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2020年1月25日 (土)

神にならなかった鉄舟・・・その五

鉄舟の弟子である松岡萬(よろず)が、静岡県磐田市大原の水神社境内に松岡神社として祀られており、さらに藤枝市岡部町にも松岡神社が存在していることは前号で述べた。
この二つの地で神様として祀られる要因背景は、磐田市の方が大池の干拓阻止であり、岡部町の方は山林所有権の争いで、いずれも静岡藩庁の水利路程掛兼開墾方頭並であった松岡が住民有利に解決したからであった。
この松岡がその後、鉄舟とともに手賀沼(千葉県北部、利根川水系)の開墾を計画したという事実がある。筆者が主宰する「山岡鉄舟研究会」の2018年11月例会で、北村豊洋氏が次のように発表したので紹介したい。
≪鉄舟は約束の十年で宮内庁を辞した。そして谷中に全生庵を建立し駿河久能寺を再建したのは明治十六年である。廃仏毀釈でお寺が荒れており、お寺の再建、仏教の復活に精を出し仏教中興の恩人と言われた頃である。
この年の十月に、鉄舟は石坂周造、松岡萬と相談して、僧侶ら十五名と「手賀沼開拓願い」を千葉県に出している。驚きである。鉄舟の音頭で「教田院」を設立して手賀沼の新田開発を進め、米二万石を目論む利益を広く庶民に還元すると伴に、僧侶の学資に充てるという計画であった。
「教田院」とは耳慣れない言葉であるが、福を生じる田の意味で、三宝などをさす「福田(ふくでん)」という語が仏教用語としてあり、廃仏希釈後の仏教復興の為の社会施設「福田会」というのが明治十二年にできているので、それをヒントの名前かもしれないが推測の域をでない。(三谷和夫氏説)いずれにしろ、この地域にかつてなかった新しい開発の波が来たのである。
「手賀沼開墾願い」が千葉県令に提出されたと同じ「官有地拝借開墾願い(成田市立図書館蔵)」に発起人含め十五名の署名があり、三谷和夫氏の『明治前期・手賀沼開墾の二潮流(我孫子市史研究六)』に詳しく書かれている。
明治十六年十月二十日の郵便報知新聞に次の記事がある。
「手賀沼を埋め、田畑となさんとの計は、去る享保年度に起こり、田沼意次がこれに着手し、得るところの田五百町歩に過ぎずしてやむ。維新後、華族の中にその業を継がんと実施に臨み、測量に着手せし者多かりしが、沼の沿岸三十九ヵ村の漁民が、その産を失わんことを憂い、大いに不服を唱え、すでに竹やりむしろ旗の暴挙にも及ばんとする模様ありしをもって、企画皆中止となりしが、今度、山岡鉄舟氏が更にその開墾を発起し、仏教拡張の為、教田院を設けんとの企画を石坂周造氏が賛成し、去る七月中、石坂氏がまずその地に向かい、沿岸の各村吏を招集して説き、ついに三十九ヵ村調印して承諾の旨を表したるより、八宗の僧侶と結合し、かつ華族衆を同盟に加え……、同県下の不二講中より惣代をもって、埋め立て人夫十一万二千二百人の見積もりをもって、人足を無賃にて寄付する旨を、石坂氏まで申し出しという」
 開拓に反対していた地元の人達の賛同を得ている。開拓の人夫まで無償で出すという。これはいったいどういうことか。

実はこの頃、明治維新功労者の叙勲運動が盛んになり、猫も杓子も自薦に励んでいた。しかし鉄舟は勲章を二回も辞退している。さらに、勅使として鉄舟の自宅まで勲章を持参してきた井上馨に対して啖呵を切って帰らせた事も評論新聞はかき立てた。だから民衆はよく知っているのだ。俄か華族と鉄舟とは違うということを。明治十五年六月二十七日の「雪の世話新聞」記事にある。
 「この頃聞くところによれば、奏任官以上にして多年奉職の人でさえあれば、別に著名なる勲功なきも、その職務勉励の簾にて、相当の勲章を授与さるるや‥…、山岡宮内小輔は、年来の奉職中涓(けん)滴(てき)の勲功もなきに、かかる貴き物を賜る聖恩は感ずるにも余りあるが、これをおぶるは大いに恥ずる所あれば、右勲章は返納仕りたしとて辞退致されし趣きに聞く」
 俄か華族の言う事は信用しないが、土木のプロでもない鉄舟の提案する「手賀沼開拓願い」なら信用する民衆の心理を、十月二十日の郵便報知新聞記事は伝えている。明治十四年の政変(北海道開拓払い下げ問題等)の二年後のことである、住民は分かっているのだ。無私無欲がなせる説得力である。まさに鉄舟の人間力であろう。
しかし、「手賀沼開拓」は「水を制してこそできる事業」であり、明治初期の技術や当時の人力では無理である。進展はしなかった。鉄舟とて測量計測して始めからわかっていたのではなかろうか。手賀沼は江戸から一番近い湖沼として、昔から江戸商人達の新田開発意欲を誘っては失敗していた。だから今回も、名も知れぬ「山師」達の身勝手な参入を防ぎ「手賀沼」を守る為に、そして下総がこれ以上「東京の飛び地」にならないように、あえて前に立つ行為に出たのではないか。筆者はそう推察する。
庶民ファーストなのである。庶民に寄り添い真剣で骨のある姿が、偉ぶる事なく自然体で庶民に伝わるから、わざわざ自慢してホラを吹く必要はない。同じ江戸っ子でも勝海舟と違うところである≫
この北村氏の発表にあるように松岡は下総でも活躍しているので、松岡が神様として祀られていることに異論はないが、鉄舟は何故に「神」とならず、鉄舟の銅像も建立されていないのであろうか。

 幕末三舟と称されるのは勝海舟と、山岡鉄舟、高橋泥舟であるが、この中で銅像が広く公共の地で建立されているのは海舟のみである。(鉄舟銅像は静岡市の鉄舟寺に松本検氏が個人で贈呈されたものがある)
 勝海舟の銅像は、東京都墨田区区役所に隣接する、区役所前うるおい広場の緑地内に、文政6年(1823)生まれの海舟、生誕180年ということで平成15年(2003)に建立された。
 墨田区のホームページに以下のように書かれている。
≪勝海舟(通称・麟太郎、名は義邦、のち安房、安芳)は、文政6年(1823)1月30日、江戸本所亀沢町(両国4丁目)で、父小吉(左衛門太郎惟寅)の実家男谷邸に生まれ、明治32年(1899)1月19日(発喪は21日)、赤坂の氷川邸で逝去されました。
  勝海舟は幕末と明治の激動期に、世界の中の日本の進路を洞察し、卓越した見識と献身的行動で海国日本の基礎を築き、多くの人材を育成しました。西郷隆盛との会談によって江戸城の無血開城をとりきめた海舟は、江戸を戦禍から救い、今日の東京都発展と近代日本の平和的軌道を敷設した英雄であります。
  この海舟像は、「勝海舟の銅像を建てる会」から墨田区に寄贈されたものであり、ここにその活動にご協力を賜った多くの方々に感謝するとともに、海舟の功績を顕彰して、人びとの夢と勇気、活力と実践の発信源となれば、幸甚と存じます。
  海舟生誕180年
  平成15年(2003)7月21日(海の日) 墨田区長 山﨑昇≫
筆者が2016年7月18日に開催された「勝海舟フォーラム」に出席した際、墨田区長は挨拶で≪墨田区で3人の世界的偉人が誕生している。葛飾北斎、王貞治、それと勝海舟である≫と述べた。
この発言背景には、上記ホームページにある「今日の東京都発展と近代日本の平和的軌道を敷設した英雄」として海舟を高く評価認識しているからであるが、しかし、 海舟の評価が高いのは、後世の歴史家がつくった虚像によるものではないだろうか、と山岡鉄舟研究会ではかねがね指摘している。

東京都が運営する江戸東京博物館は、JR総武線の両国駅近くにあり、徳川家康が江戸に入府以来約400年間を中心に、江戸東京の歴史と文化を実物資料や復元模型等を用いて紹介し、常設展として「江戸から東京へ」の中で「江戸無血開城をめぐるおもな動き」を解説しているが、そこでは鉄舟の役割が、海舟から「西郷への手紙を託され、駿府にて会談、海舟の手紙を渡す」とのみ書かれている。これでは鉄舟は単なるメッセンジャーに過ぎないわけで、これが江戸東京博物館の見解とわかる。
そこで2018年4月24日に江戸東京博物館に以下の問い合わせを行った。この件は2016年10月にも同館の学芸員に対し、同様の指摘をしたのだが「今後の検討課題」という回答であったので、改めて、水野靖夫氏の著書『勝海舟の罠』(毎日ワンズ)が出版されたのを機に、江戸東京博物館を管轄する東京都生活文化局を通じて尋ねてみた。
≪江戸無血開城についてお尋ね
1. 東京都江戸東京博物館で常設展示されている「江戸無血開城」に関わる解説では、慶応4年3月13日、14日の「西郷隆盛と勝海舟」会談で「江戸無血開城」が決定されたと掲示され、映像説明でもなされています。
2. 山岡鉄舟研究会・主任研究員である水野靖夫氏出版の『勝海舟の罠・第3章』では、「江戸無血開城」は慶応4年3月9日の「西郷隆盛と山岡鉄舟」駿府談判で実質的になされたと、各史料を検討した結果判断しており、当会でも同様に認識しております。
3. 公共博物館である東京都江戸東京博物館のお立場から、「江戸無血開城」は「上記1であるのか、または2であるのか」についてお尋ねを致したく、よろしくご検討の程お願いいたします≫

これに対して2018年5月31日に以下の回答が届いた。
≪「2018年4月24日付」でいただきました当館常設展示「江戸から東京へ」コーナーへのご質問につき、回答いたします。
当館の常設展示は、公立の博物館としての立場から、とくに学校で使用される教科書の記述に基づき、展示内容を構成しております。江戸無血開城については、高等学校のいずれの教科書でも言及がありますが、このうち7種類の教科書に西郷隆盛と勝海舟の交渉について記載があります。
また、高等学校の副読本として東京都教育委員会が発行している『江戸から東京へ』(平成23年度版)でも、「4月、江戸城総攻撃を前に旧幕臣勝海舟と東征軍参謀西郷隆盛の会談が三田の薩摩藩邸でおこなわれ、江戸城は無血開城された」とあります。
 これらの記述に基づき、当館常設展示では、「西郷隆盛と勝海舟」の交渉によって江戸無血開城が行なわれたという趣旨の解説をしております≫
ということで、江戸東京博物館は教科書通りで展示していることがわかったが、今年のノーベル賞 本庶佑氏が10月2日の記者会見で次のように述べていた。
≪研究者に必要な要素について問われた場面では、「一番重要なのは何かを知りたいという好奇心。教科書に書いてあること、文字になっていることを信じない、疑いを持つこと」と答え、有名な論文雑誌も疑う対象の例外ではないと強調。「自分の目で物を見る、そして納得する。そこまで諦めない」と述べ、多くの後進が研究の道を志すことを期待したい≫
この発言は真理を突いていると思う。歴史博物館は過去の史実を究明し、それを一般人に教える場所としての義務を負っている。ならば、異論が提出された場合、教科書に記載されているから、その通りとした、という回答はいかがなものか。館内に掲載したものに対して、自ら検討し、自信を持つ内容の掲示をすべきでないか。教科書の丸写しであったならば、博物館と学芸員の名が廃るのではないか、そのように思っているが、これについては今後も追及していきたいと思っている。

海舟銅像は、能勢妙見山東京別院(墨田区本所4-6-14)の山門先にもある。海舟が天保2年(1831)九歳の時に犬に急所を咬まれた際に全快を祈願し父小吉がここで水ごりをしたとも伝えられ、勝海舟翁の銅像が建てられている。
胸像の下には次のように刻まれた銘盤がはめ込まれている。
「勝海舟翁之像 勝海舟九才の時大怪我の際妙見大士の御利生により九死に一生を得その後開運出世を祈って大願成就した由縁の妙見堂の開創二百年を迎へ海舟翁の偉徳を永く後世に傳へるため地元有志に仍ってこの胸像が建てられた 昭和49年5月12日」
大怪我を負った海舟が妙見大士の御利生により九死に一生を得たという話は『夢酔独言』(勝小吉・勝部真長 講談社)に書かれている。
≪岡野へ引越してから段々脚気もよくなってきてから、二月めにか、息子が九つの年、御殿から下ったが、本のけいこに三つ目向ふの多羅尾七郎三郎が用人の所へやったが、或日けいこにゆく道にて、病犬に出合てきん玉をくわれた。
其時は、花町の仕事師八五郎といふ者が内に上て、いろいろ世話をして呉た。おれは内に寝ていたが、知らせて来たから、飛んで八五郎が所へいった。
息子は蒲団を積で夫に寄かゝっていたから、前をまくって見たら玉が下りていた故、幸ひ外科の成田といふがきているから、「命は助かるか」と尋ねたら、六(むず)ケ(か)敷(しく)いふから、先(まず)息子をひどくしかってやったら、夫で気がしっかりした容子故に、かごがで内へ連てきて、篠田といふ外科を地主が呼で頼んだから、きづ口を縫ったが、医者が振へているから、おれが刀を抜て、枕元に立て置て、りきんだから、息子が少しも泣かなかった故、漸々縫て仕舞たから、容子を聞いたら、「命は今晩にも受合はできぬ」といったから、内中のやつは泣ゐてばかりいる故、思ふさま小言をいって、たゝきちらして、其晩から水をあびて、金比羅(能勢妙見の間違いと思われる)へ毎晩はだか参りをして、祈った。
始終おれがだゐて寝て、外の者には手を付させぬ。毎日毎日あばれちらしていたらば、近所の者が、「今度岡野様へ来た剣術遣ひは、子を犬に喰れて、気が違った」といゝおった位だが、とふとふきづも直り、七十日めに床をはなれた。夫から今になんともな手を付させぬ。毎日毎日あばれちらしていたらば、近所の者が、「今度岡野様へ来た剣術遣ひは、子を犬に喰れて、気が違った」といゝおった位だが、とふとふきづも直り、七十日めに床をはなれた。夫から今になんともなゐから、病人はかんびよや(ママ)うがかんじんだよ≫
『夢酔独言』を書いたのは勝小吉、海舟の父親であるが、ここで勝家について少し補足したい。参照するのは『をんな千一夜 第18話 勝民子「女道楽」勝海舟の正妻 石井妙子』(選択2018年9月号)である。
≪時代劇などでは江戸っ子の旗本として描かれる勝海舟だが、代々の武士というわけでなく、江戸に長いという家でもない。
曽祖父の銀一は越後の貧しい農家に生れた盲人で江戸に出てから、金貸し業を営み成功した。当時は、幕府による一種の福祉政策で盲人に金貸し業を許可していたからである。銀一は金で御家人株を買うと、九男の平蔵を武士にした。さらに平蔵の息子の小吉が旗本「勝」に養子入りし、勝子吉となる。この子吉の長男が勝麟太郎、後の海舟である。ゆえに武士としては三代目で、身分も低い。だが、時代は幕末の混乱期。赤貧洗うが如き生活をしていた勝だが、次第に出世を遂げていく。貧しさの中でも蘭学を学び、オランダ語を習得して、書物を通じて諸外国の事情に明るかったことが幸いしたのだ。
ペリー来航という国難にあたって、幕府は身分を問わず、町人階級に至るまで、意見書を募集したが、この時、勝が提出した海防論が上役たちの目に留まった。長崎の海軍伝習所に派遣され、その後、米国へも渡って、さらに見聞を深めた。勝の先見的な考えは幕府側、官軍側の双方から認められ、戊辰戦争の際には調整役として大役を果たし、維新後も伯爵に取り立てられるのである≫

海舟の墓は、東京都大田区の洗足池の畔に「勝海舟夫妻墓所」(大田区指定史跡)としてあり、そこの掲示板に次の説明がある。
「勝海舟は、官軍のおかれた池上本門寺に赴く途中で休んだ洗足池の景勝を愛し、明治24年(1891)に別邸を構え、「洗足軒」と名づけました(今の大森第六中学校辺り)。明治32年(1899)1月21日に77歳で没した後、遺言により当地に葬られました。同38年(1905)、妻民子が死去し青山墓地に葬らけれましたが、後に改葬され、現在は夫妻の五輪塔の墓石が並んで建っています。当史跡は昭和49年(1974)2月2日に大田区指定文化財となりました」
ここで気づくのは、能勢妙見山東京別院の海舟銅像が昭和49年建立であり、大田区洗足池畔の勝海舟夫妻墓所が大田区指定史跡に認定されたのも同じ昭和49年である。
どちらも同じ昭和49年という背景説明は簡単である。NHKが勝海舟を12作目の大河ドラマとして、子母沢寛の同名小説を原作に取り上げたことと無関係でないだろう。
主人公の勝海舟役は渡哲也でスタートしたが、渡が肋膜炎に倒れて降板、渡が第9回まで務めた後に異例の主役交代となり、第10回以降は松方弘樹が引き継いだので話題となったこともあり、最高視聴率は30.9%、年間平均視聴率は24.2%(関東地区・ビデオリサーチ調べ)という好評を博したドラマであった。
大田区指定史跡説明掲示板で、さらに気づくのは、「妻民子が死去し青山墓地に葬らけれましたが、後に改葬され、現在は夫妻の五輪塔の墓石が並んで建っています」というところ。
普通の感覚では夫婦である以上、最初から夫の隣に葬られるのではないだろうか。どうして民子は最初に青山墓地だったのか。どのような理由で洗足池に葬られるようになったのか。大田区郷土博物館に尋ねると「詳しくは分からないが昭和20年頃に青山から移された」という回答であった。このところを次回でもう少し詳しく続けたい。

 

2020年2月例会開催について

2020年2月例会は末松正二氏にご発表いただきます。
   発表者   末松正二氏 
   テーマ   「東郷ターン」 
   日程    2020年2月19日(水)
   時間    18時30分~20時
   会費    1500円
   会場    東京文化会館・中会議室1

日露戦争の原因と両国軍部の戦闘方針、海軍の戦闘展開を検討しつつ、日露戦争から学べる教訓についても言及されます。

(事務局補足)
今まで通説として認識し理解していたものに、我々はいかに影響されていたかがわかるご発表です。ご期待願います。                      

2020年1月例会開催結果

2020年1月例会は、新年にあたりますので、明治神宮初詣を兼ね、2019年10月に新築オープンした「明治神宮ミュージアム」の見学をいたしました。
 従来、宝物殿に展示されていた御物・貴重品は、この機会に、すべて「明治神宮ミュージアム」に移動され、明治天皇の倹約の御心が偲ばれるご愛用の「竹製御硯箱」や倹約の御心が偲ばれる鉛筆、金色の鳳凰を頂く儀装車、明治天皇御尊影と昭憲皇太后御尊影等が展示されていました。
   
  「明治神宮ミュージアム」館長の黒田泰三氏が述べます。
「収蔵品のすべては美しい。とりわけ細部を見ると、精緻で美しくことに圧倒されます。美しさは作品の細部に宿っていることが納得されるのです。日本の美の特質である「美は細部に宿る」ことと、わが国における長い宮廷文化の歴史の精神である「折り目正しさ」とが不可分の関係であることがわかります」
 

日本の文化の真髄に触れた「明治神宮ミュージアム」でした。

「明治神宮ミュージアム」拝観後、渋谷駅に移動、今話題の地上47階建てのスクランブルスクエアを見学しました。
 
そのあとは、神宮前の「おばんざい・鉢屋」で新年会、ここで小宮山清氏が『幕末三舟 泥舟・海舟・鉄舟』合幅軸をご披露され、小宮山氏の曾祖父「小宮山金兵衛」氏が鉄舟宅にお勤めされていたことも含め『小宮山家ご先祖の「小宮山なお様」と父「佐瀬萬右衛門様」についての一考察』資料をご発表されました。
「おばんざい・鉢屋」店長が帰り掛けに「随分飲みましたね!!」と、わざわざ言いに来たほどの盛り上がった新年会でした。          

2019年12月25日 (水)

神にならなかった鉄舟・・・その四

前号まで検討してきた結果分かったことは、特定の人を神に祀り上げる習俗には、その祭神の性格あるいは祭神化していくプロセスから、二つの類型があることである。
 一つは「祟り神」タイプ、もう一つは「顕彰神」タイプで、前者のタイプの典型が菅原道真を祀った北野天満宮であるとすると、後者のタイプは徳川家康を祀った「東照宮」であると『神になった人々』(小松和彦著 知恵の森文庫)が述べる。
 

さらに同書が続けて以下のように記述している。
 ≪加藤玄智の『本邦生祠の研究』(中文館書店)によれば、近世から近代にかけて、死んだ人の「たましい」に留まらず、顕彰したい人がまだ存命であるにもかかわらず、その人の「たましい」を神社を作って「神」に祀り上げることさえ行われていたという。顕彰しようとする人びとの思いが強く、顕彰したい人の死を待てなかった。いや顕彰されるべき人が存命であるうちにそうすることに意味があったということだろうか。加藤玄智は、たとえば、東北地方の庄内藩で起きたいわゆる三方領地替え反対一揆が成功裏に終わった後の嘉永五年(1851)、百姓たちが藩主酒井忠器(ただたか)を「若宮大明神」として祀り上げたことや、大分県に縁のあった明治の政治家・松方正義公爵を、彼が八十五歳の時に、日田町(現・日田市)亀山公園内にある日隈(ひのくま)神社境内に「松方神社」を建立して「神」として祀り上げて顕彰した事例を挙げている。
『郷土を救った人びと―義人を祀る神社―』(神社新報社)や神社本庁の「人臣神社調査」、『本邦生祠の研究』などに列挙されている人臣神社のほとんどは、民衆の手によって建立された民間神社(私祭神社)であった≫

この実例を『郷土を救った人びと―義人を祀る神社―』の「松岡神社」(池主霊社)でみてみたい。「神」として祀られたのは鉄舟の弟子松岡萬(よろず)で、磐田市の松岡神社を訪ねてみた。
JR東海道本線・磐田駅から南へ約3キロ、タクシーで10分くらいである。ドライバーに松岡神社へと伝えると妙な顔をして、本部に尋ね、ようやくわかって到着できた。

≪静岡県磐田市大原の水神社境内に存命中から土地の人々に救い神として祟(あが)められた松岡萬命をお祀りする池主霊社(通称、松岡神社)が鎮座している。
この地大原一帯の水田二百町歩余りは、古くから大池の水を灌漑用水の唯一の水源として生活をたてていた。
ところが、江戸時代末期から水田造成の気運が盛んになるにつれて、大池を干拓、水田化して一儲けしようとたくらむ利権屋が相次いでやって来て、農民の生活をおびやかした。旧幕時代だけで前後少なくとも四回あった干拓出願は、その都度必至の陳情でどうやら食い止められ、いくらか大池はせばめられたが最低の水田用水は確保することが出来た。
維新後も勧業殖産という明治政府の方針に従い、この池に目をつける利権屋が少なくなかった。明治三年には静岡藩より派遣されていた見付郡役所(磐田市見付)の役人、近藤某が、嘆願書を持って干拓取止めを願い出た総代五人を郡役所に監禁するという事態が起った。途方にくれた土地の人々は、その年の十月、有徳の水利官松岡萬大人を湊村に訪ねて、中央政府への直接の訴願を持ち込んだ。
松岡萬大人は、もと徳川将軍家の旗本で、大政奉還後は徳川慶喜公に従って静岡に落ちついたが、明治政府に請れて水利官となり、湊村では護岸工事や製塩の指導に当っていた。当時三十二歳の若さであった大人は、農民の訴えを聞くと、直ちに大池に出かけて実情を調査した。そして農民たちの言い分が正しいとわかると必死の努力で中央に建言し、明治四年二月、認可が下るばかりになっていた大池干拓は御沙汰止みとなった。
農民たちの欣喜雀躍(きんきじゃくやく)したのは言うまでもない。身を賭して危地から救ってくれた松岡大人に対する感謝の気持が盛り上がり、生き神様に祀ろうということになった。そして明治九年八月三十一日、池主霊社は、祭神天之水分神、国之水分神二座と、松岡萬大人の生霊を合祀して創建された。
松岡大人は、のち警視庁大警部となったが西郷南洲とも親しかったことから、明治十年西南の役を機に官を退き、余生を東京に送り明治二十四年三月十七日五十四歳で没した。
祭典は大人の生前は四月三日に行われていたが、没後は命日の三月十七日に斎行されてきた。現在は大人の生誕日に当たる四月十七日に執り行われている≫
   
実は松岡神社はもう一カ所存在している。『牧之原開拓史考 明治維新と茶業』(大石貞男著)に「松岡神社・池主霊社縁起」が記されている。
 ≪志太郡岡部町(現・藤枝市)の宇津谷峠に近い部落に廻沢(めぐりさわ)という部落がある。周囲は山にかこまれ、みかんと茶と林産物で農業を営む平和な山村であるが、ここの飛龍神社の境内に松岡神社が独立して建てられている≫
 松岡神社が建立された背景には、明治初年から実施された当時の土地改革があった。明治7年から始められた林野の官民有地区区分は、林野を①国有林、御料林 ②地主所有林、③共同体所有林の三つに分け、明治14年ころからは入会地の整理が始められ、入会権をめぐって農民騒動などが発生していくなかで、岡部町の土地権問題も発生した。

 ≪廻沢村は当時二十一戸の小部落であったが、隣接の岡部宿とともに小廻沢の山林の所有権をめぐって争いがつづいていた。数カ月の間、はげしく争い、時には部落の人々は人質として監禁せられたこともしばしばであり、岡部宿は三百余戸もあるのに比し、この部落は少数できわめて無力であったので、大勢は相手方に有利に傾いてしまった。
そして最後の手段として、静岡藩庁の水利路程掛兼開墾方頭並であった松岡萬に陳情することになった。
 そのために、まず、もと部落に住んでいた静岡市の伝馬町滞留の勧農係官であった小沢留造という浪士の手を経て松岡に窮状を訴えた。
松岡は事情をたずねたのち、直ちに現地に赴くことを承諾し、岡部宿の肴屋旅館に投宿して事情聴取や現地調査を行った。そして小廻沢地帯は、廻沢部落が六十両を示談金として支払い、土地は廻沢のものとするという裁断を下し、両者はこれに同意して解決したのである。
 このことによって廻沢部落の生計は維持せられるようになり、村民たちは子孫に対しても誇りとし、伝承として長く伝えるべきあることを痛感したので、松岡神社建立を決するに至ったものである。
 

祭祀の年月は必ずしも判明していなかったが、松岡家に保存せられていた次の松岡日記により明治三年十月と分かった。
『明治三年うるふ十月表方「松岡萬古道幸魂」、裏方「天朝明治三年閏十月鎮千此社」右の如く相認め廻沢の民に与ふ。執筆者久保先生相願申候』
松岡神社建立に当たって松岡家から秘蔵の遺品三十二点が奉納され、現在まで残っているが、松岡萬愛蔵の刀を始め、将軍家の書簡、頼山陽、蜀山人、江川太郎左衛門など歴史的著名な人物の書も多い。昭和三十二年十月この神社は改築せられ、祭日は十月十七日に行われる。なお、その日にうたわれた御詠歌は次のようなものである。
  まつのみどりのもろともに
  そせんのおしえ  まもりつつ
  かみのおしえに  したがいて
  まつおかさまのごおんけい
  こころにちかい   わするまじ
  ひりゅうじんじゃと  もろともに≫
 

松岡が生きながら神として祀られたことは、『おれの師匠』(小倉鉄樹著)にも書かれている。では、松岡が鉄舟の弟子になったのはどういう経緯なのか。『おれの師匠』からみてみたい。
 ≪山岡が尊皇攘夷を唱えて志士と結んでいるのを、幕府では、とうに睨んでいた。だんだん志士の勢いがつのるので、幕府では松岡に旨を含めて山岡を暗殺させようと図った。
 山岡が剣術のうまいことは松岡も承知である。然し松岡とても相当自信はあった。なに、山岡なんぞ何程のことがあるものか、と腹に一物抱いて山岡を訪ね、一仕合しようと申し込んだ。
 けれどもそれはとても山岡の相手でなかった。もろくも松岡は負けてしまった。
 「どうもおれは真剣でないと本気になれない。真剣で一つやろう」
 と松岡がいうので、それなら真剣にしようと腰の刀を抜いて差向った。松岡は辻斬を盛んにやっているので、真剣となると油が乗ったに相違ない。
 けれどもこれでもまだ山岡の相手ではなかった。「参った」と松岡は刀を引いた。
 「じゃ、一杯飲もう」と山岡が先に立って奥――といっても小石川鷹匠町の例のあばら家だが――へ行って一杯飲みだした。然し松岡はとんと酒がうまくない。一撃の下に山岡を斬って捨てようと思って来たのが此の様じゃ、みっともなくて帰って会わせる顔がない。なんとかして山岡を殺さなくちゃ使命が果されぬと思い煩った。ふと松岡は、
 「おれは実は撃剣はそううまくないのだ。柔術の方が得意なのだ。いい手があるのだが、おまえに一つ伝授しようか」と云った。
 「そうか。そんないい手なら教わって置こう」
 と山岡が、云うので「しめた」と松岡は山岡の背後に回って、山岡を羽交い絞めにかけた。勿論これで山岡を殺してしまう決心なので、満身の力を込めて、うんと絞めたので、松岡の双腕はぎっしり山岡の首にからんで、正に山岡の首は折れるかと見えた。
 このさまを座にいた中條金之助が見て承知しない。
 「この野郎、山岡を殺しにかかったな」
 とひどく怒って、松岡を斬ってしまうと青筋立てて立ちあがった。
 中條のただならぬ気色に、覚えず松岡が手を緩めた。その手を山岡が払い除け、怒る様子もなく「飲め」と酒杯を松岡に差した。
 松岡は山岡に双手を払われた時、瞬間に身構えて山岡の仕返しに備えたが、案に外れた山岡の態度に気が抜けた。と同時に重ね々々の失敗がひどく恥しくなって「これは到底おれの相手じゃない」と心から参ってしまった。そこで「実はおれはあなたを殺しに来たのである」とすっかり打ちあけた。
 「まぁいい、飲め」
 と山岡はとんと平気である。そこで松岡は志を翻して山岡に従って国事に奔走する気になり「どうかおれを捨てずにくれ!」と頼んだ。是に於いて山岡も、
 「よし、それじゃ一つおまえと約束しょう」
 と、これから山岡の発意で、降っても照っても毎日屹と山岡のところへ稽古に来ることした。そして、若し山岡が稽古を休むことがあったら、松岡は木剣で山岡を打ち据え、松岡が休んだら山岡が叩きつける約束をした。
 こうして松岡は山岡と別れたが、それからは雨が降っても、風が吹いても欠かさず山岡のところへ稽古に来た≫
 

松岡にはさらに面白い話を、続いて『おれの師匠』から紹介したい。
≪山岡が宮内省を退いた時、松岡は要路の人の不明を慨し、山岡如き誠忠無二の男を君側から離すというのは不都合だというので、短刀を懐にして、岩倉さんを訪ねた。岩倉さんを刺殺して自分も死ぬ覚悟なのである。
 流石は岩倉さん、維新以来志士や浪士の応接には幾度か生死の境を潜って来ているので、そんなことには馴れたもので、松岡の唯ならぬ気色に直ぐにそれと見抜いてしまった。そして盛んに松岡を煽り揚げてあべこべに松岡を煙に巻いてしまった。
 「君のような愛国者が居るとは岩倉具視不憫にして今日まで気がつかなかった。今は時世が時世で、どうにもならんが、どうか邦家のために身命を擲(なげう)つことを忘れないでくれたまえ」
 と美事敵の鋭鋒を奪って却て之を松岡に擬した。
 松岡は岩倉さんの知遇に感激して、すっかり逆上せて岩倉さんの許を辞去した。家に帰って二階にあがり、身辺の始末をして、自刃した。松岡では、自分が斯く潔く国家の為に身命を擲ったならば、屹度感奮して廟堂の廓清(かくせい)が図られるに違いないと、岩倉さんの言葉を勘違いしてしまったのである。
 間もなく山岡の所へ「今、松岡さんが喉を突いて自害なさいました」という知らせがあった。その時おれは二階に居たが、師匠が、
 「おい渡邊! 松岡が喉を刺したということだ。おまへ一足先に駆けつけてくれ。おれは後からすぐに行くから」
 という言葉なので、おれは直ぐさま飛び出した。松岡の家は市ヶ谷の高力松―――今、救世軍の大学になって居る所―――に在ったのだから四谷の山岡の家からは一走りであったのだ。
 行ってみると奥さんは座敷によゝと泣き崩れていてその傍らに血まみれの大刀が転がっている。
 「奥さん、渡邊です。しっかりしなさい。松岡さんは・・・?」
 泣き腫らした奥さんは声も出ず、二回を顔でしゃくりあげた。
 直ぐに二階にあがって、障子をがらり明けにかかると、中から、
 「誰だ!」
 と怒鳴った。おれは即座に「よかった、まだ死なないな」と思って、
 「渡邊だ!」
 と言いさま座敷に飛び込むと、ぷんと血の臭いがして座敷は一面の唐紅。床の間に向って松岡が座ったまま血まみれになっている。
「ヤ、渡邊君か、松岡、今日国家のため、従容として自刃した。見届けてくれ!」
「よし、見届けてやる。今、師匠もあとから直ぐに来るからしっかりしろ!」
見ると、創は首の前と後と二つあって頸の前後から、どくどくと血が脈を打って湧き出ている。取敢えず、松岡の着物の袖を引き裂いて創口を押え、おれの帯を解いて、ぐるぐるその上に巻いた。
早く師匠が来ればいいと思っていると、師匠が医者を伴れてやって来た。
「松岡さん、先生だ」
「むむ、そうか。――先生! 松岡今日国家のため従容と自・・・・。」
「馬鹿」
と大喝、師匠が、
「何が国家のためだ。ひとに迷惑かけて、国家も糞もあるか! 蹴とばすぞ」
と頭から怒鳴りつけた。
妙なもので、それまではしっかりしているように見えた松岡が、師匠に怒鳴りつけられたら、忽ちぐにゃぐにゃになってしまって、ばたりと倒れたまま昏々と眠りに落ちた。
医者がすっかり創を調べて手当てをした。創は気管の一部を切ったけれども、幸い大血管を傷つけなかったので、命には障りがないとのことで安心した。二尺四寸の大刀で、ぐっと前から後に突きたてたので、あまり刀が長過ぎて手許が外れ、斜めに頸を貫き刀の先が頸の後に出たのである≫

この自刃事件の様子から考えると、松岡は熱血漢で、行動派であることがわかる。
その後、松岡は中條金之助らと行動をともにし、静岡の牧之原開拓に従事したが、長く牧之原には止まらず、藩庁に入り、水利路程掛兼開墾方頭並となって、松岡神社に祀られたような活躍をした。
 さらに、小島(おじま)(現・静岡県清水区小島地区)の奉行をつとめた時にも、農業の奨励のために、切れ草鞋や馬ふん等を集めて、田や畑へ施すことをすすめたり、道路や橋の施設改善をはかったりして、かなりの成果を上げている。
 松岡は、施設の使役を命じる際には人夫をいたわる方法を常に講じた。例えば、安倍川に橋を建設する工事では、休息時間を設けたり、焼き芋を人夫に配り、草鞋の支給、休業日に大鍋に川魚や貝・野菜のごった煮の味噌汁をつくり、飯は大釜に芋と大根の干葉を入れた菜飯を炊いたりして与えている。この食事を人夫たちの間では安倍川の暗汁と呼んでいた。
 松岡は、明治8年には静岡を離れて東京へ行き、警視庁一等大警視として活躍し、明治23年東京下渋谷の自邸で52歳の生涯を閉じた。(参照『牧之原開拓史考 明治維新と茶業』)
 

このように鉄舟の弟子が神に祀られているのに、鉄舟は何故に「神」とならず、鉄舟の銅像も建立されていないのであろうか。

 

2020年1月例会開催

2020年1月例会は、新年にあたりますので、明治神宮初詣を兼ねて、2019年10月に新築オープンした「明治神宮ミュージアム」の見学をいたします。
場所は明治神宮参道、杜の木立の中に黒い入母屋造りです。延床面積3200㎡二階建て、隈研吾氏の設計です。
従来、宝物殿に展示されていた御物・貴重品は、この機会に、すべて「明治神宮ミュージアム」に移動しています。拝観料は1000円
 
    日時 2020年1月18日(土) 15時「明治神宮ミュージアム」前集合
       明治神宮初詣を各自でなされた後にお集まり願い、約1時間、 
       「明治神宮ミュージアム」を拝観いたします。
       この日は新年で大安、混雑が予想されますので、余裕を持って
       ご参拝、その後に「明治神宮ミュージアム」にご参集願います。
       

       拝観後、希望者で渋谷駅に移動し、今話題の地上47階建ての
       スクランブルスクエアを見学後、新年会をいたしたく思っております。
       

       新年会は18時から「おばんざい 鉢屋」(渋谷神宮前店)
                渋谷区神宮町6-19-17 ☎03-6805-1660 会費 4000円
         
             

2020年2月例会開催について
 2020年2月例会は末松正二氏にご発表いただきます。
       発表者   末松正二氏 
       テーマ   「東郷ターン」 
       日程    2020年2月19日(水)
       時間    18時30分~20時
       会費    1500円
       会場    東京文化会館・中会議室1

日露戦争の原因と両国軍部の戦闘方針、海軍の戦闘展開を検討しつつ、

日露戦争から学べる教訓についても言及されます。

2019年12月例会開催結果

2019年12月18日(水)例会は山本紀久雄が、

以下の「聖徳記念絵画館『江戸開城談判』(結城素明作)壁画の怪」(その二)

について発表いたしました。
     
 発表の概要は以下の通りです。
1. 二世五姓田芳柳が壁画『下絵』と『画題考証図』を描いた
2. 大正15年10月絵画館が竣工、壁画は昭和11年4月最終搬入された
3. 二世五姓田芳柳が描いた『下絵』は①「江戸開城(玄関前)」
②「江戸開城」③「画題無記名」の3枚存在している
4. 『画題考証図』は③「画題無記名」をもとに描かれた
5.  海舟の刀の位置は『下絵』では右脇、『画題考証図』では左脇と異なってい
  る
6. 「聖徳記念絵画館」藤井副館長はテレビにて、海舟が左脇に刀を置いている
のは、この絵が緊張場面である事を意味すると発言したことを紹介
7. 刀作法における武士の常識・良識から、左脇に刀を置くのはおかしいと結論
化できる
8. では、結城素明は刀の常識・良識を知らなかったのか
9. 結城素明は数多くの出版を行っているように「博学多才」な人物。中でも『伊
豆長八』(昭和13年刊)は長八を世に知らしめたという功績は高い
⒒ 藤田記念博物館学芸員・藤田龍文氏は、「結城素明は余りにも博学多才であ
  ったため、画風の表現の幅が広く、素明の画風はどういったものか、代表的
作品は何か、と戸惑ってしまうと述べる」
12.「先ず自己の頭脳を作れ」が結城素明の言葉であって、そのためには自己の
確立、新しさの追求、幅広い教養が必要かつ重要だと説く。これは結城素明の人生そのものを表現した言葉に思え、このような結城素明であるから海舟の刀に位置なぞどうでもよかったと推察する
13.ということになると、二世五姓田芳流が『下絵』で右脇に刀を置き描き、『画
題考証図』では左脇に刀を置くように描き分けたことが問題となる
14.何故に刀の常識・良識と異なる『画題考証図』としたのか。幕末史の暗黙知
か、それとも作為で描かせたのか
15.これらを2020年4月例会で解明し発表する。ご期待ください
 

2019年11月29日 (金)

2019年12月例会

2019年12月例会は山本紀久雄が発表いたします。

発表者   山本紀久雄 

テーマ  「聖徳記念絵画館『江戸開城談判』壁画の怪」(その二) 

日程    20191218()

時間    1830分~20

会費    1500

会場    東京文化会館・中会議室1

9月例会の聖徳記念絵画館で鑑賞した『江戸開城談判』(結城素明画)、          

  • これは「正史」なのか、それとも「作られた歴史」なのか、
  • または「ノンフィクシヨン」なのか、それとも「フィクション」なのか

2019年7月の発表に続いて、様々な角度から分析・研究した結果の「その二」を発表いたします。  

 

2019年11月例会開催結果

2019年11月例会は16日(土)に、堀越直子氏ガイドによる「上野~谷中 歴史散策」を開催いたしました。

 この日は、高輪ゲートウェイ駅開業に向けた線路切換工事が、山手線と京浜東北線で行われたことで、東京文化会館前に集合するために、迂回されるなど、ご苦労された方が多くおられました。

 また、体調面から急遽欠席された方も多くおられましたが、天候に恵まれ、1340分スタート、懇親会の谷中「山ぎし」に到着した17時まで休憩なしで、皆さんの健脚に史跡も驚いたと思います。

 歴史散策コースの始まりは「天海僧正毛髪塔」⇒「西郷隆盛像」⇒「彰義隊戦士の墓」から各史跡を回り「上野東照宮」⇒「寛永寺根本中堂」へと向い、「谷中霊園墓地」内に入り、徳川慶喜、勝精、雲井龍雄他の著名人墓地を回り、大雄寺の高橋泥舟墓を経て全生庵へ。

堀越さんが作成してくれた鉄舟と関係者の墓地を巡り、谷中・よみせ通り「山ぎし」で名物「鰻重」を賞味いたしました。

 Img_2198-2  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(堀越氏のガイドに聞き入る)  

 なお、全生庵墓地入口に安置されている、入江長八作(こて)芸術「石造地蔵菩薩」像については、聖徳記念絵画館に掲示されている「江戸開城談判」壁画、これを描いた結城素明画伯につながるストーリーがありますので、

鉄舟と長八の関係も含めて12月例会で山本紀久雄が説明いたします。

 

11月例会は「台東区観光ボランティアガイド会」公認ガイドとしてご活躍されておられる堀越氏の名解説で、「上野~谷中 歴史散策」を楽しみました。

毎年、11月はガイドをされる機会が多く、大変ご多忙の中、ご案内賜り深く感謝申し上げます。Img_2198-2

神にならなかった鉄舟・・・その三

前号でお伝えした白河市の「合同慰霊祭」の翌日、平成30(2018)715日は、群馬県高崎市倉渕町権田の東善寺に向かった。東善寺は小栗上野介の墓所である。

小栗上野介は、安政7年(1860)、日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、地球一周に近い旅をして帰国。その後は多くの奉行を務め、江戸幕府の財政再建や、フランス公使レオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行った。

鳥羽伏見の戦いの後、徳川慶喜の恭順に反対し、薩長への主戦論を唱えるも容れられず、慶応4年(1868)に罷免されて領地である上野国群馬郡権田村に隠遁。同年閏4月、薩長軍の追討令に対して武装解除に応じ、自身の養子をその証人として差し出したが逮捕され、翌日、斬首された。

逮捕の理由として、大砲2門・小銃20挺の所持と農兵の訓練が理由であるとする説や、勘定奉行時代に徳川家の大金を隠蔽したという説(徳川埋蔵金説)などが挙げられるが、これらの説を裏付ける根拠Photo_20191129104501 Photo_20191129104501 は現在まで出てきていない。

Photo_20191129104501

 

 

 

 

 

 

(東善寺・小栗父子の墓)

東善寺では村上泰賢住職にいろいろご教示賜った。特にインパクト強く主張されたのは「近年、テレビや映画で勝海舟が咸臨丸で活躍する画面が出て来なくなった」ということであった。

これは「昭和36(1961)に『万延元年遣米使節史料集成』(7巻、日米修好通商百年記念行事運営会・編、風間書房)の第5巻に収められたことから、咸臨丸の実態が知られて、戦前の修身教科書による「勝海舟と咸臨丸」の勇ましいイメージが崩れた」というお話。

関連する内容が東善寺のホームページ「小栗上野介関連の人物紹介・ブルック大尉」で掲載されているので、引用紹介したい。

1860年、友好の印として、アメリカは蒸気船ポーハタン号Powhatanを提供して、日本が最初の使節団をワシントンに送るための手助けを申し出た。使節団は、少し前に駐日公使タウンゼント・ハリスと徳川幕府との間で調印された通商条約を批准するのが目的であった。徳川幕府は返礼の気持ちで(あるいは、習得した航海知識を披露したいために)、オランダから購入したばかりの自国の軍艦、咸臨丸を使節の護衛船としてサンフランシスコまで行かせることを決定した。

日本人乗組員は、航海士も船員も訓練が十分ではなかったため、徳川幕府はアメリカ人の海軍将校を咸臨丸に任命するよう依頼した。アメリカの東インド艦隊の司令官、ジョシュア・タットノール准将 Josiah Tattnall は、天文学者、水路学者として長い経験を持つジョン・マーサー・ブルック大尉を選んだ≫

≪ブルックは打診されたアメリカへの航海任務を喜んで受け入れた。そして、出航への最終準備をしているときにジョン万次郎に出会った。万次郎は難破船に乗り合わせた人間としてはブルックの先輩ということになる。万次郎は、公式通訳として咸臨丸に任命されていて、二人は長時間にわたって打ち合わせをしているが、その内容についてはブルック大尉の日誌に詳述されている。

ブルックの日誌は「死後50年間公開しない」という遺言によって公表されることなく、ブルックの孫に当たるジョージ・M・ブルック・ジュニア博士(バージニア州立軍人養成大学の歴史学教授)が保管してきた。しかし、1960年、日米友好通商100周年記念協会に提供され、日本で「万延元年遣米使節史料集成第五巻」として刊行された。

18601月の中旬、咸臨丸とポーハタン号は江戸港からアメリカに向けて出航した。さほどの日数がたたないうちにブルック大尉の日誌には、咸臨丸の日本人乗組員たちについて、訓練がよくできていないことだけでなく、(仕事に対する)無気力さについての不満が書き込まれることになった。しかし、ただ一人、ジョン万次郎にだけはブルックも尊敬の念を持ち続けた。そんな状況ではあったが、不安な気持ちの中にも、ブルックは日本人の生来の能力がなんとか安全に航海をやり遂げるだろうと信じていた。

しかし、ブルックにとって計算外だったのは、日本人乗組員が本当に気まぐれだということだった。出航後、ほどなくして二隻の船は台風に見舞われた。ポーハタン号に乗船していた経験豊かな航海士が「太平洋上で遭遇した最悪の嵐」と言うほどのものだった。

しかも、悪いことに咸臨丸の艦長(勝海舟)は船酔いでまったく指揮が取れなくなってしまった。そのため、ブルックが代わって指揮を取らざるを得ない。しかし、さいわいだったのは、ブルックが航海士として経験豊かな万次郎を頼りにできたことだった。ブルックと万次郎の二人と、難破したフェニモア・クーパー号からのアメリカ人乗組員たちがいなかったら、咸臨丸はとっくに沈没していたかもしれないのだ≫

ところが勝海舟は『氷川清話・日本海軍の基礎』で次のように述べている。

≪また万延年間に、おれが咸臨丸に乗って、外国人の手は少しも借らないでアメリカへ行ったのは、日本の軍艦が、外国へ航海した初めだ。咸臨丸は、オランダで製造した船だ≫

ブルックの咸臨丸日記とはまったく異なる記述内容だが、これについて『勝海舟の罠』(水野靖夫著 毎日ワンズ)は以下のように論説している

≪「外国人の手は少しも借らないで」というのは大ウソで、咸臨丸には日本人だけでなく、ブルック海軍大尉以下11名のアメリカ人水兵が乗り組んでいた。勝部真長氏は『勝海舟』に、「ブルック大尉の公開日記は、日本人初の太平洋横断なるものが実は名目的なもので、ブルック以下11名の米人乗組員の助力なしにはほとんど不可能であったことを証明するものである」と書いている。つまり日本人の力だけで航海したというのは、ホラ話と言うか自慢話なのである≫

さすが海舟だけのことはある。事実を簡単に曲げて、自己中心にしてしまう。

だが、ここで疑問が生じる。手許にある『氷川清話』(勝海舟全集21 講談社)は昭和48(1973)に出版されている。

ということは、この『氷川清話』が出版された時は、既に「昭和36(1961)に『遣米使節史料集成』が発刊されて12年経過しているのであるから、ブルック大尉の「咸臨丸日記」に基づき『氷川清話』の咸臨丸に関する記述・発言内容は訂正されるか、または、問題点ありと注記されるべきではないか。

仮に本当に海舟が≪おれが咸臨丸に乗って、外国人の手は少しも借らないでアメリカへ行った≫と発言していたとしたら、海舟は大嘘つきになってしまう。

海舟は、世に喧伝されているように江戸無血開城の功労者で、明治維新への道筋を開拓した人物である。この海舟が嘘つきだとしたら、維新の功労者は信用できない人物に成り下がってしまい、江戸無血開城にも傷がつくだろう。

実は『氷川清話』の記述は、一般的に論じられているように、咸臨丸の事例のように、多くの誤謬や誤りがある。

『氷川清話』は、晩年の海舟のところに出入りしていた吉本襄が、海舟から聞いた話と、他の多くの人々の手によって新聞や雑誌に発表された海舟談話を、吉本が明治30(1897)11月『海舟先生氷川清話』として発行、これが非常に好評であったので、気を良くした吉本は翌31(1898)に『続海舟先生氷川清話』を、さらに同年11月には『続々海舟先生氷川清話』を発行している。いずれも、海舟生存中のことである。

したがって、記述の責任は勿論、全て吉本襄にあるが、史実に照らし、明らかに誤りである箇所は、後世の識者が訂正する必要があるだろう。

勝海舟全集刊行会の代表は文芸評論家の故・江藤淳氏であるが、江藤氏ほどの知識人がブルック大尉の「咸臨丸日記」を知らないわけはない。

是非共、妥当な『氷川清話』にして欲しいものである。

 

ここで再び東善寺に戻りたい。

小栗父子の墓の手前に、二人の胸像が立っている。2

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左が小栗、右が栗本鋤(じょ)雲(うん)である。栗本は小栗家の屋敷内を借り開いていた安積艮斎塾に入り、小栗と知り合い生涯の盟友となり、横須賀製鉄所(造船所)建設の現地責任者を命じられた。

東善寺のホームページ「栗本鋤雲の事績」によると、≪ヴェルニーを上海より呼び寄せて総裁とし、横須賀湾にツーロン製鉄所の3分の2の規模として、製鉄所1ヶ所、ドック大小2ケ所、造船場3ヶ所、武器廠共に4年で完成する。費用はおよそ1年60万ドル、4年で総計240万ドルを要することを契約した≫とある。

小栗の胸像は、神奈川県横須賀市汐入町のヴェルニー公園内の開明広場にもある。この公園はフランス庭園様式を取り入れた造りで、対岸にフランス人技師ヴェルニーが建設に貢献した横須賀製鉄所が望め、ヴェルニー・小栗祭りとして二人の功績をたたえる式典も毎年開催されている。

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胸像の説明として以下が書かれている。

「日本初の遣米使節をつとめ、外国奉行や勘定奉行など徳川幕府末期の要職を歴任し、フランスの支援のもと横須賀製鉄所(造船所)建設を推進しました。軍政の改革、フランス語学校の設立など日本の近代化に大きく貢献したが、大政奉還後に徹底抗戦を主張したため役職を解かれ、領地の上野国権田村(群馬県倉渕村)で官軍により斬首された」

横須賀市内にある小栗の胸像はこれだけでない。「横須賀市自然・人文博物館」(神奈川県横須賀市深田台)入口前にもあり、さらに同博物館の人文館2展示室「1719世紀の和洋船と浦賀」にも、以下の記述とともに胸像が設置されている。

≪海を切り拓いた人々として、安針塚駅で知られるウィリアム・アダムス、横須賀製鉄所を成功に導いた小栗上野介忠順とフランソワ・レオンス・ヴェルニーの胸像を入り口に展示して、皆様をお出迎えしています≫

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さらに、「横須賀市自然・人文博物館」に隣接している「横須賀市中央公園」にも小栗の胸像が設置されている。

このように小栗の胸像はいくつも存在することからわかるのは、横須賀市が小栗の業績を高く評価していることである。

小栗についてヴェルニー公園の事務所でもらった小冊子『小栗上野介と横須賀』に以下のように業績が書かれている。

≪「日米修好通商条約」が調印され、翌年この批准書の交換がアメリカで行われることになり、幕府はその使節団を送り込むことになりました。当初、幕府が決めていた人たちがさまざまな理由で行かれなくなり、9月になって正使・新見豊前守正興、副使・村垣淡路守範正、目付・小栗正順と決まりました。

新見や村垣はすでに幕府の要職にありましたが、小栗は大抜擢といってよいでしょう。小栗はこの拝命の前日に幕府の目付に任命され、さらにこの年の11月豊後守に叙せられました≫

写真は、ワシントン海軍造船所における遣米使節団一行で、前列右から二人目が小栗である。

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≪この大抜擢の陰で、小栗には一つの大きな密命が課せられました。それは通貨の交換比率の不公平を是正することでした。当時、「日米修好通商条約」により、諸外国の貨幣は日本の貨幣と「同種同量」をもって通用すると決められ、例えば「1メキシコドル銀貨=1分銀3枚」という交換比率でした。ところが、金と銀の交換比率は、海外では金の価格が日本よりも3倍も高いものでした。この比価の違いが、日本からの金(金貨)の大量流出を招いていたのでした≫

≪小栗は、フィラデルフィアの造幣局の一室で、日米貨幣の金含有量をそろばんと天秤ばかりで瞬く間に計算し、周囲を驚かせるとともに、こうした不公平さをアメリカ側に納得させたのでした。

これで小栗のアメリカ側の評価が一躍高まります。それまでの目付を直訳した「スパイ」から、小柄ではあるが威厳と知性と信念が不思議に混ざっている男として、また「NO」をはっきり言える人として見直されたのでした≫

しかし、小栗はアメリカ側に金貨(小判)の価値は認めさせることができたものの、是正交渉の権限は遣米使節に与えられておらず、アメリカ側もそのような交渉はなるべく避けたい意向が働いて、本格的な是正交渉にまでは至らなかったが、小栗の鋭い思考を持つ人物だと評価できる。

さらに『小栗上野介と横須賀』は小栗の功績を以下のようにまとめている。

≪小栗は横須賀製鉄所のほかにも、鉄道建設(江戸~横浜間)、国立銀行、電信・郵便制度、郡県制度の創設や、また商工会議所や株式会社組織など近代的な経営方法をも発案していました。

これらは明治以降、新政府の手で次々に実現され、急速に近代国家としての形を整えていきましたが、その陰には小栗が旧弊を打破し、近代国家に向けて推進しようとしていたことが、浸透し始めていたことを忘れてはなりません≫

≪明治・大正の政界・言論界の重鎮であった大隈重信は、後年「小栗上野介は謀殺される運命にあった。なぜなら、明治政府の近代化政策は、そっくり小栗のそれを模倣したものだから」と語ったといわれています。

現代にも通じるものがある激動期の幕末に、類まれなる先見性と行政手腕を発揮した小栗の功績は、近年あらためて見直されています。横須賀市では、毎年式典を開催し、小栗の功績をたたえています≫

この讃えた結果が、横須賀市内にいくつもある小栗の胸像なのである。

これは小栗の死が「祟る」と考えて胸像化したのではなく、明らかに製鉄所建設を推進した行為に対する「顕彰」として作られたのであろう。

近代以前、特定の人物を神に祀り上げるという習俗には、二つの類型があって、一つは「祟り神」タイプ、もう一つは「顕彰神」タイプであると『神になった人々』(小松和彦著、知恵の森文庫)は述べ、次のように解説する。

 ≪「祟り神」タイプは古代から現代まで連綿として続くもので、祟る者の「たましい」を神社などの信仰施設を作って、そこに「神」として祀り上げることで、その祟りを鎮めようとしたものである。

 これに対して、「顕彰神」の方は、比較的新しいタイプで、中世末から近世初頭あたりに始まった信仰形態で、天寿をまっとうした者であれ、不慮の事故などで人生半ばで亡くなった者であれ、その生前の偉業を顕彰し後世に伝えたいという思いから、神社などの信仰施設を作ってその人の「たましい」を神に祀り上げたのである。

 前者のタイプの典型が菅原道真を祀った北野天満宮であるとすると、後者のタイプのそれは徳川家康を祀った「東照宮」である≫

 「顕彰神」タイプは「人神神社」で、これは近世以降に生み出されたものがほとんどで、為政者だけでなく、民衆の側からも建立されているので、その数も多い。

 『郷土を救った人びと―義人を祀る神社―』(神社新報社 1981年出版)には、民衆からその偉業を称えられ、その記念・記憶のために神として祀られた人物を祭神とする120社におよぶ大小の神社が紹介されている。また、神社本庁の「人臣神社」(人を神として祀った神社)の調査によれば、全国に四千にも及ぶ人を神に祀った大小の神社があるという。

小栗を「顕彰神」として、横須賀市は胸像を建てたが、『小栗上野介と横須賀』に記されたように、その功績は日本全体の近代化に大きく貢献しているし、司馬遼太郎も「明治という国家」(NHKブックス)の中で、小栗を「明治の父」と讃えている。

 ならば小栗の生前の偉業を顕彰するためには、横須賀市に止まるのではなく、日本国家としての「顕彰神」にすべきではないか。

 しかし、現実は一地方行政下での功績扱いにとどまっているが、鉄舟と比較すると胸像によって「顕彰神」になっているだけ「まし」である。

 鉄舟の2大功績は「江戸無血開城」と「明治天皇の教育」であるが、現状としては全国的な「顕彰神」として祀られていない。なぜなのか。これについても次号以降も検討していきたい。

2019年10月25日 (金)

2019年11月例会

2019年11月例会は16日(土)に、堀越直子氏による「上野~谷中 歴史散策」を以下のように開催いたします。

堀越氏は「台東区観光ボランティアガイド会」公認ガイドとしてご活躍されておられ、次のようなメッセージをいただいております。

「『上野』、そこはまさに歴史の宝庫! 東叡山寛永寺・彰義隊の戰さ跡・上野東照宮・世界文化遺産の西洋美術館など、江戸から発せられた文化が今も脈々と息づいている「お山」。

『谷中』、霊園には様々な分野の著名人が眠り、「あんこが寺で皮が町屋」のようなまんじゅうが百ちかくくっつきあったような街、懐かしい長屋の家屋に郷愁をおぼえる「街並み」。

歴史を紐解きながらの散策は如何でしょうか?

           日程    20191116()

           時間    1330分~20時頃まで(懇親会含む)

           集合    東京文化会館楽屋口前 1330分にご集合下さい

           懇親会会場 谷中・よみせ通り「山ぎし」17時頃~

(1116日に以下の工事が行われますのでご注意願います)

JR東日本は、1116日に高輪ゲートウェイ駅開業に向けた工事の一環として、山手線(内・外回り)と京浜東北線(大宮方面)の線路切換工事を実施。

 初電から16時ごろまでは、山手線の大崎駅~東京駅~上野駅間と、京浜東北線の品川駅~田町駅間が運休となる。これをカバーする形で、上野東京ライン、埼京線、りんかい線が増発で運行する。

16時ごろから終電までは、京浜東北線の品川駅~田町駅間が運休となる。山手線は18時ごろまで通常の7割程度、それ以降は通常運行となる。

同日中は、東京メトロ、都営地下鉄、東京臨海高速鉄道りんかい線、東急線、京急線の全線で振替輸送も実施される。

なお、荒天などで同日に実施できない場合は、12月13日~15日に延期される。

 

2019年12月例会は山本紀久雄が発表いたします。

         発表者   山本紀久雄 

        テーマ  「聖徳記念絵画館『江戸開城談判』壁画の怪」(その二) 

        日程    20191218()   

        時間    1830分~20

   会費    1500

   会場    東京文化会館・中会議室1

9月例会の聖徳記念絵画館で鑑賞した『江戸開城談判』(結城素明画)、          

  • これは「正史」なのか、それとも「作られた歴史」なのか、
  • または「ノンフィクシヨン」なのか、それとも「フィクション」なのか

2019年7月の発表に続いて、様々な角度から分析・研究した結果の「その二」を発表いたします。       

 

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