本山岡鉄太郎に逢ふ。一見、其人となりに感ず。同人申旨あり、益満生を同伴して駿府に行き、参謀西郷氏に談ぜむと云。我れ是を良とし、言上を経て、其事を執せしむ。西郷氏に一書を寄す」
と記している。(参考資料「勝海舟全集1・幕末日記」講談社)

8. 慶応4年3月9日の西郷と鉄舟の駿府会見で「江戸総攻撃を取り止めさせる」交渉の模様を「慶応戊辰三月駿府大総督府に於て西郷隆盛氏と談判筆記」で、西郷から以下の五箇条の条件が出されたと記している。(参考資料「山岡鐡舟」教育評論社・全生庵編)
     1.城を明け渡す事。
      2.城中の人数を向島へ移す事。
      3.兵器を渡す事。
      4.軍艦を渡す事。
      5.徳川慶喜を備前へ預る事。
鉄舟は1条から4条は受け入れるが、断じて5条の「徳川慶喜を備前に預けること」については受け入れなかった。以下のように強く反論している。
「余曰主人慶喜を独り備前へ預る事。決して相成らざる事なり。如何となれば。此場に至り徳川恩顧の家士。決して承伏不致なり。詰る所兵端を開き。空しく数万の生命を絶つ。是王師のなす所にあらず。されば先生は只の人殺しなる可し。故に拙者此条に於ては決して不肯なり。
西郷氏曰。朝命なり。
余曰。たとひ朝命なりと雖も。拙者に於て決して承伏せざるなりと断言す。
西郷氏又強いて、朝命なりと云ふ。
余曰然らば先生と余と。其位置を易へて暫く之を論ぜん。先生の主人島津公。若し誤りて朝敵の汚名を受け。官軍征討の日に当り。其君恭順謹慎の時に及んで。先生余が任に居り。主家の為め尽力するに。主人慶喜の如き御処置の 朝命あらば。先生其命を奉戴し。速かに其君を差出し。安閑として傍観する事。君臣の情。先生の義に於て如何ぞや。此義に於ては鐡太郎決して忍ぶ事能はざる所なりと激論せり。西郷氏黙然暫くありて曰く。先生の説尤も然り。然らば即徳川慶喜殿の事に於ては。吉之助屹と引受け取計ふべし。先生必ず心痛する事なかれと誓約せり」

Photo

 (静岡駅近くの西郷・鉄舟会見碑)

9. ここに江戸無血開城が事実上決まり、これによって明治維新大業への一歩が示されたのであり、鉄舟の個としての行動戦略性によって、近代日本の扉が開いたのである。

10. そのことを海舟は「慶応四戊辰日記・3月10日」に次のように記している。
「山岡氏帰東。駿府にて西郷氏に面談。君上之御意を達し、且 総督府の御内書、御処置之箇条書を乞ふて帰れり。嗚呼山岡氏沈勇にして、其識高く、能く 君上之英意を演説して残すところなし、尤以て敬服するに堪たり」(参考資料「勝海舟全集1・幕末日記」講談社)

11.また、鉄舟も前記「慶応戊辰三月駿府大総督府に於て西郷隆盛氏と談判筆記」で次のように記している。(参考資料「山岡鐡舟」教育評論社・全生庵編)
「益満と共に馬上談じ。急ぎ江戸城に帰り。即ち大総督宮より御下げの五ヶ条。西郷氏と約せし云々を。詳かに参政大久保一翁勝安房等に示す。両氏其他の重臣。官軍徳川の間。事情貫徹せし事を喜べり。旧主徳川慶喜の欣喜言語を以て云ふべからず」と述べ、早速に江戸市中に高札を立てて布告した。その大意は「大総督府下参謀西郷吉之助殿へ応接相済。恭順謹慎実効相立候上は。寛典の御処置相成候に付。市中一同動揺不致。家業可致との高札を」であり、これにより江戸市民はようやく一安心できたのであった。

12.3月9日の会見から4日後の慶応4年3月13日
海舟と西郷の第一回会談が芝高輪の薩摩屋敷で行われたことが、「慶応四戊辰日記・3月13日」記載されている。(参考資料「勝海舟全集1・幕末日記」講談社)

また、以下の見解は一般に認識されている内容である。(参考資料「南洲翁遺訓」)
海舟と西郷はすでに面識があり、会談後2人は愛宕山に登った。そのとき西郷が「命もいらず、名もいらず、金もいらず、といった始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて、共に天下の大事を誓い合うわけには参りません。本当に無我無私の忠胆なる人とは、山岡さんの如きでしょう」と語った。この内容が、後年西郷の「南州翁遺訓」の中に一節として記されたが、これは正に鉄舟の武士道精神真髄を示したものであった。

13.JR田町駅近く、都営浅草線三田駅を上がったところ、第一京浜と日比谷通り交差点近くのビルの前に「江戸開城 西郷南洲 勝海舟 会見の地 西郷吉之助書」と書かれた石碑が立っている。その石碑の下前面、向かって左側に「この敷地は、明治維新前夜慶応4年(1868)3月14日幕府の陸軍参謀勝海舟が江戸100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた『勝・西郷会談』の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある場所である・・・。」と書かれ、石碑の下前面、向かって右側に高輪邉繒圖が描かれている。

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(田町駅近くの石碑と西郷と海舟の会見銅板)

14.結論的には、「慶応四戊辰日記・3月14日」(参考資料「勝海舟全集1・幕末日記」講談社)に記されたように、慶応4年3月14日の西郷・勝会見(鉄舟同席・参考資料「山岡鐡舟」教育評論社・全生庵編)で正式に「江戸無血開城」が決まったといえるが、その前段階で鉄舟の駿府行きがあって、この日を迎えたのである。
                                                  以上

2014年2月 5日 (水)

現代の武士道

                                             2013年3月
                        現代の武士道
                                              山本紀久雄
武士道には様々な解釈がある。ここでは現代の武士道を検討してみる。

1. 日本人の特質

まず、日本人が武士道という表現を発するのはどういう場合が多いか。それをいくつかの事例で述べてみたい。

最初は、2004年に日本の陸上自衛隊(軍隊)がイラクの復興支援活動として派遣された際に、隊長が派遣部隊員に訓示した内容である。

「武士道の国から来た自衛隊らしく規律正しく堂々と任務を遂行しよう」と述べ、武士道とは公に奉仕する気持ちで、蛮勇ではなく真の勇気と礼節を尊び、恥ずかしくない行動をとることだと補足した。イラクの現地で自衛隊が具体的にどのような行動をとり、その結果どのような評価を受けたかは後述する。

もうひとつは、2004年のアテネオリンピックのシンクロナイズスイミング競技である。このチーム(フリー)のテーマは武士道であった。サムライの心、武士道を静かさと激しさで表現する演技によって、銀メダルを獲得した。

また、 FIFA World CupやWorld Baseball Classic の日本代表につけられるネーミングは「サムライ日本」である。

このように対外国に発信する場合、武士道とかサムライという言い方を好んで使う日本人とは、どのような特質を持った国民なのか、それをいくつか挙げてみたい。

① 日本人は「引く文化」を持っている。文字の書き方、欧米は横書きであるが、日本は筆を自分の方に引き寄せて書く、つまり、縦書きである。日本語で「強引」というのは英語にするとPush Aheadというように押すという単語になるが、日本語では引くという字を使って表す。のこぎりの使い方で、日本人は手前に引き、欧米では向こうに押して伐る。この引くという特質を採り入れた私のビジネス体験は後述する。

② 日本人は親からのしつけで「人から後ろ指さされないように」「恥ずかしい事はするな」「体を清潔にしなさい」等を幼少時代から叩きこまれる。しつけの「し」は能でいう「仕手」の「し」であり、意図的に行為し振る舞うことを意味し、「つけ」とは行為や振る舞いが習慣化されることを意味している。また、このしつけという日本文字は「躾」と書くように、身体に美しいという字を寄り添わせる。古くは美という文字に代えて「花」「華」という字を使っていた。このようにしつけには内心の美的感覚が含まれているが、これは花がやがて散る運命にあることと、武士が戦闘で死ぬことと結び付け、その死を「花花しい討死」や「死に花を咲かせる」につなげたいというところからきている。

③ もう一つ私が親から徹底的に言われたことに、学校を卒業し企業に勤めたら「一度勤めた企業を辞めるな」ということがある。これは同じ環境下で「我慢・しんぼう」「継続した努力」をしなさいというしつけで、これが日本人の普通の感覚である。ただし、最近は少し変化したが、定年まで同じ企業に勤めるという終身雇用制のシステムは、親からのしつけが支えている。また、同一企業内での長い勤務期間中、異なる業務の事業所へ異動することが頻繁で、住居も替わることも通常であるが、その際、子供の教育上、転校を避けるために、夫が「単身赴任」するということが多々発生し、家族との別居生活を選ぶことになる。この別居生活は欧米感覚では考えられないだろうが、この背景には江戸時代(1603~1868)の参勤交代制度が関係している。日本全国の諸大名と家来は、1年毎に江戸と自国領を行き来して、大名の妻子は人質として江戸(東京)に常住しなければならず、家来の妻子は自国領に留まる仕組みを1635年に確立し、以後、この制度は徳川幕府終焉時まで続いた。「単身赴任」とは武士達が200年以上続けてきた習慣からの余流であり、現在でも社会の中に残っているものであって、日本人にとっては別に不思議なことではない。

2. 武士道の経緯

日本において武士道という名称が文献に現れるのは江戸時代に入ってからで、それ以前には見られない。

日本の15世紀から16世紀は戦国時代であり、そこでの武士という存在は、戦闘を専門職能とし、戦場における武勲を第一としていた。

だが、江戸時代に入ってからは島原の乱(1637~1638)以降、江戸時代が終るまでの230年、内戦も対外戦争もない日本史上稀な持続的平和の時代が続いた。

このような平和状態下では、武士は戦場へ行く必要がなくなる。そうなると戦う武士としての性格は維持しつつも、同時にこの持続的平和の時代が求める、平時の行政的分野に向かうことになり、行政を担当する治者・役人としての性格を併せ持っていき、武士の行動基準も平和時に合わせた形に変容していく。

つまり、武士道とは戦闘状態がなくなって、行政を担当する者として、新しい時代に対応するために、徳義論的内容を付加することで成立したものである。

江戸時代に武士道という文言が表現された文献について、笠谷和比古(かさやかずひこ)氏の論文「武士道概念の史的展開」(日本研究第35集2007年5月)から拾い出すと以下のとおりである。

① 寛永19年(1642)に出版された「可笑記(かしょうき)」、筆者は如儡子(にょらいし)、「武士道」文言が頻出する。

② 明暦2年(1656)に出版された「甲陽軍鑑(こうようぐんかん)」。それ以前は写本として流布。戦国時代の大名武田氏の軍学書で「武士道」を説いている。

③ 明暦4年(1658)に出版された「諸家評定(しょけひょうじょう)」、筆者は小笠原昨雲(おがさわらさくうん)、「武士道」文言がある。

④ 寛文12年(1672)に記された「武士道用鑑抄(ようかんしょう)」、筆者は石田一鼎(いしだいってい)、「武士道」要綱がある。

⑤ 貞享2年(1685)に出版された武者絵本の題名に「武士道」とある。

⑥ 享保1年(1716)頃にまとめられた「葉隠(はがくれ)」、筆者は山本常朝(つねとも)、「武士道」文言が頻出する。

⑦ 享保年間(1716年~1736)にまとめられた「武道初心集」、筆者は大道寺友山(だいどうじゆうざん)、「武士道」文言が頻出する。

⑧ 文化3年(1806)に出版された「武学啓蒙(ぶがくけいもう)」、筆者は石丸東山(とうざん)、「武士道」文言がある。

⑨ 嘉永3年(1850)に出版された「尚武論」、筆者は中村元恒(もとつね)、「武士道」文言がある。

⑩ 安政3年(1856)の吉田松陰による講義草稿「武教全書講録」に「武士道」文言が頻出する。

⑪ 安政5年(1858)の山岡鉄舟による「修心要領」、「武士道」文言がある。

⑫ 安政5年(1858)の川路聖謨(かわじとしあきら)の「遺書」、「武士道」文言がある。

以上の中から、「可笑記」について少し補足したい。

「可笑記」は五巻からなる武士教訓書であり、1642年の刊行後、徒然草を擬した随筆体で、時世を風刺し、当世武士の不覚悟を訓戒するものであって、人びとの間で好評を博し、1660年にも新たに出版され、さらに刷りを重ねながら元禄時代(1688~1703)に至ってもなお、かなりの読者に求められていたことが知られている。

作者は如儡子としているが、東北地方の有力武士の家系に出自を有する名族の末葉と思われる。父はこの地方の大名家に仕えるも、のち牢人となり家族とともに各地を徘徊するうちに病没したため、作者は母の手で育てられ、のち母とともども江戸に出て仕官の途を探し求めたが、遂に果たすことなく市井に身を隠したまま月日を送っていた。

このような流浪の境涯にあったが、その武士としての誇りは高く、また諸学諸道に通じた学識教養の高い武士であった。

このような武士によって書かれた教訓書が、武士道に対する概念内容として、当時の一般社会に受け入れられたのである。

その一部を「可笑記」の「武士道の吟味」から拾ってみる。

「武士道の吟味とは、嘘をつかず、軽薄でなく、佞人でなく、二枚舌でなく、胴慾でなく、無礼でなく、高慢でなく、驕慢でなく、人を誹謗中傷することなく、主人への奉公が疎かでなく、朋輩との仲もよく、些細なことにはとらわれず、人との間柄も睦まじく他人を称揚し、慈悲深く、義理がたいことを肝要と心得るような精神的態度であり、単に命を惜しまぬ勇猛一辺倒では、良い侍とは言われぬ」

これが江戸時代の武士道として理解されていたものであり、武士道概念に神道的、儒教的、仏教禅的修養論などをとり入れて「神儒仏三教一体の徳義論的武士道」となっている。

3. 新渡戸稲造の武士道

1899年に新渡戸稲造が英語でBUSHIDO THE SOUL OF JAPANを書き、これにより日本の武士道が世界に知られるきっかけとなった。ご関心のある方は各国語に翻訳されているので読んでいただきたいが、ここでは同書の中から以下の二項目を紹介したい。引用は「対訳 武士道 新渡戸稲造著 奈良本辰也訳 三笠書房」である。

① 武士道を書いた理由(第一版序文)

約10年前、著名なベルギーの法学者、故ラヴレー氏 M.de Laveleyeの家で歓待を受けて数日を過ごしたことがある。ある日の散策中、私たちの会話が宗教の話題に及んだ。
「あなたがたの学校では宗教教育というものがない、とおっしゃるのですか」とこの高名な学者がたずねられた。私が、「ありません」という返事をすると、氏は驚きのあまり突然歩みをとめられた。そして容易に忘れがたい声で、「宗教がないとは。いったいあなたがたはどのようにして子孫に道徳教育を授けるのですか」と繰り返された。

そのとき、私はその質問にがく然とした。そして即答できなかった。なぜなら私が幼いころ学んだ人の倫たる教訓は、学校でうけたものではなかったからだ。そこで私に善悪の観念をつくりださせたさまざまな要素を分析してみると、そのような観念を吹き込んだものは武士道であったことにようやく思いあたった。

この小著の直接の発端は、私の妻がどうしてこれこれの考え方や習慣が日本でいきわたっているのか、という質問をひんぱんにあびせたからである。

ラヴレー氏と妻に満足のいく答えをしようと考えているうちに、私は封建制と武士道がわからなくては、現代の日本の道徳の観念は封をしたままの書物同然であることがわかった。
そこで私の長い病のためにやむを得ずできた機会を利用して、家庭内でかわしていた会話の中で得られた回答のいくつかを、読者に整理して述べてみることにする。それらは主として封建制度がまだ勢力をもっていた私の青年時代に、人から教わり、命じられてきたことである。

② 武士道とは何か(第一章)

武士道は、日本の象徴である桜花にまさるとも劣らない、日本の土壌に固有の華である。わが国の歴史の本棚の中におさめられている古めかしい美徳につらなる、ひからびた標本のひとつではない。

それは今なお、私たちの心の中にあって、力と美を兼ね備えた生きた対象である。それは手に触れる姿や形はもたないが、道徳的雰囲気の薫りを放ち、今も私たちをひきつけてやまない存在であることを十分に気付かせてくれる。

武士道をはぐくみ、育てた、社会的条件が消え失せて久しい。かつては実在し、現在の瞬間には消失してしまっている、はるか彼方の星のように、武士道はなおわれわれの頭上に光を注ぎつづけている。

封建制度の所産である武士道の光は、その母である封建制度よりも永く生きのびて、人倫の道のありようを照らしつづけている。

私が大まかに武士道と表現した日本語のことばは、その語源において騎士道よりももっと多くの意味合いをもっている。

ブ・シ・ドウとは字義どおりには、武・士・道である。戦士たる高貴な人の、本来の職分のみならず、日常生活における規範をもそれは意味している。武士道は一言でいえば「騎士道の規律」、武士階級の「高い身分に伴う義務 Noblesse Oblige」である。

さて、武士道とは、武士が守るべきものとして要求され、あるいは教育をうける道徳的徳目の作法である。

それは成文法ではない。せいぜい口伝によるか、著名な武士や家臣の筆になるいくつかの格言によって成り立っている。

それは、時には語られず、書かれることもない作法である。それだけに、実際の行動にあたってはますます強力な拘束力をもち、人びとの心に刻みこまれた掟である。

武士道はどのような有能な人物であろうとも、一個の頭脳が創造しえたものではない。また、いかなる卓抜な人物であったとしても、ある人物がその生涯を賭けてつくりだしたものでもなかった。

むしろ、それは何十年、何百年にもわたって武士の生き方の有機的産物であった。

だから私たちは、明確にその時と場所を指定して「ここに武士道の源あり」ということはできない。

だが、ただ一ついいうることは、武士道は封建制の時代に自覚されたものである。したがって時というならば、その起源は封建制と一致する、ということである」

以下、「義」「勇」「仁」「礼」「誠」「名誉」「忠義」「切腹」「刀」「大和魂」等について考察し武士道を解説している。

このようにこの本は、教育者であり外交官であった新渡戸稲造が、江戸時代に培われてきた武士道を整理し網羅したものである。

4. 山岡鉄舟の武士道

私は山岡鉄舟の武士道としての生き方を研究することで、今の時代にふさわしい生き方をお伝えするために山岡鉄舟研究会を主宰している者である。

山岡鉄舟(1836~1888)とは、江戸時代は徳川幕府の武士として、明治時代では天皇の侍従として、封建時代の終わりから近代化へ踏み出した日本で、武士道精神を実践行動し、社会に大きな影響を与えた人物である。

鉄舟の武士道体得への道は、まず、幼少時代の剣の修行から始まり、その追及過程で禅修行に入り、長年にわたる厳しい激しい修行結果「大悟(だいご)」という「無我」の境地に達し、書家としても高名となったように、「剣・禅・書」三位一体の達人である。
(注 大悟とは迷いを持たない境地に達すること。何らの煩悩迷妄を遺さないこと)

鉄舟は、剣修行について23歳(1858)に書き示した「修心要領」で次のように語っている。

「私が今日剣を修行しているのについては、考え方がだいぶ他人と異なっている。世間の人が剣を学ぶのは、おそらく敵を斬ろうがためであろう。私の剣修行は違う。私は剣の呼吸において、神妙の理を悟りたいのだ。一度そこまで行きつけば、心境は止水のごとく、明鏡のごとくになるであろう。天地の秘密はそのまま私の心に宿り、私と天地は同一のものであることが、からりと分かってくるに違いない。世間の人は私を目して猛虎のようだという。しかし私はまだ嘗て殺生をしたこともないし、一点他人に害を加えたこともない」

実際に鉄舟は一生この道を踏み外していなく、人への殺生は一切していない。

人の心について、同じく「修心要領」で次のように書き述べている。
「私が思うには、人の心は宇宙と同じであらねばならぬ。もし心が宇宙と同じようになってしまえば、天地万物、山川河海もまたわが身と等しいわけである。さすれば、四季の移り変わりも、幽明昼夜も、風雨も、雷も、霜雪も、みんな私が寝たり起きたり歩いたりするようなものである。世事に顚倒があり、人事に順逆があるのは、人生に陰陽がある如きものである。人の生死は、昼夜の如きものと心得なくてはならぬ。そうだとすれば、何を好き嫌いしたり、くよくよしたりする必要があろうぞ。ただ道に従って自在なるのみである。深く研究してみなければならない」

また、ある僧侶が鉄舟に「剣の極意とは何か」と問うと、鉄舟は「それは浅草の観音さんにある」と答えた。
そこで僧侶は浅草に行き浅草寺の観音さんに日参したが分からない。再び、鉄舟に尋ねると、寺の扁額に書かれている「施無畏(せむい)」という言葉、あれが極意だと答えた。この「施無畏」は仏教・観音経の経文にあって意味は「我らの一生、何をするかというと、いわば無畏を施す、つまり、怖れのないところをつかむのである。何ものも怖れない。何ものにも少しもおじけない。病気を怖れず、死ぬことを怖れず、貧乏することも怖れない。何ものも怖れない」であって、鉄舟はこの極意の境地に達していたのである。

さらに、鉄舟はこの境地を武士道の発言地と表現した。そのことを1887年に山岡邸において門人たちに武士道講義を行った中で次のように述べた。

「日本の武士道ということは日本人の服膺践行(ふくようせんこう)すべき道というわけである。その道の淵源(えんげん)を知らんと欲せば、無我の境に入り、真理を理解し開悟せよ。必ずや迷誤(まよい)の暗雲(くも)、直ちに散じて、たちまち天地を明朗ならしめる真理の日月の存するのを見、ここにおいて初めて無我の無我であることを悟るであろう。これを覚悟すれば、恐らく四恩の鴻徳(こうとく)を奉謝することに躊躇しないであろう。これすなわち武士道の発言地である」
(注 四恩とは①父母の恩 ②衆生(しゅじょう)の恩 ③国王の恩 ④仏・法・僧の恩)

この内容、少し分かりにくいので私なりに噛み砕くと、鉄舟がいう武士道としての人間の道は、「義」「勇」「仁」「礼」「誠」「名誉」「忠義」という既存の徳目一つひとつを対象として実践することではなく、それらの全ての底、基底部分を貫き、それらを成り立たせている根本原理を体得し実践することであって、その根本原理を「無我」であると述べているのである。

このように鉄舟の武士道は、自らに課した厳しく激しい修行で辿り着けた「無我」の境地から説き、実践したものであるが、この境地には誰もが辿り着けるレベルではないことも事実である。しかし、だからこそ鉄舟を研究する価値があると考えている。

5. 現代の武士道

さて、江戸時代に武士道として文献に現れ、明治時代に新渡戸稲造が整理しまとめた日本人の武士道、それが現代ではどのような場面で日本社会の中で表出しているのであろうか。

その事例をいくつか述べていきたい。

① 2004年の陸上自衛隊(軍隊)イラクの復興支援活動に見る武士道

「武士道の国から来た自衛隊らしく規律正しく堂々と任務を遂行しよう」と述べた番匠(ばんしょう)幸一郎隊長がまず、最初に心がけたのは義理・人情・浪花節で接したいということであった。
(注 浪花節(なにわぶし)とは、明治時代初期から始まった演芸の一つ。浪曲(ろうきょく)とも言い、三味線を伴奏に用いて物語を語る大衆娯楽。庶民的な義理人情に訴える作品が多い事から、転じて「浪花節にでもでてきそうな」という意味で、義理に流された話を「浪花節的な」あるいは単に「浪花節」と比喩することが多い)

番匠隊長は、国籍、宗教とか文化的背景は国によって異なるが、最後は人間一対一の関係であるので、義理・人情・浪花節を持っていれば通じ合えると信じ、イラクの人達が主役である復興、その手伝いを日本からの友人としてお手伝いするのが任務であるから、イラク人のニーズを汲み取って敬意を払い、現地の人々に次のように語りつづけた。

「我々はあなた方の友人として、日本からイラクに来た。我々日本も、先の世界大戦で敗れ、国土は焦土と化した。すべてが無に帰し、食糧にも困る日々が続いた。そんな廃墟の中から、私たちの祖父母、父母の世代が起ちあがり、大変な努力をして、日本を復興させた。結果として世界で有数の経済国家にし得た。メソポタミヤ文明という人類にとって偉大な歴史を有するあなたたちイラク人は偉大な国民だ。あなた方に日本と同じことができないはずがない。我々は友人として、あなた方が起ちあがるお手伝いに来たのだ」と。

結果は、他国の軍人達が表敬や見学などで日本の宿営地を訪れた時、一様に驚くのは、宿営地建設のために現地で雇用したイラク人作業員達が、夕方になってもまだ働いていることであった。他国でも同様に現地の作業員を雇っているのだが、みんな3時、4時になると仕事が途中でも帰ってしまう。

ところが、日本の宿営地の作業員は違う。他国では作業員に仕事内容を伝えたら、後は現地の人たちだけで動く。しかし、日本の場合は、幹部自衛官であっても、現地人と一緒になって、共に汗を流す。日本人とイラク人とでチームをつくった共同作業であった。

規律は徹底的に求め、朝6時から夜10時まで定められた日課を正しく行った。結果として、他国の軍人達が来て驚くのは「信じられない整然さだ」ということだった。テントや車両を一列に並べる際には、誤差範囲を2.5~3cmを徹底させた。また、イラクは砂嵐がすごく、他国軍の宿営地ではゴミが宙に舞う光景をたびたび見たが、日本の宿営地ではそれはなかった。隊員達は命じられるまでもなく、気がつくとゴミを拾っていたからである。

ある外国軍基地で簡易トイレに入ったが、かなりひどい状態であり、監視員がタバコのポイ捨てをしていたのには愕然とした。我が方では考えられない行為である。また、基地に至る道路、轍(わだち)のまま乾燥して山になって固まり、そこに水がたまっている状態で、きれいに整地して砂利を敷いている自衛隊とは、整備レベルがまったく違うなと思った。

規律を正しくして行動するという意味は、ライオンがロバの仕事をするためであって、ロバがライオンの役割はできないからだ。最初から平和任務、つまり、ロバの任務と思って、そのような準備、態勢、構えで来た軍隊は必ず失敗する。しっかりとした軍事組織としての意識、気構えを持って臨み、それなりの準備と態勢を持つ部隊なら、たとえそれが人道支援だけの任務であっても、絶対に成功するし、予想外の事態に陥ったとしても成功する。だから、規律を正しく求めたのだ。

次に隊員である門間有道(もんまありみち)陸軍中尉の覚悟についてみてみたい。

彼はイラク派遣が決まると自宅の工房に籠って、白い小さな箱をつくった。その小箱は何かと、妻に問われ、門間は重い口を開いた。「骨箱だ」と。小箱の中にはビニール袋に包んだ彼の制服姿の写真と、頭髪、爪が並んでいた。「イラクで万が一のことがあって、自分が遺骨で戻ってくるならば、この骨箱に入れて、実家のそばの桜の木の下に埋めてくれ。祖父母が開墾した土地で眠りたい。それと箱には、骨壺なしで直接骨を入れてくれ。4、5年で白木が腐り、骨が土に還るはずだから。もしも骨が残らない場合も想定して、写真と髪と爪を用意した。頼む」と。武士道としての覚悟である。

② 不良品、納入遅れがない

これはある化粧品ガラス容器を製造している企業の事例である。ここの社長が米国の化粧品メーカーから表彰したいから本社に来るようにと連絡があった。

このメーカーとは長く取引が続いており、大事な得意先であるが、表彰を受けるほどのことはしていないというのが社長の判断だった。

ところが、米国本社に訪問してみると、役員が全員並ぶ表彰式でトロフィーをいただくという晴れ舞台となった。表彰式後には昼食にも招待されたが、この表彰式に招かれたのは、この一社だけだった。

そこで表彰された理由を尋ねて見ると、それは「過去10年間の取引で、不良品、納入遅れがない企業は貴社だけだ」ということで、晴れがましく思ったが、それは日本企業としては当然の当たり前のことだと思って帰国した。

この話を私が聞き、東京都港区の商工会議所の経営者セミナーで講演した際、この米国から表彰を受けたことを伝えた。伝え方は、日本人は武士道精神で経営をしているので、定められた品質と約束は守る、という事例として述べたのだが、終って懇親会の席上、何人かの経営者、この経営者は輸出をしていない企業であるが指摘を受けた。

「先ほどの米国企業から表彰を受けた話、あれでトロフィーを貰うとは信じられない。お互いに約束して品質と納入期日を決めたら守るのが当たり前で、そんなことは日本国内では普通のことで表彰を受けるレベルでない」

これは、日本では企業同士が規律を守って経営している実態を証明している。日本の鉄道が定められた時刻表通りに走るのは日本では常識だが、世界からは不思議がられていることも、武士道があってのことだと思う。

③ 引く文化をマーケティングに活かして成功した事例

日本人は「引く文化」を持っていることは既に述べたが、それを活かして成功させた、私のビジネス体験を述べたい。

私は40歳代当初、日仏合弁化粧品企業の社長に、日本の親企業から転勤・出向ということで派遣された。当時、私は親企業でエリートコースといわれ、その部署を担当した者の中から社長・役員が輩出しているところで管理職をしていた。

ところが、人事異動で膨大な赤字を抱えた日仏合弁企業へ異動となったのである。同僚からは「何か悪いことしたのだろう」と中傷されたように、明らかに左遷とみられるものであった。

したがって、異動の辞令を受けた時は、私をバカにしていると考え、他の企業に転職しようかと一瞬考えたが、親からのしつけである「一度勤めた企業を辞めるな」を思い浮かべるとともに、よしこうなったのだから自分の名誉のために、必ず成功させ、累積赤字を解消させてみせると、勢い込んで合弁企業に乗り込んだ。

しかし、冷静になって合弁企業の実績、売上を構成するフランスの化粧品を分析してみると暗い気持ちにならざるを得なかった。

赤字の主因は「売れない」ということに尽きていることがわかったからである。フランスの化粧品、それもネームバリューがないアイテム揃いでは、扱ってくれる店も少なく、従って膨大な在庫を抱えているのみで、人件費と事務所家賃等の固定費で毎月赤字がドンドン増えていく実態であった。

どうしたらよいのか。何に活路を求めたらよいのだろうか。必死に考え、考え抜いた。朝から夜まで、寝ていても考えつづけた。

ある日、事務所の近くの交差点、昼食に行こうと赤信号で立ち止まった時、突然インスピレーションが湧いた。そうだアイテムを絞ろう。全商品50品のうちで、一番売れている化粧品だけにしよう。つまり、1品だけの販売態勢にしようとインスピレーションが湧いたのである。

どうしてこのインスピレーションが、赤信号時に浮かんだのかはわからない。だが、多分、精神集中によって生まれる霊感ともいえるものだと思う。当時は知らなかったが、このような霊感インスピレーションは、禅の世界でよく解説されているもので、日本人が得意とする分野といわれている。

1品に絞るということを決心したが、これだけでは理論的にフランス本社を説得できない。当り前だろう。フランス本社は多くの化粧品を製造し、それを販売するために日本との合弁企業を設立したのである。それなのに、その化粧品を1品に絞るということは、残りの49品を捨てるという結果となる。何のために49品を製造したのかという、メーカーとしての本来意義が問われる。

その通りで、この1品に絞る考えはフランス本社からも、日本に派遣されているフランス人からも猛反対を受けた。

そこで、絞るための理論を構築するために、再び、必死に考え、考え抜いた。朝から夜まで、寝ていても考えつづけた。

すると、ふと自宅の書棚の中に2500年前の中国春秋時代に記された「孫子(そんし)兵法」の解説書を見つけた。若い時代に孫子兵法を研究したことがあって、その本が書棚にあったのである。

手に孫子兵法をとった途端に、またもや突然インスピレーションが湧いた。そうだ、孫子兵法に「弱者が強者に勝つ兵法」があったはずだ。

その兵法とは、戦場で弱者が強者に囲まれた時、そのままでは敗北する。生き抜くためには、強者とて囲みが手薄で弱い部分があるはずだから、そこを探り、そこに弱者の勢力を一点集中させ、必死の攻撃をかけ突破口をつくっていくというものであった。

そこで化粧品店の店頭を一つの戦場として考えてみた。店の販売棚には世界の有力メーカーの化粧品が溢れるほど並んでいる。そこに無名のフランス化粧品を多品種潜り込ませ、店からお客さんに推奨してもらうことは不可能に近い。

しかし、1品なら今まで日本の親会社で培ってきた人脈で、知りあいの店に何とかお願いできるかも知れない。1品ならつきあってくれるだろうし、1品なら突破口になれるだろう。
だが、そのためには1品をお客さんに説明するキーワードが大事だ。お客さんが成程と思う時代感覚とマッチしたものでなければならない。それを次に必死に考え、考え抜いた。朝から夜まで、寝ていても考えつづけた。

このタイミングで時代が味方してくれた。時代は環境重視の方向へ動いていた。公害問題が話題となっていた。フランスの化粧品は自然派のアイテムである。そこで時代環境を徹底的に検討し、それを分かりやすく書きだし、チラシにもして、それを持って全国の化粧品店を訪問し出した。

すると過去のつき合いで1品だけならいいよと買ってくれる店が出始めた。そこで、その店で推奨してもらうようお願いするとともに、買ったお客さんに使用結果を聞いてもらい、その結果を連絡していただくようにお願いし、中には直接にお客さんの自宅まで手土産持って訪問し、使用結果の反応を確認した。

幸い、お客さんの多くから好反応で、その体験話から、キーワードをつくり直し、次の店には、そのキーワードでつくり直したチラシを持参して、再び、同じことをお願いして歩いた。
当時は、月曜日の朝に事務所に行き、朝礼をしてからすぐに出張し始め、土曜日の夜遅く事務所に戻るという生活を続けた。

当時の生きがいは、毎日どのくらい注文が来るか、注文が来たところには直ぐに訪問し、その要因をお聞きするということであった。勿論、問題点もお聞きし、直せるところは直ぐに対応するということを半年つづけた結果、何とか月次決算で黒字となった。一年後には単年度黒字となって、その1品はその年の化粧品業界で大ヒット品といわれるほどになり、5年目には累積赤字が解消し、日本の親会社から社長賞を授与され、親会社の事業部長として戻ったのである。

今から考えて見ると、日本人の持つ「引く文化」から、アイテムを絞るという戦略が浮かんだのではないかと思っている。それと自分の名誉を守るという、自負心としての武士道精神、それが大きな励みになったと思い、左遷を受けたことが結果的に成功をもたらし、稀なる体験の数々をさせてもらい、今でもフランスの方々と関係が保たれていることに感謝している。
なお現在、この合弁企業はアイテムを増やし、立派な経営を展開している。

                                                  以上

(追)武士道と村上春樹小説の同一性
山岡鉄舟の研究をして行くと武士道にたどりつき、武士道を研究して行くと「無我の境地」という存在を認識するようになり、鉄舟が開いた「一刀(いっとう)正伝(しょうでん)無刀流(むとうりゅう)極意」の目録第二項「切落之事(きりおとのこと)」がわかってくる。
「切落之事」とは、相手が剣を打ち込んでくる瞬間、間髪を容れず、こちらも真っ向から剣を振り下ろすことである。これは非常に危険な剣法である。一瞬でも遅れれば自分が斬られてしまう。生死の境目にあたる技だろう。
しかし、この生死の境を分からないと剣の達人にはなれない。つまり、「死ぬ」ということが「隣りの家に行く」ような感じになった時、剣の達人になるのだという。
実は、この感覚は村上春樹が辿り着いている感覚ではないかと思っている。村上春樹は舞台が日本で、日本人のみが登場するストーリーなのに、世界中にファンがいる稀有な作家である。
また、ストーリーは現世の場面と、あの世の場面を交互に使い分け、それが違和感なく展開されていく小説スタイルであるが、これは何かのキッカケに、生死の境ということを、分かり得たのではないかと思っている。
村上春樹はインタビューで以下のように話している。
「僕は決して選ばれた人間でもないし、また特別な天才でもありません。ごらんのように普通の人間です。ただある種のドアを開けることができ、その中に入って、暗闇の中に身を置いて、また帰ってこられるという特殊な技術がたまたま具わっていたということだと思います。そしてもちろんその技術を、歳月をかけて大事に磨いてきたのです」(亜州週刊 2003年3月 中国)

2014年2月 2日 (日)

2014年2月例会

2014年2月例会は、2月15日(土)13:30から18:00に千葉県館山市で「里見
八犬伝実行委員会」と共催開催いたしますが、宿泊施設の関係で申し込みは締
め切らせていただきました。

2014年3月例会は以下のように開催いたします。

    開催日  2014年3月19日(水)
       場所   東京文化会館第二中会議室
    時間   18:30~20:00
       会費   1500円
    発表者  山本紀久雄・・・清水次郎長研究のまとめとして以下を考察いたします。

① 清水次郎長が海道一の親分とうたわれるようになった人物要因

② 次郎長が鉄舟から影響を受け、一家をあげて社会事業集団に変身した背景要因

*なお、5月の開催は5月25日(日)に「新選組のふるさと・・・日野を歩く」を予定し、3月例会にて詳細ご案内いたします。   

2014年1月開催結果

1月の発表は、最初に水野靖夫氏から新著「『広辞苑』の罠」についてご発表いただきました。広辞苑には「国語辞典」と「百科辞典」という二つの機能が含まれているが、この「百科辞典」の記述で日本の辞書とは思えない偏向性があると具体例をもって指摘されました。
例えば「伊藤博文」の解説での「安重根」の記載が
   1版 漢人に狙撃せられて没
   2版 韓国人安重根に暗殺された
   3版 韓国の独立運動家安重根(1879~1910)に暗殺された
   4版 からは「安重根」が独立の見出し語となり、韓国・北朝鮮で義士と称えられる。
 と版を重ねるごとに日本の辞典とは思えない書き方へ変化しており、これは産経新聞
(2013.12.16)産経抄でも取り上げられました。
Photo    
この他にも多くの鋭い指摘がなされましたが、水野氏の新著は必読と考えます。

次に、山本紀久雄から「清水次郎長」について発表いたしました。
① 清水一家は以下のように現在は六代目となっている。
初代 - 清水次郎長(本名: 山本長五郎)文政3年(1820) - 明治26年(1893)74歳没 二代目 - 小沢惣太郎 三代目 - 鈴木幸太郎 四代目 - 田辺武一 五代目(~1966年) - 田辺金吾 六代目(2007年~) - 高木康男(元・闇金融事件の山口組五菱会六代目)

② 石松の墓は二つある・・・どちらが本物なのかについて考察いたしました。
  Photo_2    
静岡県周智郡森町の大洞院      

1

愛知県新城市富岡半原田の洞雲寺

明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の十三

まずは前号で述べた小鳥遊(たかなし)について触れたい。

小鳥が遊ぶと書いて「たかなし」と読む。これは一見しただけではとても読めないが、寛政年間(1789‐1801)に江戸幕府が編修した系譜集「寛政重修家譜」にも掲載されている苗字である。

この来由は、「小鳥が遊んでいる」⇒「天敵がいない」⇒「鷹がいない」⇒「たかなし」という筋書き、これを聞けばなるほどと思える。

つまり、現在の状態が成り立っている背景条件・状況と、それを生じさせている因果関係を示しているのである。

この小鳥遊を敷衍させ、明治時代に「偉大な統治者」として明治天皇が国民に受け入れられた背景条件を考察するならば、そこに明治二十一年(1888)から使われた「御真影」と呼ばれる肖像写真があったことは否定できない。

当時の国民が最敬礼した「御真影」は、少年天皇から、堂々たる風格と品位をもった帝王へ深化された姿であったことが、受け入れられた最大かつ重要条件である。

だが、いくら優れた技術をもって「御真影」肖像を描いたとしても、明治天皇御自身が「背骨を持ち」「剛毅朴訥仁に近し」という秀でた君主であり、国民が日ごろ見聞きする天皇の行動実態と合致した君主像でなければ、国民は肯んじなかったであろう。

つまり、「少年明治天皇」⇒「その後の教育」⇒「君徳の涵養」⇒「偉大な統治者」となられた結果として「御真影」が存在したわけである。

さらに、この「御真影」となられた背景条件としては、江藤淳が述べる「山岡鉄舟は明治天皇の扶育係」(勝海舟全集11巻 講談社)という因果関係が存在している。

何故なら、鉄舟の生き様は、この明治天皇イメージ像とぴたりと重なり合うからで、「御真影」の背景には鉄舟がいて、鉄舟による扶育が影響し「御真影」が醸し出す偉大な君主になられた、という因果関係が成り立つと考えている。

この「御真影」が醸し出す要因については後段で分析を行いたい。

では、この明治天皇「御真影」が、国民に写実化されるにいたった経緯を検討してみたい。
天皇を戴くことで倒幕に成功した明治維新政府であるから、天皇が存在しなければ明治政府の基盤は成り立たなかった。

また、それまでの天皇はあまりにも一般民衆にとって無縁な存在であり、一日も早く天皇の姿を国民に示す必要があった。さらに、天皇親政の実を表すためにも、天皇の視覚化は政治的に最も重要な課題であった。

しかし、そのためには二つの前提条件が存在した。一つは少年天皇の「教育」=「君徳の涵養」であり、もうひとつは視覚化の手段・技術であった。
天皇の教育については既にみてきたように、学問教育として元田永孚等の侍講学者が登用され、侍従には武士的要素から士族が選ばれ、その中に扶育係となった鉄舟がいたわけである。

 まず、天皇視覚化の第一歩は、江戸時代から続いている錦絵から始まった。明治元年(1868)の一連の出来事を描いた錦絵に天皇が登場しだしたのである。

 だが、この当時の錦絵に描かれた天皇は写実的な肖像ではなく、その上錦絵の多くは明治天皇を描いたとはうたっていない。

それを「天皇の肖像」(多木浩二著)からいくつか紹介する。
 長谷川貞伸描いた「御即位之図」(明治元年)では、実際の天皇よりはるかに年長の青年が御簾の内側に座し、長い髪に小さな冠を戴いているが、「神武天皇之即位」と記されている。
 鉄砲をもった兵士に護衛された、明治天皇の大阪親征を仁徳天皇の難波行幸と名づけたり(長谷川小信画、明治元年)、そのときに天保山で実際におこなった軍艦の親閲を、神功皇后の三韓征伐と題したり(長谷川貞伸画、明治元年)しているように、この時点ではたぶんに想像的な戯作的要素が残り、比喩のたわむれが強かった。

 これは当時の慣例化した手法、政治的事件でも、事実を正確に伝えるというより、古い出来事にみたてて現在の出来事を描く”擬古画”、あるいは意味を読みかえた”寓意画”によるのが普通で、通俗的な演劇(人情物)に近い民衆の想像力で受けとめたと言える。

 この傾向に変化が見られたのは、明治元年の京都から東京への行幸、実際は遷都であるが、現実に天皇が行列をもって東海道を動くという事実によって、多くの錦絵が描かれた。中でも特に東京に近づき、東京に入る情景を描いたものが多い。

 その代表的なものに魁(さきがけ)斎(さい)芳年の「明治天皇御東幸千代田城御入城之図」(明治元年)で、これは当時の一般民衆にとって、権力交代が視覚的に認識されたことを意味している。

 江戸時代の民衆は、大名の参勤交代という権力者の行列には慣れていた。街道を通る美々しく厳めしい行列は、視覚による威力の確立であったが、それと同じ効果を明治元年の、明治天皇の東京行幸は意図したわけで、視覚化の大きな手段・技術のひとつであった。

 もうひとつは行列の仰々しさである。岩倉具視、中山忠能、伊達宗城、池田章政(岡山藩主)、木戸孝允を筆頭に、供は三千三百余人に達し、天皇が乗る鳳輦及び板輿を守って行動したのであるから、並みの大名とは比較できない規模であり、民衆の受けとめへの効果は大きかった。

 それを示すのがアーネスト・サトウの記述である。(一外交官が見た明治維新・下)
 「1868年11月26日(明治元年10月13日)、品川で一泊された天皇は、この日午前ごろ江戸へ入られた。・・・中略・・・私は、以前ハリー・パークス卿の官邸に用いられ、今では外務省みたいな役所になっている屋敷の、新しい門の前に最近できた広場に立ちながら
歯簿(ろぼ)*(天使が巡幸する際の行列や車駕・儀仗の前後の順序)を眺めた。
 外見は必ずしも壮観とは言えなかった。いやに西洋をまねた服装と、だらしない乱髪の兵隊のために、廷臣たちの服装から受ける東洋ふうの印象が台なしにされたのである。
 天皇の黒漆塗の駕籠(鳳輦)は、私たちには実際珍しかった。それが近づくにつれて、群衆がしーんと静かになったのは、まことに感動的であった」

 この記述、大名行列との比較で、外見は壮観とは言えないと述べているが、外国人であるサトウが感じた最後の「しーんと静かになった」というところが重要で、それは民衆の天皇に対する感情を示していた。

さらに、この時は既に民衆は、土下座していないことも新時代を演出している。

 加えて、天皇を迎えた東京市民に対しては、行幸の祝いとして大量の酒をふるまった。下賜された酒は、約二千九百九十樽で、加えて、各町に錫(すず)瓶子(へいし)(銀製の徳利)とするめが下賜され、市民は二日間にわたって家業を休んで楽しんだ様子が錦絵に遺されている。「御酒拝領」(国周画 明治元年)、「東京市中にぎわい之図」(了古画 明治元年)等である。

 これら東海道を行列し東京に入る天皇の歯簿、酒を振る舞う天皇等は民衆にとって何を意味させたのであろうか。

 それは、民衆は、今までの天皇は京都御所深くの空間的存在であって、現実的な権威とは受けとめていなかった。だが、新時代に入って、実際に東京へ行幸する具体的な天皇の姿に接し、国民となった民衆は天皇を「空想する」という段階から「現実の存在」へと認識を改め始めたのである。

つまり、政治的、精神的な中心として天皇をとらえ始め、明治政府の戦略が意図通り伝わっていったことを意味する。
 

そこで次なる課題は、天皇の容姿である。天皇という存在は実際に存在するということは認識した。だが、その天皇とはどのような姿であり、仰ぎ見る存在として受け入れられる人物実態なのか。そこに視点が移っていく。

 ここで出現したのは写真という技術・手法であるが、その前に、天皇の服装が課題となった。国民に写真で伝えられる服装、それを新時代にふさわしいものに変化させないといけない。

その天皇服装の変化を見ると、明治三年(1870)四月の陸軍連合訓練時には、直衣(のうし)*を着て袴をはいて馬に乗っていたが、明治四年の操練時には洋装(軍服)となり、五月頃からは皇居内でも政務をみる御座所では洋服を着用し始めた。

明治五年(1872)九月には、天皇の陸軍大元帥の服制が定められた。帽子は黒色、上着・ズボンは紺色の洋装で、帽子及び上着袖とズボンに金線を加えている。

近代国家の君主に位置づけるためには、西洋にならって軍服を装うことで、軍の統率者であるというイメージを創り上げようとしたのである。

その軍服姿で国民に「見える化」し、天皇イメージを決定的にしたのは六大巡幸であった。
その一回目は、明治五年五月二十三日に出発した近畿、中国、四国、九州巡幸である。明治天皇は軍人イメージを高めるために騎馬で皇居を出発し、品川沖に停泊する旗艦龍驤(りゅうじょう)に乗船した。供俸するのは西郷と弟従道等七十余人であった。

以後、明治十年代を通じて、それぞれ一、二カ月かけた大巡幸を六回行って、軍服としての天皇イメージを国内的に固めていった。

 では、写真はどのような意図背景から撮られたのであろうか。その動機の突端は外交面であった。

 明治五年、当時アメリカにいた岩倉具視は、外交儀礼として国家元首の写真を交換するという慣習があるので、一旦帰国した大久保利通と伊藤博文に、宮内庁に天皇の写真が必要であることを説明させた。この当時、宮内庁には当然ながら写真はなかった。

 そこで明治五年と六年に、当時、浅草で写真館を構えていた内田九一に撮影を行わせた。これが明治五年の束帯をつけた和装の写真と、翌六年に撮影された断髪姿の洋風写真であり、洋風写真がその後15年間にわたって外国の君主に贈られた写真であった。

 また、これとともに行われたのは写真の下付である。側近たる政治家、高級官僚への下付と、地方官庁への下付であった。
 明治六年六月、奈良県令四条隆平が天皇の写真を「拝戴して、新年、天長節等の祝日に之を政庁に奉掲し、県民ならびに官民をして贍拝(せんぱい)せしめんと欲し」て宮内卿にその下賜を申請し、許可されたのが始まりで、これが「御真影」礼拝儀式の発端であって、その年の十一月にはすべての府県に写真が下付された。

 このように天皇の写真は、一方では在外公館における主権の象徴であり、他方では地方官庁における国民礼拝の対象という二重の政治的機能を果たすようになっていった。
 結果的に、天皇制国家として対外的に独立国として存在し、対内的には天皇を中心に一体化するという国是を象徴するものに昇華されていった。

ところで、明治天皇は写真嫌いであった。入手可能な明治天皇の御真影は三枚である。
① 明治五年(1872)二十歳時の「束帯」姿の写真
② 明治六年(1873)二十一歳時の「洋風」姿の写真
③ 明治二十一年(1888)三十六歳時の民衆が礼拝した「御真影」としての肖像画

天皇とて人間であるから、年々歳々変化していく。明治六年の写真をもって十五年間も維持してきたが、外交的に写真交換するものとしては限界があると宮内庁は考え、改めて明治二十一年に写真を用意したのである。

 また、この時期は、翌二十二年大日本国憲法公布の年に当り「国家の機軸を皇室におく」というタイミングと重なり、その機軸にふさわしい天皇像が求められたのであり、ここに登場したのが既に述べたように「理想の君主像」としての「御真影」肖像画であった。

 この「理想の君主像」を描いたのは、明治八年(1,875)に大蔵省紙幣寮の招きで来日し、以後長く紙幣の原版の意匠、彫刻、印刷に携わったイタリア人、エドアルド・キョッソーネである。

そのキョッソーネが明治二十一年に描いた肖像画を、内田九一が明治八年に三十一歳で早世した後、当時東京で最も有名な写真家の一人であった丸木利陽が、キョッソーネの指導のもとに「試写数回、数十日を費やして」(明治天皇紀)複写し、写真として仕上げたのである。

 いよいよ明治二十一年の民衆が礼拝した「御真影」としての肖像画が、いかに優れているかの検討に入りたい。この「御真影」によって、明治天皇が理想的君主であったという国民からの決め手となったのであるから、そこには見事な「何か」があるはずである。

また、その「何か」を探る糸口は、明治六年二十一歳時の「洋風」姿の写真との比較であり、その比較を通じて十五年後の天皇がいかに深化されたかを窺うことにしたい。

それが鉄舟の明治天皇への扶育による影響についても探ることにつながるからであり、そのために読者も両方の写真を並べて見比べてほしい。

 明治六年と二十一年の違い、これも「天皇の肖像」(多木浩二著)を参考に展開する。

1 .六年は身体的な生々しさがあったが、二十一年は消えて、明らかにヨーロッパ的な肖像画や肖像写真に近いスタイルとなった。
2. 髪型も変わり、髪がすっかり顔に馴染んでいる。
3. 全体構図は、六年の写真は無作為の記念撮影の手法に近いが、二十一年は肖像としての効果を熟慮したスタイルで、眼に捉えられる「身体」としての天皇にしている。
4. 構図を意識的に切り取っている。六年の写真は全身で回りの空間が広いが、二十一年の肖像は七分身の座像で、身体が画面の大半を占め、回りにはよけいな空間が殆どなく、背景もはぶかれている。結果として、天皇の身体が前面に押しだされ、分厚い存在感が強く迫っている。
5. 六年は椅子にもたれているのに対し、二十一年は椅子の背から身を起こし、背筋を真っ直ぐに伸ばしている。この垂直で、正面を向いた身体の姿勢は、権力を示す姿勢であり、威厳を生みだしている。今の日本人の姿勢と大ちがいである。外国でよく会うツアー客、多くの人が前かがみで猫背であり、胸を張って大手を振って歩く人は少ない。
6. ポーズでの特徴が違う。六年は、両手で剣の柄を握り、このために一方の腕が身体の前を横切り、胸部正面が表現する身体の強さを殺いでいる。二十一年は右手を軍帽の見える脇の机に置き、左手で前に立てた剣の柄を握って、分厚い胸を広げている。二十一年の肖像が威厳を保ちながら、なおゆったりとした身体の印象を与えるのは、この手の置きどころにより、加えて胸一杯に飾られた勲章を誇示する効果を生んでいる。
7. 相貌からうける印象が違う。人間は相貌にたいして他のいかなる部分に対するよりも特別敏感な知覚を持ち、そのために相貌こそモデルの姿勢、服装、周囲に情景を従えて、絵画全体のなかで意味を統合する視覚の頂点になる。その相貌を個々に比較すると、眼、鼻、額、頬から顎にかけての輪郭などは、若い日の写真の細部とよく合致するが、全体としての印象はまったく変わった。二十一年の肖像は若い日の写真に似ているようで似ていない。肉付きのいい、バランスよく整った、見違えるように気品ある立派な顔立ちになった。六年の写真は生々しくきついが、二十一年の写実性は、はるかに落ち着きがあり、穏やかで、生硬さがない。六年はごく個別的存在であるのに対し、二十一年はほとんど個人的存在を感じさせない。それは天皇のある日の面影をとらえたものではなく、その精緻な写実性にもかかわらず、揺れ動く存在の一瞬ではなく、存在が示すあらゆる変化のかなたに、それを超えて構成された概念的、抽象的な相貌としている。

以上の比較分析から分かるように、明治二十一年「御真影」は、未経験の青年君主から、年齢と経験を加えて重厚で堂々たる帝王へ深化しているのであるが、その中でも最も特徴的なことは、相貌が個別性を脱していることであろう。

 ここに「御真影」の最大の意義が込められている。人は必ず年齢というものが相貌に影響を与え、相貌に顕れていく。

 ところが、明治天皇の「御真影」は、生身でありながら、その時代にとって必要であった聖なるものへと昇華され、時間を超えても変わらず存在し続けた。

 ならば、この「御真影」が描かれた時期が重要になる。その時の明治天皇が聖なるものへと昇華するに値される存在になっていなければならないからである。

 「御真影」が描かれたのは明治二十一年、この年に鉄舟は亡くなった。明治五年に侍従となり、その後天皇の身近に仕えて十六年後の逝去したその年に「御真影」が描かれたということ、それは偶然ではないだろう。

 鉄舟から受けた扶育、その成果が明治天皇の相貌に賢者・風格・重厚・気品となって、「御真影」に顕れたと考える。また、その成果を見届け、鉄舟はこの世を去ったのであろう。
鉄舟は、明治二十一年七月二十一日午前九時十五分、明治天皇がおられる御所に向かって結跏趺坐し逝去。逝去後も端然として崩れなかったという。正に坐脱であった。

翌二十二日、篠突くばかりの大雨の中、御所の前で十分間葬列を止めた。天皇・皇后陛下が高殿から目送されたという。

次号は、西郷、鉄舟、乃木の精神的役割について検討する。

明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の十二

明治十年(1877)の初頭、二十六歳の天皇は、突如として「ひきこもり」とも「ウツ」とも見られる症状を示し出し始めたことは前号でお伝えした。

では、この状態から脱皮したきっかけは何か。それについて以下の三説がある。
① 和歌に親しむことがキッカケで心が和らぐ
② 西南戦争の勝利によって回復
③ 元田永孚と情誼関係を深めたことによって脱皮

最初の①説は、西南戦争の大勢が決した明治十年七月二十八日、東京に戻る神戸から横浜へ向かう航海の途上で、明治天皇と高崎正風(まさかぜ)との間で交わされた歌論、そのやりとりが転機となったというもの。

天皇は、船上から雲間に聳える富士山を眺め、御製三種を詠み、鉛筆で手冊(しゅさつ)*に記し、それを侍従番長の高崎に見せ、忌憚のない批評を求めた。
高崎は「第二の御製殊に勝(すぐ)れたり」と述べた。その第二首を紹介する。

 あづまにといそぐ船旅の波の上に
      うれしく見ゆるふじの芝山

天皇は前後の二首についても、その評価を質し、高崎は率直に答え、そのような応答から、次第にかつて詠んだ旧作を取り出し、それを高崎が丹念に批評するという歌論のやりとりが続き、天皇は航海中の無聊を慰めることになった。

この航海中の高崎との歌論について、ドナルド・キーンは「これは西南戦争で鬱状態にあった天皇の自分の務めと人生に対して、新たなる関心を示し始めた瞬間であったかもしれない」(明治天皇)と、和歌が引きこもり・鬱から脱皮する機縁ではなかったかと述べている。

明治天皇の人物を知る手かがりは、その御製にあるといわれている。父の孝明天皇から幼少時代に直接に熱心に指導を受け、その生涯に十万首に及ぶ和歌を詠み、和歌を通じ人間形成と天皇学を学んだのであるから、ドナルド・キーンの指摘は頷ける。

二つ目の②説は、伊藤之雄(明治天皇)が述べる「政府軍が有利になるにつれて次第に元気になった」という戦争状態の好転が脱皮のきっかけという見解で、これは明治天皇が西郷隆盛に親密な情を抱いていたということについて、疑問を持つ立場からものである。

三つ目の③説は、侍講の元田永孚が新たに「侍補」に就任したことにより、元田へ天皇の信頼が、一段と深まり、個人的に語り合う機会が増えたことによるもの。

つまり、元田との会話を通じて自らを取り戻していったという説であるが、これについては少し解説を加えたい。

「侍補」制度とは、明治八年(1875)に伊藤博文によって、その名が制定されたと明治天皇紀にある。
「侍補は常に規諫闋失(きかんけつしつ)(過ちをいさめる)を補益するを掌るの官にして、其の名称は参議伊藤博文に由る所なり」と。

明治八年以降任命されたのは十名。一等侍補は吉井友実、土方久元、佐々木高行と宮内卿である徳大寺実則、二等侍補以下は元田永孚、高崎正風などだった。

「侍補」制度制定後、毎夜、天皇の食後二時間、当直の侍補が後宮に入り、皇后とも「窮屈ならず」何事にもよらず討論・対話する習慣がはじまり、侍補たちはこれを「夜話(よばなし)」と呼んだが、この「夜話」を通じ率直な意見交換が行われ、そこから元田へ信頼がさらに深まり、明治十年初頭の状態が改まっていったという見解である。

では、元田の天皇への徳育方針とはどのようなものであったか。これは元田独自の信念にもとづくものであった。と、以下のように飛鳥井雅道が述べている。
「天皇に講義し始めて間もないころ、天皇が『三国志』の英雄たち、特に張飛を好んでいることを知ると、元田はずけずけといった。

『張飛の声大なりと雖も、堯舜(ぎょうしゅん)の声に及ばず。堯舜の勇は万邦も協和す。張飛に勝れること万々』と。

『堯舜』つまり中国古代の君主を元田は求めたのであって、張飛といった英雄豪傑を理想とはしていないのであった。天皇は『大いに笑ふ』と元田は記するが、ある程度の苦笑ではなかったか」(飛鳥井雅道・明治大帝)

青年・天皇と、老人・元田の情誼関係によって、明治天皇の気持ちが整理されていったことは間違いないであろうし、結果として鬱状態から脱皮できたと思う。

しかし、この元田が求めて追及する教育は、明治政府に相容れられず、「侍補」制度は、伊藤博文によって廃されるのである。それを飛鳥井雅道が松浦玲の見解を次のように要約して引用している。

「元田的に儒教の原理をおしつめ、『天子に無限の政治的道徳的努力を要求』し、その結果、『明治天皇個人は元田の教育によって、理想的君主になったとする』。

いいかえれば天皇が堯になったとすると、その位は血統でなく、『舜に、つまり天皇家の血統以外のすぐれた能力をもつ人物に譲らなければならない』論理を『思想的理論的に拒否できない』。

これは明治維新の結果たる『血統』の論理と矛盾してくる。明治政府の論理は『天皇の能力』を問題にせず、『無能であっても国家運営に支障が起こらないように工夫がこらしてある』。

だから血統だけが天皇には問題にされ、元田の論理は政府の論理とずれてくる、と松浦玲は説く。松浦玲は元田が最終的に政府からはずされてゆく根拠をその点にもとめる」

この推論が正しいかどうかは別としても、「侍補」制度は、伊藤博文によって明治十二年(1879)に廃止され、元田は侍講に戻って、つまり、以前の知育教育掛の立場として、死去する明治二十四年(1891)にまでその任にあった。

以上、明治天皇が明治十年初頭に鬱状態となり、十年秋口から回復された要因を明治天皇研究者の見解から三説紹介した。

だが、筆者は、山岡鉄舟研究者として、この三説と異なる見解を持つが、これについては、後年、明治十七年(1884)から十八年(1885)に明治天皇が再び見せた「頻繁に閣議欠席」という状態を検討した後で述べたい。

明治十七年四月下旬以来、天皇は病気を理由に閣議を頻繁に欠席し始めた。宮内卿伊藤博文は深く心を痛め、侍医の診察を受けるよう申し上げたが、医者嫌いの天皇はただの風邪にすぎないといい診察を拒んだ。伊藤が重ねて強く勧めたので、ついにしぶしぶ同意して医師の診察を受けたが、この時点ですでに病状は一カ月以上も続いていたことが明治天皇紀の記述から明らかである。

体調を崩した天皇が、執務室にいたのは朝十時から正午まで、僅か二時間だった。晩年の天皇は、毎日長時間にわたって机に向かうことで知られていたが、この当時は全く別人の如きであった。

また、十八年春の浜離宮観桜会にも欠席、四月に広島、熊本鎮台部隊による大規模演習を視察し、帰りに山口、広島、岡山県を巡幸することにしていたが、演習には参加できず、したがって巡幸も延期されたほどであった。

天皇の楽しみの最たるものは演習であった。それに臨めないという体調不良の理由として、もうひとつ推察できるのは、当時の気候不順もあった。豪雨と暴風が、全国の家屋や穀物に大きな被害を与え、茶の収穫は例年の半分、小麦は通常の六割という酷さだった。
この状況は天保の大飢饉、江戸時代後期の天保四年(1833)に始まり、天保十年(1839)年まで続いた苦しみを思い出させるもので、これに天皇は心を痛めたと思われる。

さらにもうひとつ、宸襟を悩ます問題があった。個人としてはこちらの方が気かがりであった。それはただ一人の皇子である嘉(よし)仁(ひと)親王、後の大正天皇の健康面であった。

親王はこの時、数えで七歳に達して、親王の教育が課題となっていた。この当時親王は曾祖父中山忠能の屋敷で育てられていたので、それまで明治天皇はめったに親王の顔を見ることができなかったが、三月になって宮廷に移り住み、天皇の下で親王の正規教育が始められた。

午前中二時間が読書、習字、修身、数学。午後は体操で隔日の午後に三十分間の唱歌という日課であった。

六月、親王は久しぶりに中山忠能邸の訪問を許され、その夜、宮廷に戻った親王は俄かに発病した。高熱を発し、痙攣の発作に襲われ、回復するまで一カ月程度要した。

恐らく、これは心身症ではないかと推察されるが、幼少時代に過ごした中山邸から、父親であっても明治天皇が存在するという、厳粛な空気が漂う宮廷に帰りたくないという気持ちが生んだ病気であったろう。五人の皇子が誕生されたが、ただ一人のみ成長された嘉仁親王がこのようなひ弱な状態では、次の天皇としてどうなるのか。

これが明治天皇の率直なお気持ちであり、心を痛めていたことは間違いない。
これらいくつかの問題が重なって「閣議欠席、演習未参加、巡幸延期」などの状況を示していたのが明治十七年から十八年であるが、明治天皇の体調回復、気候平準化、加えて嘉仁親王が学習院に通う等の好転によって、明治十九年(1886)には乗馬を前年の二倍以上をこなすほどに回復したが、この両年の不調は割合明確に説明がつく。

しかし、明治十年時に見せた鬱状態からの回復については、あまりその要因について明確に出来ない。したがって既に検討した三つの説になるが、筆者はもう一人肝心要の人物の影響を忘れていると思う。それは勿論、鉄舟である。

そこで、鉄舟の明治天皇に対する影響を検討に入るが、その前に、明治天皇という人物の個性について改めて整理する必要がある。

まずは、司馬遼太郎の明治天皇への見解を、山崎正和が対談した「司馬遼太郎対話選集4 近代化の相克」からひろってみたい。

(山崎) 明治天皇は一生を通して環境が激変するでしょう。十四歳までは女に囲まれたまるで「源氏物語」の世界、それから山岡鉄舟のような人を相手に相撲をさせられたかと思うと、フロックコートを着せられる窮屈な世界。そして自分が人間的感情を寄せた人間同士のあいだに政治的葛藤があって、西郷が殺され、大久保が殺され、その他たくさんの暗殺を見送らなければならないのですが、それでいて人間的感情を失うことはなかった、というのは相当なものですね。

(司馬)明治天皇は日本の王のなかで、一ばんいい筋を持った人ですね。どうも明治天皇というのは役に立たない存在のようにされていたけれども、実は非常に役に立っていたという雰囲気を感じさせるエピソードがあるんですよ。これは柄の悪いピソードで、そういう意味では少々話すのを憚るんですけれども、明治天皇の晩年、宮中で伊藤と山県が話しているところにのちの大正天皇がチマチマと歩いてこられたとき、「次の人がこれだから困るよね」と二人で言いあったというんです。大正天皇の評価というのはわれわれの知っている通りですね。字は非常にお上手だったようだけど、並みの能力に欠けるところがあった。「これだから困る」というのは、明治天皇の持っている背骨みたいなものが明治時代をつくった、ということの逆の証明になるわけですね。伊藤、山県はたしかに明治政府をつくったが、彼らはムードまではつくれなかったでしょうからね。
日本の近代化が成功し、世界の一翼を担う国の基礎固めをした明治時代、そのバックボーンに明治天皇が存在されていたことは事実であり、司馬遼太郎の見解通りである。

 もう一人、ドナルド・キーンの「明治天皇」からひろってみる。
「明治天皇が抜群の記憶力の持主であったという事実は動かない。天皇は明らかに、いわゆる知識人ではなかった。天皇を知る者たちの思い出話からは、むしろ次の論語の一節が思い起こされる。「剛毅木訥(ぼくとつ)仁に近し」。意志が強く、容易に屈することなく、無欲で、飾りけのないこと、これ即ち、孔子の理想である仁に近い、というのである」

司馬遼太郎のいう「背骨」を持ち、ドナルド・キーンがいう孔子の人物像に近似した人物として、誰を想起されるだろうか。それは、明らかに鉄舟である。鉄舟は悟りの境地へ辿りつくため厳しい修行を自らに課し、大悟した後も、その生涯を修行者として生き抜いた姿は「正に背骨を持ち」「剛毅朴訥仁に近し」そのものであった。明治天皇のイメージ像と、鉄舟の生き様は重なり合う。多分、天皇は鉄舟の背中から多くの学びを得て、それを見につけていかれたのだと思う。そのことを見抜いた江藤淳が「山岡鉄舟は明治天皇の扶育係」(勝海舟全集11巻 講談社)と意義づけしている。

江藤淳は勝海舟評論の「海舟余波」という名著もあり、幕末から明治にかけての史実に大変詳しい文筆家である。その江藤が鉄舟を明治天皇の侍従とは表現せずに扶育係と述べた。「扶育」という意味は「世話をして育てること」(広辞苑)であるので、それをそのまま適用し理解すると、鉄舟が明治天皇を育成したことになる。

だが、優れた人物とは、手取り足取り念入りに教育されて育てられるのではない。そのような意味での扶育ではなく、他者の姿から自らの気づきを探り、自らに組み入れていく過程をもつ人物が優れた人である。

明治天皇が東京に戻って、以前の宮廷生活に戻ってみると、そこにはいつも変らぬ生活スタイルがあり、侍従としての鉄舟が身近に仕えている姿を当然ながら見た。

人は皆、ある時期、旅をすることで、家元を離れ、多くの見聞を広げ、それを持ちつつ本来の生活環境に戻っていくが、その時何を感じるであろうか。

多分、戻った環境を改めて見直すことで、今までの生活の場が変わっていないことに気づくとともに、改めて変化がないことに新鮮な味わいを持つのではないか。

旅先での変化に富む行動スタイルから、落ち着きのある自らの拠点に戻って、以前と同じ環境下におさまった自分を見つめ直し、ここが自分の本来の居所であると確認するという意味である。このような体験を我々は旅から帰った時に感じる。

明治天皇も同じである。皇居に戻り、身近にいつも位置する鉄舟を改めて見つめ、その鉄舟が修行の毎日を過ごしている姿、そこに何かを感じたはず。

この時期、鉄舟はどのような修行をしていたのか。侍従になる九年前の文久三年(1863)浅利又七郎義明と立ち合い、見事な完敗を喫し、その後もどうしても浅利に勝てなく、この壁を超えるには「心の修行しかない」と禅修行に没入邁進していた時であった。

その禅修行は、静岡県の三島龍択寺への参禅であった。当時、宮内省は一と六がつく日が休みだった。そこで十と五の日に夕食をすますと、握り飯を腰に下げて、草鞋(わらじ)がけで歩いて行った。この参禅は三年続いた。(「おれの師匠」小倉鉄樹)

この話を普通の人は嘘だと思うだろう。東京から三島まで三十余里(約120㎞)、途中に箱根越えがある。龍択寺で参禅が終わると、休息する間もなく、また、東京へ引き返す。こんなに歩けるわけがないと、一般の人々は思うだろうが、鉄舟は実際に歩いた。

剣で浅利又七郎に勝つため、普通人では不可能な厳しい心の修行を行いながら、明治天皇の傍近くに仕えていたのである。天皇の回りにいた多くの人物とは全く異なっていた。 その姿に天皇が影響されないはずがない。

では、その影響とはどのような形で顕れたのだろうか。

ここで登場するのが「御真影」である。入手可能な明治天皇の御真影は三枚ある。
① 明治五年(1872)二十歳時の「束帯」姿の写真
② 明治六年(1873)二十一歳時の「洋風」姿の写真
③ 明治二十一(1888)三十六歳時の民衆が礼拝した「御真影」としての肖像画

この三枚を比較することで、明治天皇の英邁君主であられた実態と、鉄舟がそこへの影響を分析するが、その考えるヒントは「小鳥遊(たかなし)」である。

小鳥が遊ぶと書いて「たかなし」と読む。寛政年間(1789‐1801)に江戸幕府が編修した系譜集「寛政重修家譜」にも掲載されている由来苗字である。次号でお伝えしたい。

明治天皇侍従としての鉄舟・・・其の十一

先日、読者から「明治天皇すり替え説」真否について質問を受けた。質問者はいたって真面目な人物で、真顔で尋ねてきた。

このようなすり替え説が、昔から巷間にあることは知っている。その説を簡単に述べると「孝明天皇の皇子である睦仁親王は暗殺され、南朝・後醍醐天皇第十一番目の皇子満良親王の王孫・大室寅之祐を、毛利家の先祖である大江氏が代々長州の萩において守護してきて、明治天皇としてすり替え即位させた」というもの。

このようなすり替え説が出る背景には、孝明天皇と中山慶子の間に生まれた睦仁親王が、幼少より虚弱体質で、女官たちに囲まれて育ち、神経がこまやかで気が弱く、とても明治新体制で政治力を期待できる人物としては育っていなかったので、あのような立派に明治大帝として存在したはずがないという、明治天皇の素質からの疑問である。

確かに、明治天皇の死後、天皇を知る宮中に関係した人達によって書かれた追想録を見ると、相矛盾するものが多い。

ある人の回想によれば「明治天皇は幼少時代、きわめて健康で活発な少年であり、いじめっこの風貌さえあり、相撲も一番強かった」という。

ところが別の人物の回想によれば「幼少時代の天皇が虚弱で病気がちの少年であった」と述べている。さらに、蛤御門の変で初めて大砲の音を聞いて気を失ったという話が語られている。

そこで、既に述べたが(2011年2月)睦仁親王と一緒に育った乳母の子である木村禎之祐の記述を再度紹介したい。(「明治天皇の御幼児」太陽臨時増刊 大正元年刊)
「聖上には御勝気に在(ましま)す丈(だ)けいと性急に在(おわ)され、少しく御気に叶はぬことの出来れば、直ちに小さき御拳を固められ、誰にでも打ち給ふが例にて、自分など此御拳を幾何(いくら)頂きたるか数知れず。何分自分は一歳年下のこと故、恐れ多しといふ観念は更になき上に、固(もと)より考への足らぬ勝ちなるより、常(つねづね)に御気に逆らい奉りたること少なからず、其度(そのたび)毎(ごと)にぽかんぽかんと打たせ給ひたり。」

この木村禎之祐の記述は、明治天皇の親しい遊び相手として仕えた人物であり、自分がげんこつで何度も殴られたという回想であって、このような回想が嘘とは思えず、さらに、明治天皇は父の孝明天皇に似て長身であったことからも、体格には恵まれていたと推察できるので、幼少時代はきわめて健康で活発な少年であるというのが妥当な理解と判断している。

だが、いくら活発であったといえ、女官に囲まれ育ったので、西郷隆盛によって「武士的変化」をするようになったとしても、本来の素質は変わらないので、後年、軍服を着てけいけいたる眼光の君主にはなれない。という指摘もそれなりに説得性があると思っていたところ、飯沢匡による以下の見解に出合ったので紹介したい。

「明治天皇には男性的世界への強い憧れがあったのではないか。いうなら幼児期の女官に取り囲まれていた公家風な宮廷生活を否定したくて公家ではない武士の空気が好ましかったのであろう。だから側近には武士出身の人々で固めていた」「明治天皇が西郷隆盛を愛したということであるが、彼が一番武士らしく男性的で、しかも英語などペラペラ操る人間でなかったことが気に入った理由かもしれない」(異史 明治天皇伝)

歴史的考察とは「姿、かたち」を切り取った経過の断面にすぎない、という表現があるように、人によって歴史を異なる視点で見ていく場合が多い。したがって、個々人それぞれ違う見解を持つことになりやすい。

だが、なるべく裏からでなく、表舞台の事実から歴史を検討し考察することの方が、我々の生き方に参考になり、今後に活用できるのではないか。

明治天皇すり替え説は話としては面白いが、そこから歴史的考察を続けていくと、現在は擬制体制となって、現実が有名無実になってしまうだろう。

さて、ここで西郷隆盛ならびに西郷支持派の参議(江藤、後藤、板垣、副島)が辞任した明治六年(1873)政変以後、明治十年(1877)までの日本国内状況を簡単に整理してみたい。

明治六年はそれまで使われていた太陰暦が廃止され、一月に太陽暦が最初に施行された。「明治五年(1872)十二月三日を以って、明治六年一月一日とする」と、明治五年十一月九日に改暦詔書を出し、時刻法も従来の一日十二辰刻制から、一日24時間の定刻制にすることを布告した。布告から施行までわずか二十三日というスピード実施であり、しかも十二月(師走)がわずか二日で終わった。当時の人々のあわてようは想像に難くない。

このような荒技・劇的変化もふくめ、親政府は矢継ぎ早に欧米にならった近代化を推し進めた。廃藩置県・地租改正・断髪令・徴兵令。さらに、神仏分離政策により、路傍の神仏を撤去し、時には合祀したり、神号を変更したりと、それまで民衆の慣れ親しんだ世界が上からの改革で、有無を言わさず変更されていった。

民衆の多くが、これからの生活に不安を覚え、政府に不信感を抱いたとしても無理はなく、発生したのは新政府反対一揆である。

特に、西日本一帯で数年に渡って続いた明治六年の筑前竹槍一揆の参加者は、十万とも三十万ともいわれ福岡県庁すら一時占拠されるほどで、一揆は、政府の進めた文明開化政策のありとあらゆる出来事を、廃止の対象とした。 

その頂点は九年の三重県伊勢暴動と、茨城県真壁騒動で、地租改正反対一揆の代表とされ、結果として明治十年新年の四日、民衆負担軽減のため、地租を地価百分の三から、百分の二分五厘にすると天皇によって発表された。いわゆる当時「竹槍でドンと突き出す二分五厘」とうたわれたものである。

政府の歳入減少は、行政の経費削減という結果になり、天皇は各省庁に歳出費用の節減を命じた。

このことを木戸孝允は次のように日記で記録している。
「平常より願い上げてきたことなので、実に有り難いことである。この上は、叡旨貫徹されて人民に幸福がもたらされるよう、ひたすら願うばかりである」(木戸孝允日記)
この木戸は五月二十二日、長患いの上死去した。木戸の死は明治天皇にとって大きな衝撃だった。西郷が鹿児島に去り、維新三傑は大久保利通一人が政府にいるだけになったからである。

このように各地での一揆と、士族反乱がより深刻な局面を示していたのが、明治十年の西南戦争までの日本国内状況であった。

この状況の中で、明治十年に入った二十六歳の天皇は、突如として「ひきこもり」とも「ウツ」とも見られる症状を示し出し始めた。その状況を明治十年新年から探っていく。

一月四日、地価軽減発表と同じ日の明治天皇紀に「乗馬あらせられる」と記載がある。通常であれば、取り立てて触れるほどのこともない乗馬は日課の一つである。しかし、天皇はこの日から取り憑かれたように馬に乗り始めた。ほとんど連日、午後二時から日没まで励み、この月の後半から京都への行幸中もこの日課は変えなかった。

京都では七月一日の華氏九十四度という暑さ、明治時代の気温計測は現在と同じく摂氏目盛りだったが、市販の温度計は輸入品が多いため、華氏目盛りが昭和初年まで広く使われていたため、当時の猛暑の目安は華氏九十度(摂氏32・2度に相当)とされていたが、この暑さの中でも馬場へ出られた。

その後、天皇は脚気を患った。そのため一時的に乗馬を諦めたが、侍医の許可がおりた十月後半、乗馬は再開された。

何故に乗馬について触れてきたか。それは天皇の日課が今までと異なる状況になってきたタイミングと、乗馬の熱心さとが合致しているからである。

その第一は、この時期、閣僚と会うのを努めて避けるようになったことである。

その第二は、この時期、予定された学問の日課を避けるようになったことである。

明治十年の明治天皇学問ご進講予定は「続日本紀」(福羽美静)、「英国史法律」(西村茂樹)、「大学」(元田永孚)、「古今和歌集序」(近藤芳樹)、「万葉集」(渡忠秋)であったが、一月二十四日から十月二十二日まで中断された。(明治天皇紀)

一月二十四日、大和国及び京都行幸へ出発した。行幸の公式目的は神武天皇畝傍(うねび)山東北陵の参拝、また、孝明天皇十年式年蔡による後月(のちのつきの)輪(わの)東山稜(ひがしのみささぎ)の参拝にあり、京都、奈良にある歴代天皇の御陵参拝も予定し、海路をとり、一月二十八日に神戸港に到着し、京都の御所に入られた。

一月二十九日、天皇が京都に入った翌日、鹿児島では私学校徒が陸軍火薬庫を襲って弾薬を略奪し、西南戦争の口火が切られたのである。

私学校徒とは、明治新政府が推進している教育制度の支配下にない、西郷隆盛が設立した鹿児島独自の「私学校」の生徒であるが、鹿児島に不穏な動きありとの情報に不安を覚えた陸軍省が、火薬庫の弾薬を大阪に移そうとし、これを事前に知った私学校徒が、先手を打って俄かに蜂起したのである。

これらの鹿児島での動きについて、陸軍卿山県有朋は、もし鹿児島で謀反・暴動が発生すれば、これに同調する旧藩として二十一藩の名を挙げるほど脅威に感じていた。

その旧藩とは、肥前、肥後、久留米、柳川、阿波、土佐、因幡、備前、備中、備後、彦根、桑名、静岡、松代、大垣、高田、金沢、酒田、津軽、会津、米沢である。

この脅威の状況について、明治天皇は報告を受けていたが、東京に帰る気配は示さず、そのための陣頭指揮をとる様子も示さなかった。

その代わりに、京都で学校訪問、勧業場、舎(せい)密局(みきょく)(化学技術の研究・教育、および勧業のために作られた官営・公営機関)など様々な工場や、加えて牧場まで視察し始めた。

このような行動をとっている明治天皇の心境、それをどのように推測すべきか。
鹿児島では今まで最も信頼していた西郷が謀反を起こしかけている。だが、その事実を知りつつ、謀反への対策を指示せず、ひたすら巡幸の日程をこなしている。

そのような心境を窺わせる資料は見つからないが、ドナルド・キーン(明治天皇)は次のように見解を述べている。
「伝記作者たるもの、天皇の生涯の内で何としてでも心の内を覗きたい思いに駆られる時期が幾つかあって、例えば今がその一つである。全国の県の中でも特に一目置いている鹿児島が、今まさに国家の統制を乱し、離脱しようとしている。他県までが、これに同調して反乱を起こす気配を見せている。このことを知った時、天皇はいったいどんな気持ちだったか。西郷隆盛は、天皇自身がとりわけ贔屓にしている維新の英雄である。その西郷が率いる鹿児島軍と政府軍が一戦交える恐れが出てきた。この可能性を知った時、天皇はどんな反応を示したか。思えば明治天皇が脇目もふらず巡幸の日程をこなすことに専心していたのは、これらの雑念を頭から振り払うための苦肉の策であったかもしれない。残りの京都滞在を通じて天皇が見せた無気力な態度もまた、同じ理由から出たことだったかもしれない」

二月十四日、西郷の命令で鹿児島軍が熊本進軍を開始した。西郷軍が熊本の県境を越えたという急報が届いた後もなお、天皇は京都で巡幸を続けていた。

二月二十一日、西南戦争として実際の火蓋が切られた。熊本に攻め入れようとした西郷軍に対して、城兵が砲撃を加え開戦となった。

ここで乃木大将の話に触れたい。鉄舟がいかに明治天皇に影響を及ぼしたのかについて、①西郷政権⇒②維新三傑の亀裂⇒③天皇の鬱⇒④御真影の分析⇒⑤西郷、鉄舟、乃木の精神的役割という順序で展開していきたいと、既に2,012年9月号にてお伝えした。

今号は③天皇の鬱について考察しているが、最後の項目⑤西郷、鉄舟、乃木の精神的役割につなげるためにも、ここで乃木希典が連隊旗を失った戦いに触れなければならない。
熊本城攻防戦二日目の二月二十二日、「月色煌々として昼の如し」と記録にある夜、連隊長心得陸軍少佐乃木希典率いる小倉十四連隊と西郷軍が激突した。

西郷軍の攻勢に政府軍は支えきれず、退却したが、その熾烈を極めた戦いで、政府軍の騎手が戦死し、連隊旗を失った。乃木は驚愕し、死を決心して戦場に戻り、連隊旗を取り戻そうとした。しかし、部下に諌められお思い止まった。

政府軍総督有栖川宮熾仁親王は、状況からして止むを得ないと、これを不問とした。だが、乃木はこの事件を忘れずに、三十五年後、連隊旗を失った償いとして自決したのだが、明治天皇にその武士的精神をもって仕え、後年、学習院院長となり昭和天皇の教育を任せられたのである。

三月四日、木戸から西南戦争が政府軍有利に傾きつつあると報告を受け、天皇は安堵しつつ西郷の心中に思いやった。

木戸はその天皇の気持ちを知り、深く感涙し、さらに「隆盛は決して足利尊氏の如き姦悪にあらず、惜しいかな、識乏しくして時勢を知らず、一朝の怒を洩らすに己れの長ずる所を以てして、身を亡し又国を害するに至れるなり、隆盛の所業固より悪むべし、然れども政府亦反省せざるべからず」と述べたという。

その西郷であるが、明治天皇に不満を抱いていたとか、共和政が君主制にとって代わればよいと思っていたという形跡は全くない。天皇親政が、仮にそれが専制であったとしても理想の国家形態と考えていたと思われ、西郷の下で戦った鹿児島士族たちも同じだった。西郷軍の最終目的は、天皇の周辺から腐敗した官吏を除去することによって、天皇が奸臣の悪影響に乱されることなく国を統治できるようにすることだった。

戦争が始まって以来、天皇は戦争以外のことは何も考えることが出来なかったように見える。拝謁者引見の時を除いて、めったに御学問所にも出御しなかった。三条実美が報告する戦争の経緯に、毎朝耳を傾けるだけだった。

したがって、日常は日夜女官に囲まれて生活することになった。大臣、参議でさえ九等出仕女官を通さないと天皇の御前に出られない状況が続いた。

三月二一日、三条、木戸は再三にわたって諫奏し、御学問所出御を奉請し、ようやく隔日に御学問所に出御するようになり、侍講元田の講述を受けたが、実態は「午前に止まり、午後は内廷に在らせられ、自ら御閑暇あり」(明治天皇紀)というものだった。
三月二十五日、木戸のたっての進言で京都市内を騎馬で巡幸した。

三月三十一日、大阪鎮台に行幸し、士官収容の病院を慰問した。

四月十二日、熊本城の包囲が解け、西郷軍は敗走したが、天皇の状況は変わらずであった。

五月、侍講元田を東京へ帰らせた。天皇は明らかに学問を疎んじたのである。

五月二十六日、既に述べたように木戸孝允が死去した。

七月二十八日、天皇は京都を発ち東京に戻った。それまでに天皇が東京に戻ることは何度も延期されていた。熊本、鹿児島で戦っている政府軍の士気が衰えることを恐れたからである。しかし、戦争の大勢が決した今、政府の機能が東京と京都に二分されていることは不便であり戻ったのである。だが、東京でも明治天皇は政務に不熱心なことは変わりなかった。

九月二十四日、西郷は最後の拠点である城山で、別府晋介を顧みて「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」と言い、将士が跪いて見守る中、襟を正し、跪座し遙かに東に向かって拝礼した。遙拝が終わり、別府は「ごめんなったもんし(御免なっ給もんし=お許しください)」と叫んで西郷の首を刎ねた。西南戦争が終わった。

九月二十五日、西郷の死の翌日、天皇は皇后に「西郷隆盛」という勅題を与え、皇后は次の歌を詠んだ。

「薩摩潟しづみし波の浅からぬ はじめ違ひ末のあはれさ」

歌といえば明治天皇が日露開戦にあたって詠んだとされ、昭和天皇が日米開戦にあたり、御前会議では発言しないことが通例となっていたが、敢えて詠みあげたという有名な御製がある。

「よもの海みなはらからと思ふ世に なと波風の立ちさわぐらん」
(四方の海にある国々は皆兄弟姉妹と思う世に なぜ波風が騒ぎ立てるのであろう)

実は、この歌は日露戦争ではなく、明治十年西南戦争時の作であるとし、明治天皇は明確な西郷贔屓であったという根拠で主張する説がある。

その主張の背景は、明治天皇は必ずしも現政権の政治を全面的に賛同していたわけでなく、もともと鹿児島に去った西郷に絶大な信頼を置いていて、その西郷が謀反を起こしたのは、天皇に対するものでなく、薩長政権の「長」に対して西郷が抵抗しているのだと解き、皆はらから、つまり、みんな仲良くすればよいのだという歌を詠んだというのである。

したがって、西郷の起こした西南戦争の要因に対して疑問を持っていたからこそ、政務に熱心に取り組まなかった、いわばサボタージュであって、それがひきこもり状態、ウツ状態としての態度になっていたのだという。

しかし、そうではないという見解も当然にある。明治天皇がウツ状態になったのは、自ら征韓論政変を調停できずに西南戦争が起きてしまったので、日本の行く末への不安に加え、自分の無力さを感じたからだというもの。

この推定を裏づけるものは、政府軍が有利になるにつれて、次第に元気になったということを挙げている。(明治天皇 伊藤之雄)

いずれにしても、西南戦争は明治天皇にとって、その生涯における精神的な鍛練期間として貴重な事件であった。この間、鉄舟は東京においてひたすら侍従としての任務と、自らの人間完成に向けて厳しい修行の毎日を続けていた。

七月、東京に戻った明治天皇は、ひたすら修行している鉄舟を見て、何を感じたのであろうか。

明治天皇が深化して「明治大帝」と称されるまでの分析を次号でも展開したい。

明治天皇の侍従としての鉄舟・・・其の十

明治天皇の侍従としての鉄舟・・・其の十

明治五年(1872)三月、明治に入って東京で最初の大火が、今の東京駅近くの和田倉門内にあった旧会津藩邸から出火し、神田から京橋あたりまでの五千数百戸を焼き尽くした。
この大火事によって、焦土化した丸の内から銀座一帯を首都の正面玄関とすべく、火事に強い煉瓦づくり工事を行い、当時の日本には見られない「銀座の煉瓦地」となった。
さらに大火は続いた。翌明治六年(1873)五月五日未明、今度は皇居から出火した。

明治天皇記に「皇居炎上す。昨朝来北風列し、午前一時二十分紅葉山女官房失火あり」とあるように、燃えさしが完全に消えたことを確認しなかった女官の不注意で、皇居内の物置から出火し、燃え広がったのである。

「皇居が火事だ」という連絡で飛び起きた鉄舟は、腰に一本刀をぶち込み、人力車を韋駄天のごとく走らせ、火消しで右往左往している皇居内をくぐりぬけ、目指したのは明治天皇の御寝所。だが、御寝所の戸が開かない。鍵かかっている。

鉄舟は鍛え抜いた巨体をもって猛烈な体当たりを扉に二度三度、ようやく扉を破り、御寝所に飛び込んだ。

「山岡か! 待っていたぞ」。御寝所から明治天皇を安全な場所に案内し、事なきを得たが、皇居一円が灰燼に帰した。剣璽などの三種の神器は無事であったが、太政官、宮内省の重要公文書類の多くは灰と化した。

仮皇居が元紀州藩邸の赤坂離宮と定められ、以後、明治二十二年(1889)の新皇居完成まで十数年をここで過ごすことになった。

 侍従鉄舟の働きについて「明治天皇 木村毅」に次の記述がある。
「このあとで、天皇は、山岡の愛読する『大日本史』をとりよせて、それが乙夜の覧(天子の読書)に入っている。本箱のふたに、そのいわれを墨書したこの稀書は、いま私の所有に帰して、書斎の一角をかざっている」

 明治天皇がいかに鉄舟を信頼していたかという、ひとつの証明ともなる記述であろう。

 鉄舟が静岡から東京に移り、侍従になった頃の住まいは、柏木淀橋中ノ村字天狗山六十五番地であった。今は中野区中央一丁目17-3に鉄舟ゆかりの高歩院、これは山岡鉄太郎高歩(たかゆき)*の高歩から名付けられ、現在、鉄舟会禅道場となっているあたり一帯の地であって、当時は天狗山といわれたほどの狐狸の棲む森林地帯、面積は六万平方メートル以上もある広大なものだった。

 火事を契機として、この住まいではいざという時に皇居から遠すぎると、真剣に引っ越しを考え、物件を探したところが、四谷の紀州家家老の屋敷。現在の学習院初等科があるあたりで、敷地も広く、仮御所の前に面しているので移転した。
 

さて、岩倉使節団が出発した後は、「西郷政権」というべき政治が行われ、西郷が持つ「武人的個性」によって影響された明治天皇は、質実剛健で実質的な能力によって威信と信頼を高めていったことは前号でふれた。

さらに、西郷の推輓(すいばん)で侍従となった鉄舟についても、剣・禅修行で鍛え抜いた「本物の武士」という姿が皇居火事において顕現化し、西郷ともども強い信頼を天皇から受けることになった。

 ここで西郷政権に対する評価について、福沢諭吉の「明治十年丁(てい)丑(ちゅう)公論」からみてみたい。というのも、西郷の業績に対する分析評価は数え切れないほど多くの識者が行っているが、その多くは西郷死後数十年を経た後に述べているものが多く、当時に生存していた人物によるものは少ない。

「明治十年丁丑公論」は明治三十四年(1901)に時事新報に掲載されたものであるが、西南戦争直後に脱稿したもので、福沢が当時の政情を分析し述べたものである。

 一般的に、後世の歴史家によって、過去の事実が語られ歴史がつくられていくが、事実が生じた同時代に生きた識者によって語られた文献も、当時の生々しい動きと実態を的確に示しており、それらを併せてみていくことは歴史の読み方として重要であろう。

 「明治十年丁丑公論」を書いた福沢諭吉の立場は、西南戦争について西郷擁護に立って述べたものである。まず、

「(西南戦争によって)第一政府の主人たる天皇陛下の身に一豪の災厄ある可らざるは固より論を待たず」と前提を述べ、続いて
「当初西郷が自ら今の政府の顕官と共に謀て定めたる政体なれば、僅に数年の間に自ら作りたるものを自ら破るの理ある可らず」と西郷の立場を分析している。
「西郷隆盛が兵器を携て熊本県下に乱入したるは、其の乱入の日に乱を為したるにあらず、乱を為すの原因は遥に前日に在て存せり。明治七(六)年内閣の大臣に外征を主張する者と内政を急務とする者と二派に分れ、西郷は外征論の魁(さきがけ)*にして其見込みを屈せず、遂に桐野以下附属の兵卒数百名を率ゐて故郷に帰りたり」
「内閣に残る諸大臣は之を制止せずして黙許に附したることなれば、其景況は恰も陸軍大将が兵隊を指揮して鹿児島に行くと云ふも可なり」
「其証拠には西郷が帰郷の後も政府は之に大将の月給を与えたり。之を公の俸禄とす」
「明治七年内閣の分裂以来、政府の権は益々堅固を致し、政権の集合は無論、府県の治法、些末の事に至るまでも一切これを官の手に握て私に許すものなし。人民は唯官令を聞くに忙はしくして之を報ずるに遑(いとま)あらず」と大久保利通の有司専制を批判し、
「猶維新の際に榎本の輩を放免して今日に害なく却て益する所大なるが如し。然るに維新後、佐賀の乱の時は断じて江藤を殺して之を疑わず、加之この犯罪の巨魁を捕へて更に公然たる裁判もなく其場所に於て刑に処したるは之を刑と云ふ可らず。其の実は戦場に打取たるもの如し」と述べ、最後に結論を下している。

「西郷は天下の人物なり。日本狭しと雖も、国法厳なりと雖も、豈(あに)一人を容るゝに余地なからんや。日本は一日の日本に非ず。国法は万代の国法に非ず。他日この人物を用ゐるの時ある可きなり。是亦惜む可し」(福沢諭吉集 近代日本思想体系2 筑摩書房)

このように福沢諭吉が「西郷政権」の業績を認めた内容となっているが、書き方は当時の少々難しい文体となっている。

そこで「敬天愛人 西郷隆盛 海音寺潮五郎著」が以下のようにまとめているので紹介したい。

「『丁丑公論』という著述の中に、『西郷が留守政府をあずかった二年間は国民は悦服(よろこんで心から服従する)して不平がましいこともなく、知識人らは言論の自由を享受して、自由闊達な議論を発表して、最も楽しい期間であった』」といっています。この点では、西郷は立派に留守をあずかったのです」
 福沢諭吉の西郷政権評価を、海音寺潮五郎は妥当と判断しているのである。

②維新三傑の亀裂

明治天皇が「明治大帝」と尊称されるまでになられた過程で、どのように鉄舟が関与していたかについて、①西郷政権 ②維新三傑の亀裂 ③天皇の鬱 ④御真影の分析、西郷、鉄舟、乃木の精神的役割いう順序で展開していくが、その②維新三傑の亀裂に入りたい。 
巷間、維新三傑の亀裂は明治六年の「征韓論争」からであるといわれているが、果たしてどうなのか。論争に至るには、その背景に「人の考え方」が存在し、その考え方の基盤には、その人物が経験したことが重要なファクターとして影響し存在しているはず。

明治四年(1871)十一月十二日に出発した、岩倉具視全権大使と大久保利通・木戸孝允の岩倉使節団一行は、訪れた欧米諸国の体制と現実を見て、これからの日本という国の行く末と体制について、それぞれ深い考えをめぐらした。

しかし、それへの考え方は、見聞きした事実がひとつであっても、人はそれぞれの過去経験の集積化によって培われたものによって、今後の方向性を違ったものにする。

これに関して「小国大輝論 上田篤著」が以下のように述べているので紹介したい。

「岩倉使節団が欧米各国を視察したとき、一行が、はじめアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、オーストリアそれにイタリアといった七か国の大国のどれかを日本の将来モデルの候補としてかんがえていたかはうたがわしい。

というのも使節団は、それら大国のほかにベルギー、オランダ、ザクセン、スイス、デンマークそれとスウェーデンといった小国六か国をも訪問しているからだ。むしろ使節団はこれら小国に大きな関心をよせ、かつ、期待感をにじませていた。それも、日本の国土の小ささや資源の少なさをかんがえれば、とうぜんのことだったろう。

ところが、使節団が日本を出発する前年に普仏戦争がおき、そのけっか小国プロイセンは大国フランスに勝利した。そして使節団がヨーロッパに到着したときには、プロイセンを中心とするドイツ帝国がうまれていたのである。

そうして一行はドイツ帝国で『鉄血宰相』の異名をとるオットー・ビスマルク(1815~98)の演説に魅せられた。『小国が生きていくためには国際法などおよそ役に立たない。鉄と血によるしかない』

じっさい1701年に生まれた若い小国のプロイセンは、そのごナポレオンに敗れて屈辱的条約をむすばされたが、近代官僚が登場して国の近代化をおしすすめ、ロシアと組んでとうとうナポレオンをやっつけてしまった。さらに普墺戦争でオーストラリアを、普仏戦争ではフランスを破ってヨーロッパの大国になったのである。ビスマルクに象徴される「武闘路線」の勝利である。

このようにナポレオンにおさえられていたがそれを跳ねかえした、というプロイセンの歩みは、片務的な『日米修好通商条約』を飲まされて苦々しいおもいで開国した日本人にものすごい共感をもってうけいれられた。

すると日本もまた『日米修好通商条約』をうちやぶるためには武闘路線をもって大国になるしかない。

こうして使節団一行は、ドイツにおいて『小国だったプロイセンが大国ドイツになった』というなまなましい現実をみせつけられたことが大きかった。

ここに道徳どころか国際法までも無視するビスマルクの演説に共鳴して、大久保利通の『大国志向』がうまれていった、とおもわれる」

「日米修好通商条約を打破するための手段としての『富国強兵』が、こうして日本の国是になっていったのである」

つまり、大久保利通は過去経験から内在していた「考え方」を基盤に、富国強兵路線を日本の国是にしようとしたのである。

だが、維新の三傑のもう一人、木戸孝允は違った見解を持っていた。それを「小国大輝論」から見てみよう。

「岩倉使節団が欧米をまわったとき『日本のモデルをどの国にするか』という感想は、各人によってみなちがったようだ。

スイスにはいったときのことである。
一行はそこで、レフ・イリイッチ・メーチニコフに会った。イタリア統一運動をすすめるジュゼッペ・ガリバルディの参謀もつとめたという国際的革命児である。
そのかれは、岩倉使節団の全権大使の岩倉具視についてこう書いている。

 ピョートル大帝の大の崇拝者であったかれは、このロシアの改革者の肖像画の一大コレクションを今回の旅行でもちかえっている。

そして副使の大久保利通についてはこうだ。

 フランスの中央集権制にほれこんだ大久保は、パリで得々としてセーヌ県の複雑な機構とナポレオン法典の研究にいそしんできた。

おなじく副使の木戸孝允については、

 日本議会の招集を夢み、ほどなくすばらしい炯眼をもってこう洞察した。すなわち長期にわたる共同体制をそなえたスイスこそ、領土の狭さにもかかわらず、多様な地域的、歴史的特性をもった日本のような国の為政者にとって格好の政治的教訓になる。
                 (以上、メーチニコフ『回想の明治維新』)

なんと『維新の元勲』の一人木戸はスイスに注目していたのだ。

ともあれヨーロッパで、日本の正使と二人の副使がみた『理想の国』は、このようにロシア、ドイツ、スイスとまるで異なっていた。一つの使節団とはいうものの、幹部たちの政治思想はかくもちがい、この欧米視察はいわば『同床異夢』の旅だったのだ」

このように木戸と大久保とは大きく異なる見解であり、この当時から大久保と木戸の対立があり、二人は口もきかないようになっていたといわれているが、結局、有司専制といわれた大久保への権力集中によって富国強兵路線に向かったわけである。

いずれにしても、岩倉使節団はそれぞれ「考え方の違い」をもって、長い欧米視察を終え戻ったのであるが、その日本ではいわゆる「征韓論」が巻き起こっていた。

この「征韓論」(朝鮮への西郷大使派遣問題)について、その経緯を述べ出すと、鉄舟というテーマから大きく外れるのでふれないが、これが維新後はじめて本格的な政府分裂につながった問題であった。

明治六年、岩倉、大久保、木戸が帰国し、留守政府だった西郷政権が決定済みだった「西郷大使を朝鮮に派遣する」問題は、最終的に明治天皇が裁断を下した。

明治六年十月二十四日、明治天皇は岩倉の意見に賛成し、次の宸翰の勅書を下した。

「今汝具視ガ奉状之ヲ嘉納ス。汝宜ク朕ガ意ヲ奉承セヨ(汝岩倉具視の進言を喜んで受け入れることにした。汝は朕の意とするところを慎んで受けよ)」

この天皇の一言で征韓論は消え、西郷ならびに西郷支持派の参議(江藤、後藤、板垣、副島)は、全員病気を理由に辞任した。天皇は結果として大いに心を痛めることになったが、朝鮮との戦争は避けられたのである。

この明治六年は、五月の皇居の火事、十月の征韓論と大問題が明治天皇に被さってきたが、そこに皇子、皇女の相次ぐ死去が続いた。

九月に権典侍・葉室光子から第一皇子が、十一月に権典侍・橋本夏子から第一皇女がそれぞれ生まれたが、二人とも即日死亡した。橋本夏子も翌日死亡し、天皇の子供が育たない悪しき前例がはじまった。

柳原愛子から内親王が八年に生まれたが、翌年に「脳疾」によって亡くなった。第二皇子がやはり柳原愛子から十年に生まれたが、この皇子も「脳水腫」によって十一年に死亡した。

信頼のあつかった西郷が去り、子供を次々と失う若き明治天皇、酒に走りがちの日常ではあったが、その酒の相手として鉄舟が常連であった。

「天皇の酒の強さについては、近臣たちの数々の思い出話が残っている。例えば、侍従高島鞆之助は次のように語っている。『御酒量も強く、時々御気に入りの侍臣等を集めて御酒宴を開かせられしが、自分は酒量甚だ浅く畏れ多き事ながら何時も逃げ隠れる様にして居た。所が彼の山岡鉄舟や中山大納言(忠能)の如きは却々の酒豪で、斗酒猶辞せずと云ふ豪傑であったから聖上には何時も酒宴を開かせ給ふ毎に、此等の面々を御召し寄せになっては、御機嫌殊に麗はしく、勇壮な御物語を御肴として玉杯の数を重ねさせ給ふを此上なき御楽しみとせられた。而も聖上の当時用ゐさせ給ひし玉盃は普通の小さいのではなくて下々の水飲茶碗を見るが如き大きなる玉盃に、並みゝと受けさせられては満を引かせ給ふが常であった』」(明治天皇 ロナルド・キーン著」

鉄舟も酒量は並でなく、晩年は胃を悪くして酒量を制限したが、それでも晩酌は一升ずつであったくらいであるから、明治天皇が酒宴を開くときの格好の相手であり、明治天皇が子供を立てつづけに失い、信頼する西郷が政府を去るという、苦しい中にあって楽しいひと時であったことが容易に推察できる。

さらに、明治天皇が京都の朝廷育ちであるから、世情、民情、下情、つまり世相に対しても詳しくないが、鉄舟は極端な貧乏暮らしを嘗め、その上江戸無血開城から始まる多くの修羅場を踏んで来ているのであるから、明治天皇にとっては世間、巷間、俗間という世上を知る格好の相手であったろう。

つまり、明治天皇の一般社会に対する理解の基本を、鉄舟が酒宴を付き合うことによって奏上したことになったはずである。全く生きた世界が違う同士であったが故に、鉄舟の奏上が明治天皇の心身に入っていき、鉄舟への信頼は増した。

一方、このような酒宴が続いていた中でも、明治天皇は練兵・乗馬で鍛錬を続けた。明治七年の練兵は六十七回に達し、翌八年の乗馬回数は二百二十五回に達した(明治大帝 飛鳥井雅道著)というのであるから、三日に二日は乗馬していたことになる。

乗馬の後も時には酒を飲んだが、それは青山御所であった。ここには皇太后(夙子(あさこ))がいて、同御所のお茶屋で皇太后が用意した肴で酒を飲んだ。皇后も同席することもあったが、明治天皇は夜まで仮御所に戻らない時もあり、ストレス解消でもあったのだろう。

さらに、練兵・乗馬後に「六角堂」と称していた洋館で夕食をとり、その時はワインを飲んだが、乗馬で帰れないほど泥酔したこともあり、調馬師や側仕えの者が、馬の口と尻尾をつかまえて、落馬しないように気をつけながら、仮御所に戻したこともあった。

いずれにしても当時のストレスが、このような酒の飲み方になったと思われる。

そのストレスの最大要因は、明治六年以来の政府分裂以来、重臣内部での意見対立からも来ていた。そのあらわれとして明治九年(1876)の東奥巡幸時の出来事がある。巡幸の旅先で、岩倉と木戸が天皇の前で「民情風俗」「政治の得失」をめぐって大激論になった。両者は「肺肝を吐露して上言する所あり。深更に至りて始て退出す」(木戸孝允日記)というが、その内容は今ひとつ「岩倉公実記」などによっても明らかでない。

天皇の位置、また天皇をどう補佐するかが本来のテーマだったらしいが、二人とも手づまりの情況だった。すくなくとも侍従になったばかりの藤波言忠が、天皇にその座から退出を命じられるほどの激論、対立ぶりだったのである。(明治大帝 飛鳥井雅道著)

このような情勢下、いよいよ西南戦争が勃発した。次号は「③明治天皇が鬱」についてふれたい

2014年2月 1日 (土)

鉄舟サイト リニューアル

鉄舟サイトをリニューアルいたしました。

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