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2024年5月24日 (金)

2024年6月12日(水)例会開催

2024年612()は山本紀久雄から「明治天皇と山岡鉄舟()」について発表いたします。

  日程    2024612()

  時間    1830分~20

  会費    1500

  会場    東京文化会館・中会議室1

 

  ところで、最近、皆さんから「腰、膝、踵が痛い」などお聞きしています。

  そこで6月例会の前半部分で、以下の内容について触れます。

  鉄舟はご存じのように宮内省勤めの時、休みに握り飯を腰に三島龍澤寺まで歩いて禅修行に往復しました。

  この遠距離歩きは何故に可能だったのか。現代人が陥っている「足腰の痛み」は鉄舟になかったのか。

  鉄舟と現代人では、異なる「歩き方」をしていたはず。

  その「歩き方」はいかなるものだったのか。

  鉄舟は、人間骨格の自然原理に基づく歩き方だったと想定し、この視点から鉄舟研究の新たなる一面として「江戸・明治中期までの歩き

  方」をお伝えするとともに、「現代人の歩き方」との違いについてふれます。

潮見佳世乃氏がコンサート開催

  当会の潮見佳世乃氏が2024519()に千葉文化センターで、源氏物語宇治十帖より「浮舟」歌物語コンサートを開催されました。

 はじめに、潮見さんより、今回のテーマについて解説があり、「ピアノ」「尺八」「箏」伴奏による潮見節の熱唱、会場内大変な盛り上がりで満席でした。

岡崎妙春氏が「剪画」個展開催

   当会の岡崎妙春氏が目黒区自由が丘「ギャラリー 古桑庵」にて「剪画(せんが)」個展(2024年5月9日~14)を開催。盛況裡に終了致しました。

 当会からも大勢の方のご鑑賞・ご観覧、感謝申し上げます。

2024年5月例会開催結果

山岡鉄舟研究会2024515()例会は森真沙子先生からご発表いただきました。

 森先生は今月『大川橋物語 「名倉堂」一色鞍之介』(二見書房)を出版されました。

  Photo_20240524095301

 例会で、この物語の時代背景について解説されました。

  • 大川(隅田川)に最初の橋が架かったのは文禄3(1594)の「千住大橋」。慶長8(1603)徳川家康の江戸幕府開府より9年前。
  •  
  • 隅田川には江戸時代までに「千住大橋」「両国橋」「新大橋」「永代橋」に続いて「大川橋(吾妻橋)」が安永3(1774)に民間の手で架けられ、明治初年に「吾妻橋」と名を変えた。
  •  
  • 小説の舞台は十一代将軍・家斉の大御所時代の化成期。寛政改革から天保改革まで、五十年に亘る長期政権と、四十数人の側室と、五十三人の子沢山で有名。その贅沢三昧で、国家財政は破綻寸前となる。天保期に入ると全国的な大飢饉、大塩平八郎の乱、外国船モリソン号事件等々、家斉は悪名高い将軍だったが、その”自由すぎる”治世下で、町民文化は最盛期を迎えた。
  •  
  • そんな化政期に花開き、大流行したもうひとつのもの。それが「骨つぎ名倉」である。戦のない時代になって、逆に注目されたのは、殺すよりも生かす道の、救急処置法だった。そんな“再生”の道にいち早く着目したのが、鎌倉武士「畠山重忠」の末裔、名倉直賢(1750~1828)である。
  •  
  • 柔術から「殺法」を切り離して、「活法」のみを体系付けたのが『名倉流正骨術』で、千住の地に開いた『骨つぎ名倉堂』は、日本で最初の接骨院となる。さらに直賢は、“医は仁術なり” の日本古来の伝統を受け継ぎ、人助けを家訓として、鳶の者、芸人、相撲取、役者・・・からお代を取らなかった。そんな剛直な姿勢が評判となり、骨つぎ名倉は一代にして江戸で名声を馳せることになる。”名倉”の名は、打身や骨折の代名詞にまでなり、“どぶ板で名倉(なぐら)れましたと駕籠でくる” と川柳にも詠まれた。
  • 文政から天保のころには、『とっちりとん』という俗謡が大流行し、お座敷でよく唄われ、昭和の時代にまで唄いつがれたという。

   〽️夏の夕立それ稲妻が そりゃこそがらがらぴっしゃりと

           お臍めがけて光りやす 雲の隙間を踏み抜いて

           屋根や木の枝きらいなく そこらあたりへ落っこちて

          腰の骨をばぶん抜いて 

         大坂町の名倉で ちょっとなおった

ここで登場したのが令和の歌姫「潮見佳世乃」さん。当時を彷彿させる語り声音に「さすが!!」。会場から声かかる。

  • 『大川橋物語』は、主人公・一色鞍之介の“神の手”が登場し、颯爽と問題を解決していく。第一話から第五話までお楽しみください。

 

 小説の背景を作者から直接に伺えるという機会はなかなかなく、今回はその貴重な体験例会でした。

 森先生の愛読者も例会にご出席いただき、充実した例会でした。

 森先生、潮見さん、それと巧みなPP演出の井田さんに感謝申し上げます。

  最後になりましたが、森先生から新著を出席者に贈呈いただき、重ねて御礼申し上げます。

2024年4月26日 (金)

2024年5月15日(水)は森真沙子氏からご発表いただきます。

2024年515()は森真沙子氏からご発表いただきます。

    テーマ 「大川橋・名倉流骨つぎ」師、江戸を生きる

    日程    202515()

    時間    1830分~20

    会費    1500

    会場    東京文化会館・中会議室1

森真沙子先生の日本橋、柳橋と続いたヒット連載小説「橋シリーズ」、今回から「大川橋」として登場。

江戸で初めて接骨院を開いたのは鎌倉武士「畠山重忠」の末裔・名倉直賢で、「名倉骨つぎ術」は江戸で大評判となり、”名倉”は、打身や骨折の代名詞までになった。新シリーズの主役は「名倉流骨つぎ」商売の若者。

「大川橋」の創架は安永7(1774)、江戸時代に民間の手で隅田川に架けられた民間橋。明治初年に「吾妻橋」と名を変えました。

喜多村園子氏の講演報告

新潟県阿賀野市の喜多村園子氏が2024年4月21()に、テーマ「幕末の志士から良寛敬慕者へ 小林二郎の業績と生涯」(主催「新潟良寛会」、会場・新潟市中央区礎町「クロスパルにいがた」)にて講演され、以下のように参加者から感想をいただきましたのでお伝えいたします。

 

  • 何よりも研究対象にかける先生の熱い思いと瑞々しさに感動して聞かせていただきました。(新潟青陵大学特任教授 伊藤充先生)
  • 「江戸無血開城」の真実が判ってよかった。」(新潟良寛会会員)
  • 山岡鉄舟が大好きで、『山岡鉄舟』(大森曹玄著)を読んでいたが、小林二郎が鉄舟の弟子だったとは、驚いた。(良寛会会員 能楽協会会員 宝生流師範)
  • こんな素晴らしい人小林二郎が、新潟にいたとは。全く知らなかった。(良寛会会員)
  • 良寛のことがこのようにして広がったのですね。大変よくわかりました。(参加者)

 

喜多村園子氏からは「地元新潟で「小林二郎」についてお伝えすることができ、ようやく本望が達せられました。感謝しております」とのコメントが届いております。

喜多村氏による小林二郎についての出版は、『小林二郎伝』(小学館スクウェア2018) {続・小林二郎伝』   (小学館スクウェア2022)

の二書です。

 

2024年4月20日(土)は羽村市の禅林寺にて例会を開催

 2024年420()は羽村市の禅林寺にて例会を開催いたしました。

  • 青梅線の羽村駅に1330分集合、禅林寺の岡崎啓純住職のお出迎えを受け、最初に禅林寺境内の高台に位置する『大菩薩峠』の作者中里介山居士の墓へ参りました。

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   (中里介山墓)                              (羽村取水堰)

  • 次に向かったのは「羽村取水堰」。玉川上水の出発点で、承応2(1653)年に羽村から新宿四谷大木戸まで開削された。洪水などの時には、投渡木といわれる材木を横に渡したものを取り払い、堰が流されないよう工夫されています。

 

  • 「羽村取水堰」から禅林寺に戻り、寺内が書道博物館になったかと思うほど壁一面に、鉄舟、海舟、泥舟、西郷隆盛などの書が展示されている中で、ご住職から詳しい解説をいただきました。

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      (ご住職の解説)                             (全員で記念撮影)

  • 講堂において、ご住職から「鉄舟が行じた禅とは何か」、「禅とは今ここ」「世界で通用するZEN」「武士と禅」「茶と禅」「俳句と禅」等についてご法話をいただき、鉄舟書「国泰寺復興千双屏風」(明治14年・1881)をバックに参加者全員で記念撮影いたしました。

 

  • 充実した例会で、参加者から以下のコメントが寄せられておりますので、ご紹介いたします。

 

  • 「土曜日は大変素晴らしい1日を過ごさせていただきました。午前中はじっくり郷土博物館を見学。取水堰のあんな間近に行けるとは思いもよらず、立川市の玉川上水のほとりに知り合いがおり、そこへ行く時にいい散歩道だなぁぐらいに思っておりました玉川上水の、まさに始まりを見ることができたのは興味深いものでした。

   また豪華な書の数々を惜しげもなく拝見させてくださり、しかも写真まで撮らせて頂いて、重ねてお礼申し上げます。同じテーマ、例え

   ば髑髏や達磨でも書き手によって味わいが変わるのをゆっくり観察できて面白かったです。

   終戦直後、日本の孤児たちを助けたお坊さまの書も人格が滲み出ている気がしました。鉄舟先生の書の迫力に圧倒されましたが、お坊さ

   ま方々の書も私は好きです。孤児を助けたお坊さまのご本は取り寄せて読みたいと思います。

   今、思い出しても本当に贅沢な時間を頂戴いたしました。心から感謝申し上げます。この機会がなければ羽村に伺うこともなかったし、

   羽村から玉川上水が始まったこと、それも江戸初期に大工事をしたことも知らないままでした。

   素晴らしい書の数々も拝見することはなかったですし、鉄舟先生が色々な復興支援のために大量に書を書かれたことも知らずじまいにな

   るところでした。本当にありがとうございました」

 

  • 「土曜日は、先ず現代の我々までお世話になっている歴史的な羽村取水堰の見学をしました。それから、由緒ある禅林寺を訪問、参詣させていただきました。

   まことにありがたい深いお話、禅と武士、茶、俳句までいかに禅が影響を与え、禅が精神的土台になっているかのお話、知らなかったお

   話を詳細に教えていただきました。

   また、本堂の大きな三舟の書から西郷の書まであり、圧倒されました。まるで美術館のようでした。全く書はわかりませんが、それぞれ

   書跡がちがって、臨場感があり、目を見張りました。読めないのがもどかしいでしたが・・・。

   まさに禅が日本文化の真髄にあると感じいり、とても楽しい一日でした」

 

   このような例会が開催できましたこと、すべて禅林寺・岡崎啓純住職のおかげです。改めまして、ありがたく心から感謝申し上げます。

 

2024年4月 1日 (月)

2024年4月は20日(土)に羽村市・禅林寺で例会を開催いたします。

2024年4月例会は羽村市「禅林寺」参拝・訪問

日時 2024420() JR青梅線「羽村」駅前に1330分集合

     (ご参考)中央線東京発12:21発 立川13時着 青梅線に乗換 立川発13.03発 羽村13.21

羽村到着後の行程 

    羽村駅から徒歩にて「羽村取水堰」⇒「禅林寺」参拝と境内散策後

    岡崎恭山ご住職ご法話⇒「羽村」駅近くで懇親会。

    19時頃羽村駅にて解散。  

    興味ある方は午前に「羽村市郷土博物館」へ。

2024年3月例会開催結果 「鴎外と脚気――その事実と責任の取り方」

2024年3月27日()例会は、山崎一穎(かずひで)氏から「鴎外と脚気――その事実と責任の取り方」についてご発表いただきました。

山崎一穎氏は跡見学園女子大学名誉教授、森鷗外記念館(津和野)館長。

森鷗外は文久21(1862)- 大正11(1922)7月)。明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、教育者、陸軍軍医、官僚。位階勲等は従二位・勲一等・功三級、医学博士、文学博士。石見国(島根県)津和野出身。

 (講演要旨「鴎外と脚気・・・その事実」

 日清・日露戦争で陸軍は多くの脚気病死者を出した。海軍は高木兼寛指導のもとで、白米と麦の混食、あるいはパン食(兵には評判が悪かった。日本人は白米を好んだ)に切りかえ、脚気病死者をごくわずかな人数まで減数した。 

 海軍の高木兼寛は鹿児島医学校(私学)で、イギリス人の医師ウィリスに学んだ。イギリス医学は臨床を重んじ、対症療法で患者に臨んだ。

 鴎外は東京大学(官学)で、ドイツ人医師ベルツに学んだ。ドイツ医学は病理学を重んじ、あらゆる病の基は細菌だと考える。脚気は脚気菌によると考えている。ローベルトコッホもこの考えに立っている。脚気菌を発見することが、脚気病を治すことになると考えている。この説は東京大学から陸軍上層部へと受け継がれている。石黒忠悳医務局長、小池正直、森鴎外、皆同じ細菌説に立ち、米と麦の混合で減数化に成功した海軍に対しては、学理的に原因、結果が不明であって、学問的でないと否定している。

 私学、官学の対立、薩摩の海軍と、長州の陸軍の対立、臨床と学理との対立等が脚気に対する解決を遅らせている。

 日清・日露戦争時、鴎外は第二軍の軍医部長である。トップではないが、戦場の最終責任者である。鴎外の職務上の責任は逃れ難いと私(山崎)は考える。鴎外にも、その自覚はあったと思う。何故ならば、戦後明治40(1907)46歳、11月に軍医総監、陸軍省医務局長(陸軍中将相当官)に就任した。医務局のトップである。鴎外の上司は陸軍省の次官、陸軍大臣である。

「責任の取り方」

 鴎外は日露戦争における戦死者の60%が脚気病死であるという現実を踏まえて、脚気病調査会を立ち上げることを決意する。

 鴎外の調査会構想は、脚気の研究部門と予防部門である。研究領域は文部省管轄であることが省令で定まっている。予防の領域は内務省と決まっている。タテ割り行政をやめてオールジャパンの組織を作ることを考えていた。しかし、単純にはいかないことも十分承知していた。省庁の特権を冒すことになるので、陸軍省と文部省、内務省、海軍省とも対立することなることは眼に見えている。 

 そのために鴎外は人事異動で第5師団(広島)の軍医部長大西亀次郎を本省の衛生課長に抜擢した。日清戦争時(189495)、広島に脚気病患者のみ入院させる専門病院を設置した。その時の病院長である。

 鴎外は現場を知る大西を脚気病調査会の事務局長として文部省等の役所との対応にあたらせるために鴎外直属の衛生課長とした。

 鴎外は調査会設立を次官を飛ばして(問題はあるが、ここで反対されれば大臣まで上申できないので)直接寺内正毅陸軍大臣に自己の素案を上申して設置の許可を取った。

 鴎外の原案を大西を通じて法制局長官岡野敬次郎と協議する。

 明治41(1908)425日付、岡野敬次郎名の脚気病調査会設立までの、経緯を記録した公文書が残されている。

 文部省、内務省は正面から反対論を述べる。海軍は脚気は解決済みであるので、陸軍がやるのは勝手だが、海軍を巻き込まないでくれという。

 鴎外は東大教授で医科大学学長の青山胤通と、伝染病研究所長の北里柴三郎に調査会が出来たら顧問格で入ってほしいと、根回しして承諾を取っている。

 最終段階で文部大臣の牧野伸顕が承諾の印を押さない。鴎外は強引に進める。「脚気病調査会」に「臨時」を付け、陸軍省も一歩引く。さらに調査会は陸軍大臣の監督下あることを明示した。陸軍省が責任を持つからという意で、何か起きれば、財政上の問題を含めて陸軍が責任を負うことで納得させた。

 牧野文部大臣の印のないものを明治天皇に上奏して、天皇の裁可を取った。陸軍の兵員の減少を防ぐことを強調した結果である。

 鴎外の発議で臨時脚気病調査会は発足する。会のメンバーは学閥を超えて、オールジャパンの布陣を引いた。

 第1回調査会で寺内陸相は、自分が脚気であったこと、麦飯で回復したことを述べる。かつて戦場で部下に麦飯を出したところ、石黒忠悳医務局長に叱られたことを述べ、ここにいる森局長(鴎外)も石黒と一緒に私を詰問した一人であると、言い添えた。

 鴎外と寺内の関係は良い。この間、鴎外は文部、内務の役人から嫌われている。寺内が森を批判することで、鴎外の強引さに不満があった役人も少しは溜飲が下がったのではないかと私(山崎)は感じている。別の言葉でいえばガス抜きである。

 ビタミンの発見の歴史を見ると、バタビア(ジャカルタ)の病理研究所長Ⅽ・エイクマン(オランダ人)が、1896(明治29)白米で飼育した鶏が脚気のような症状を呈し、米糠を加えることで症状が改善することを発見した。これがビタミン発見の第一歩である。

 鴎外を会長とする臨時脚気病調査会もバタビアへ3名の医師を調査に行かせたが、成果はなかった。帰国後、都築甚之助二等軍医・習志野の陸軍病院長が細菌説を疑い、明治43(1910)動物実験で米糠が予防と治療に役立つことを発表する。

 明治43(1910)、鈴木梅太郎が米糠からオリザニンを抽出。これがビタミンと同じである。翌年、ポーランドの医師フンクが、米糠が鳥類白米病に有効な物質を抽出し、これを生命vitaに必要な物質アミンamineという意味でビタミンvitamineと名付けた。

 鴎外は大正54月陸軍省を退任する。それまで会長を務め、以後も調査会の委員として大正117月死去するまで、委員会にはすべて出席している。これも責任の一端である。

 第3回委員会(明治418)に鴎外はドイツ医学会総会で発表された脚気に関する論文を翻訳して委員全員に配布している。細菌は未だに発見されない。日露戦争の状況を見ると、栄養と関係が深いと会長代理のノホト教授が発表。続いての発表者も栄養説である。遂にドイツ医学会も脚気に関しては細菌説に疑問を呈し始めている。

 高木兼寛も森鴎外も栄養学の成立しない時代の人であった。高木は大正10年、鴎外は11年に死去する。この時点で二人とも脚気はビタミンBの欠乏であることを知ることになった。鈴木梅太郎がオリザニンからビタミンBを抽出し、それが欠乏すると脚気になることを発見する。大正12年である。

「まとめ」

 鴎外の責任の取り方は、脚気病調査会を設立し、委員を学閥を廃して選出した。第3回委員会でのドイツ医学会の状況〔脚気栄養説〕を翻訳資料として配布する公平さ。(恐らく鴎外はこの時点で脚気病は栄養欠乏によるものであると認識したと思われる) そして死去するまですべての調査会の会議に出席し、その情報によってビタミンBの欠乏まで理解したという点にある。脚気病調査会を強引に設置したため、後日、文科省のしっぺ返しにあっている。それを覚悟で鴎外は調査会設置に努力した。これ以外、鴎外にとって責任の取り様はなかったと思う。
                                                                                                                        以上

 (追記)

大正8(1919)4月、東京帝国大学教授の島薗順次郎が日本医学会総会で、脚気が白米食によるビタミン欠乏であることを容認する報告をした。

東京帝国大学が大正8(1919)脚気病細菌説からビタミン欠乏説への転換の年として記憶されるべきことである。

 

以上のご講演要旨のように、詳細なるご発表を賜った山崎一穎氏に深く感謝申し上げます。

2024年2月26日 (月)

2024年3月は山崎一穎(かずひで)氏からご発表いただきます。

2024年3月は山崎一穎(かずひで)氏からご発表いただきます。

    テーマ  「鴎外と脚気――その事実と責任の取り方」

    日程    202327(4水曜日)

    時間    1830分~20

    会費    1500

    会場    東京文化会館・中会議室1

 

山崎一穎氏は跡見学園前学長、日本近代文学研究者、森鷗外記念会会長、森鷗外記念館(津和野)館長。

*鴎外の祖父、森白仙は、参勤交代の帰国の途次、土山宿(滋賀県)にて脚気衝心(脚気が進行して心臓を侵すこと)で死去。脚気は精白米を常食とする民族に多く発症。享保年間(1716~36)江戸で大流行し、当時「江戸煩い」と呼ばれた奇病。ビタミンB(チアミン)の欠乏による疾患でビタミン発見の端緒となった疾患の一つ。栄養障害。

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