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2020年6月26日 (金)

2020年月7月・9月例会のご案内

新型コロナ問題で、長らく東京文化会館の会議室利用が制限されておりましたが、この度、再開利用可の連絡が参りましたので、9月16日(水)例会から東京文化会館会議室で開催いたします。
勿論、利用に当たっては以下の制限がありますので、ご参加される方はご協力の程お願い申し上げます。

  20209
 
9月例会は東洋大学の岩下哲典教授に講演いただきますが、そのテーマは「勝海舟記念館所蔵大久保一翁書状および付属の慶喜書状から読み解く、山岡鉄舟の駿府大総督府発向の経緯」でございます。
 そこで、岩下教授のテーマであります勝海舟記念館の見学例会を7月18日(土)に開催いたします。

Ⅰ.2020年7月例会について
 7月例会は大田区立勝海舟記念館の見学です。ここは国登録有形文化財である旧清明文庫を活用し、令和元年9月に開館し、海舟の功績や大田区との縁を紹介しています。
  開催日時  2020年7月18日(土)14時記念館前に集合、16時解散
  場所    〒145-0063 東京都大田区南千束二丁目3番1号
      電話         03-6425-7608
  交通    【電車の場合】東急池上線「洗足池」駅下車徒歩6分
                       【バスの場合】東急バス「洗足池」徒歩6分
  入館料   300円(各自お払い)

Ⅱ. 2020年9月例会について。
9月例会は東洋大学・岩下哲典教授から講演いただきます。

     講演    岩下哲典教授 
     テーマ   「勝海舟記念館所蔵大久保一翁書状および付属の慶喜書
                      状から読み解く、山岡鉄舟の駿府大総督府発向の経緯」
     日程    2020年9月16日(水)
     時間    18時30分~20時
  会費    1500円
  会場    東京文化会館・中会議室1

東京文化会館で久し振りの例会です。皆様とお会いできますこと楽しみにいたしております。

神にならなかった鉄舟・・・その九

明治神宮外苑に建つ聖徳記念絵画館は、平成23年(2011)に重要文化財に指定され、この絵画館の中に80点の壁画(縦3メートル・、横2.7メートル)が整然と並んでいる。
そのひとつが、山岡鉄舟が重要な役割を担った江戸無血開城をテーマに画家・結城素明が描いた『江戸開城談判』である。
絵画館の内部空間は、中央の大広間から左右両翼に回廊がのび、正面向って右翼側(東側)の第一画室と第二画室に日本画40点、左翼側(西側)の第三画室と第四画室に洋画40点が並んで展示されているのであるから、「美術館」と称されてもよいと思われる。
しかし、ここはあくまでも絵画館なのである。それは成り立ちの特異性にある。通常、美術館や博物館はコレクションが存在しており、その収蔵ほかを担う建物として社会的に要求されたという性格が存在する。

だが、聖徳記念絵画館は施設を建設しようと決定した時、まだ展示する絵画を持たず、これから制作しようという手順で進められたものであるから、美術館や博物館とは、その成り立ちの性格が異なる。それゆえに絵画館に位置付けられるのである。
『明治聖徳記念学会紀要復刊第11号』(林洋子氏論文 平成6年4月)は以下のように絵画館の絵についてこう酷評する。
≪これらは決して同時代のベストメンバーらによって描かれたのではなく、芸術の領域から離脱したような「紙芝居」のような作品が大半となっている≫
林氏は美術品とは認められない作品が並ぶと主張する。しかし、この絵画館の壁画は「とても無視できない歴史画」と認識せざるを得ない。
それを指摘しているのが川井知子氏の『明治神宮聖徳記念絵画館研究』(哲学会誌第21号平成9年11月学習院大学哲学会)である。
≪自らの史料的価値を標榜した絵画館目論見は、成功しているといってよいだろう。「壁画」は、視覚的メディアを通じて、絵画館の外へと拡散、増殖し、各所で機能していくことになるのである。「壁画」の拡散は、師範学校で使用される国定国史教科書の挿図として用いられことに始まる。そして現在でも、「壁画」は多くの書物に「史料」として、あるいは「史料」と見まがうような形で掲載されている≫
≪絵画館の「壁画」は、教科書をはじめとした、日常的に、不特定多数の人々に触れるメディアによって、「作られた歴史」から、「疑うべくもない正史」となってきたのであり、今後も「史料」として用いられる限り、「正史」として振る舞い続けるであろう≫
その通りで、『江戸開城談判』も教科書に掲載され、「正史」として扱われているのが現実実態である。

もう少し聖徳記念絵画館の特徴について検討してみたい。
角田拓朗氏は『聖徳記念絵画館の美術史上の存在意義再考』(『神園(かみぞの)』 第15号 平成28年5月明治神宮国際神道文化研究所)において以下のように述べている。
≪当時の展示施設と比較したとき、絵画館は美術館というよりはむしろ明治後半に隆盛を見せたパノラマ館に類似することが容易に想像されよう≫
≪大画面絵図、建築空間内での一覧性といった特徴がパノラマ館にはあり、明治30年代の日本で流行した理由は、特に日清日露戦争などスペクタクルを現前化することにあった。その主要な担い手のひとりが、壁画画題考証図を描いた二世五姓田芳柳だったことも奇妙な縁である≫
このように聖徳記念絵画館の特徴は、ギャラリー機能を持つ絵画館であり、明治後半に隆盛を見せたパノラマ館に類似するというのだ。

では角田氏が「奇妙な縁」という二世五姓田芳柳が、画題に応じた『下絵』と『画題考証図』の描き手となった背景要因には何があったのだろうか。
これについては横田洋一氏が『明治天皇事績をめぐって--二世五姓田芳柳と岸田劉生』(「近代画説・明治美術学会誌」平成12年12月)で以下のように述べている。
≪二世芳柳を絵画館の嘱託にするに当たっては明治美術会の出品以来、彼が歴史画に長けていたこと、パノラマなどで大型のドラマ性の強い作品を制作していたこと、特に明治44年農商務省の嘱託として英国に渡り、日英博覧会で日本の古代より現代に至る風俗変遷図を描いたことなどが採用の要因となったと見るのは当然であるが、最も強い要因として「天皇像を描き続けた一門の伝統を受け継ぐ二世芳柳」をあげたい≫
この芳柳一門の伝統については以下のように述べている。
≪聖徳記念絵画館と二世五姓田芳柳との結びつきの主たる要因はいわゆる五姓田派が明治7年の初代五姓田芳柳の「明治天皇像」以来、天皇像を描き続けたことにある≫
≪初代芳柳が描き、五姓田義松(長男)も皇后を描き、五姓田勇子(渡辺幽香・娘)も父の模写であるが天皇像を描いた五姓田一門、その一門の誉れ高い正統な方法を二世は完璧に受け継いだ。昭和になっても明治天皇及びその一代記を描き続けた。昭和六年の二世芳柳の個展にも明治大帝の御一代記を出品している。さらに芳柳は明治天皇事績画だけの作品で関西方面を巡覧する展覧会をおこなっているというから、かつて芳柳・義松親子が浅草奥山でおこなった油絵見せ物興行に相通じるところをまだ持ち続けていた≫

ところで、横田氏の論文タイトルに『岸田劉生』とあるのはどういう意味なのか。論文には、岸田劉生が黒田清輝から会合を希望する手紙を受け取り(大正12年2月)、黒田が壁画制作画家の選定に参画しているので、自分が壁画制作を頼まれると思いこみ、勇んで黒田との会合に行ったところ、早稲田大学講堂の寄付金を集めるための展覧会に絵を提供してくれ、ということだったのでがっかりしたということが書かれている。
なお、岸田は二世芳柳に対して「江戸の旅絵師のやり方の延長線上にある」と述べていたという。自分の画風とは対極に位置するという感覚を持っていたのだろう。

ここで聖徳記念絵画館壁画『江戸開城談判』が描かれるもとになった『下絵』と『画題考証図』を紹介したい。
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『下絵』画題「無記名」 画家名「二世五姓田芳柳」 所蔵「茨城県近代美術館」

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『画題考証図』 『明治神宮叢書第20巻図録編』 発行者 明治神宮社務所

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画題名『江戸開城談判』 画家名 結城素明 所蔵 聖徳記念絵画館
 
なお、二世五姓田芳柳は絵画館の壁画をもう1点制作している。80点のうち50番目の『枢密院憲法会議』で、奉納者は公爵伊藤博邦である。
 二世五姓田芳柳についてもう少し詳しく触れていくことが壁画全体への理解につながると考えるので、以下、角田氏の『聖徳記念絵画館の美術史上の存在意義再考』を参照して見ていきたい。
 ≪元治元年(1864)、現在の茨城県坂東市沓掛に生まれた倉持佐蔵の六男として生まれた子之吉がのちの二世芳柳である。明治十一年(1878)に上京、程なくして当時浅草に本拠地を構えていた五姓田工房に入門したと考えられる。すぐにその素質を一門の頭領だった初代五姓田芳柳(1827—92)に見出されたのだろう、入門からわずか二年後には養嗣子として迎えられ、五姓田芳雄と氏名を改めた≫
 ≪初代芳柳は幕末に独学に近しいかたちで技術を身につけ、明治初頭の横浜で工房を設け、西洋画の雰囲気に似せた作風を得意とした。近世絵画までには積極的に描き込まれなかった陰影を用いることで、現実再現性を重視する描写、つまり西洋絵画を模した作風で人気を博した。しかし彼が用いた画材は、現在でいうところの日本画である。当時も洋画元祖のように宣伝していたが、現実には油彩画や水彩画などの洋画を描いたわけでない≫
 実際は日本画でありながら洋画技術を取り入れたというのである。
 ≪それを教授したのが、初代芳柳の次男、二世芳柳の義兄にあたる義松(1855—1915)だった。義松はわずか十歳で横浜居留地に住んでいたイギリス人報道画家チャールズ・ワーグマンに入門。その当時、日本国内で西洋絵画を西洋人から直接学ぶ機会を得た一人だった。さらに師の手ほどきをうけたのち自然を手本とし、またたくまに西洋人と同等の技量を身につけ、明治4年には横浜居留地の外国人向けに制作販売を開始しているほどだ≫
このように五姓田派の後継者として明治20年代以降活動したのが二世芳柳で、工房自体は初代芳柳が明治25年に没した後は実質的に解体したが、初代五姓田芳柳が「明治天皇像」を描き、以降も天皇像を描き続け、長男・義松も皇后を描き、娘の渡辺幽香も父の模写であるが天皇像を描くという、その一門の誉れ高い正統な方法を二世芳柳は完璧に受け継ぐことで、下絵と画題考証図の制作担当として選定されたと思われる。
さらに推測できるのは、パノラマ的大画面の制作に秀でていたこと、当時の洋画界を二分した白馬会と太平洋美術会に属さず、トモエ会という同人組織ともいうべき小規模な集団で活動していたことも選定の理由と思われる。
つまり、二世五姓田芳柳の画界での孤立性。これが絵画館の最終的に開設出来た一因ではないかと角田氏は強調する。
さらに、一人の画家に一任したということにより、一貫性を保ち、一定の成果を得ることが出来たのだともいう。
この二世五姓田芳柳が描いたパノラマ絵が、日本赤十字社東京支部(東京都新宿区大久保1丁目2番15号)の1階に展示されているということを知った。
それは『芸術新潮』(新潮社)の平成2年(1990)11月号の記事を読み、日本赤十字社に問い合わせしたところ、同社の東京支部に掲示されていると連絡をいただいたからである。
『芸術新潮』には以下のように書かれている。
≪大震災の悪夢にただ逃げまどう群衆、そして救難に奔走する日赤救護班・・・。今回の「日本赤十字社所蔵絵画展」は、同社の創立百周年(昭和52年)に画家有志から寄贈された現代絵画を中心とした展覧会(9月22日~10月21日 東京ステーションギャラリー)。
だが、会場で最も異彩を放っていたのは、おそらく大正期から同社が秘蔵する二世五姓田芳流のこの大作だった≫
≪明治以来の「パノラマ」の大画面を思わせる生々しく徹底した情景描写は、周囲の現代画を圧していた。二世五姓田芳流は日赤特別社員で同社委嘱の絵も多いという≫
そこで早速、日本赤十字社東京支部にお伺いした。1階正面入り口から入ると、広いロビーの向かい壁に大きな額に入った絵が飾られている。許可をいただき筆者が撮影した。

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 額の下部に≪大正15年フィラデルフィア開催米国独立百年記念展覧会出品「関東大震災当時の宮城前本社東京支部臨時救護所の模様」五姓田芳柳氏 画≫と記されている。252.5cm×317.5cmの大きさ。臨場感あって迫力がある。『芸術新潮』の記事通りである。
二世五姓田芳柳と日本赤十字社との関係について、同社にお聞きすると二世の義父である一世が幕末・明治の医学者・松本良順と親交があって、その関係で赤十字社4代社長、石黒忠悳氏ともつながりがあったという。また二世は日赤特別社員であったため、絵画の制作を何度か依頼した。その作品のひとつがロビーに飾られたパノラマ絵である。
東京都支部1階ロビーに展示された理由は、それまで長らく日本赤十字社の本社(東京・港区芝大門)に置かれていたが、平成3年(1991)東京都支部が新築され、展示場所として相応しいということで修復の上展示されたものだという。

聖徳記念絵画館壁画『江戸開城談判』が描かれた背景に、二世五姓田芳柳がしっかり存在している。もう少し二世について検討を続けたい。

2020年5月25日 (月)

神にならなかった鉄舟・・・その八

最初に鉄舟の生誕地について、墨田区教育委員会から次の連絡が入ったことを報告したい。
「山岡鉄舟研究会会長 山本紀久雄 様
墨田区亀沢に設置しておりました山岡鉄舟の説明板は、本日(2018年12月19日)、板面交換を行い、別内容の説明板となりました。長らくお待ちいただきましてありがとうございました。取り急ぎ、ご報告させて頂きます。どうぞ、よろしくお願い申し上げます。墨田区教育委員会事務局・ 地域教育支援課文化財担当」
 この件については2017年4月号と2018年1月号でもお伝えしたが、墨田区観光協会作成の観光マップによると「山岡鉄舟旧居跡」は、亀沢4丁目の墨田区立堅川中学校の校門あたりとなっていて、墨田区教育委員会は平成20年(2008)2月、同中学校内に≪山岡鉄舟の生家小野家がこの中学校の正門の辺りにありました≫とする説明板を設置した。
だが、この地を『復元江戸情報地図』(朝日新聞社)で確認すると、旗本「小野勇太郎」と表示されている。小野勇太郎は、『寛政譜以降旗本家百事典第1巻』(東洋書林)によると、禄高200石、拝領屋敷は本所永倉町と四谷南伊賀町の2カ所である。本所永倉町は現在の亀沢4丁目であり、堅川中学校現住所と一致する。
山岡鉄舟が生れたのは、御蔵奉行を務めた「小野朝右衛門」の役宅である。小野朝右衛門は禄高600石。その屋敷は『江戸幕府旗本人名事典』(原書房)によると両国向御蔵屋敷と表六番町。この両国向御蔵屋敷で鉄舟は生誕した。なお、表六番町の屋敷は、『復元江戸情報地図』に「火除明地」と記されており、これは現在の靖国神社の近くである。
 このような説明を墨田区観光協会で説明したところ、「エリアマップの表示は教育委員会が認定したものに従っているので、教育委員会に行ってほしい」という回答。
そこで2017年2月28日に墨田区教育委員会へ行き、一連の史実関係書類に基づき説明をしたところ「史料は理解したので、再度、教育委員会内で整理確認し、説明板が設置されている地元の亀沢町会と調整し進めたいが、説明板の撤去期日については明確に約束できない」とのことであったが、ようやく1年10カ月を経て誤った鉄舟生誕地が訂正されてほっとしているところである。
なお、正しい鉄舟生誕地は下地図のところであるが、このあたりは諸建築の工事中で、まだ史跡表示板は設置されていない。

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山岡鉄舟研究会2019年1月例会は『月刊武道2018年10月号』(公益財団法人日本武道館発行)の表紙絵「山岡鉄舟・駿府談判」(下絵)を描いたアトリエ麻美乃絵・中村麻美先生の講演でした。テーマは「月刊『武道』表紙絵より~維新の英傑たち「駿府談判」ほか」で、次のように述べられました。

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≪1868年3月9日、幕臣・山岡鉄舟は、駿府に陣を構える官軍参謀・西郷隆盛に会談を申し込みました。江戸決戦は目前、駿府への道中は命がけの旅でした。
西郷は江戸総攻撃を中止する条件の一つとして「徳川慶喜を備前に預ける事」と提示しました。しかし鉄舟はこれに応じず抗弁します。「朝命なり」と凄む西郷に対し、鉄舟は毅然と問いただしました。「立場が逆ならば、あなたは主人である島津の殿様を差し出しますか」。激論の末、しばらく考えた西郷は「先生の言うことはもっともだ。慶喜殿のことはこの吉之助が必ず取り計らう」と約束します。江戸無血開城は、鉄舟のこの命がけの尽力により成ったのでした。
のちに西郷は、江戸の民を守り、主君への忠義も貫いた鉄舟を評します。「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るものなり。この仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」剣・禅・書の三道を極めた鉄舟は、1880年に無刀流の開祖となります。「敵と相対する時、に依らずして心を以って心を打つ」と修養を重んずる鉄舟の理念は、今日あらゆる武道に受け継がれ、今に活かされています≫
中村先生は的確に鉄舟を捉えておられます。なお、中村先生は『伝えたい日本のこころ』(日本武道館2016年9月発行)を出版されていますので、ご参考にされることを推薦いたします。
なお、講演で中村先生は、表紙絵には鉄舟のみで西郷は描かれていない理由について以下のように述べられました。
≪鉄舟ひとりで薩摩軍に対したという意義を、島津の陣幕を大きく描くことで強調し、そこに鉄舟武士道精神を表現したかった≫と。なるほどと思ったところに、もうひとつ鉄舟のみを描いた理由があるとも発言された。

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 それは明治神宮聖徳記念絵画館に展示されている有名な壁画、結城素明が描いた「江戸開城談判」(上絵)と混同される恐れからとのこと。この絵は、西郷が鉄舟との駿府で無血開城を実質的に決めた後に、江戸で勝海舟と会った場面を描いたもので、この西郷・勝会談で無血開城が決まったとする説が広く流布されている。
表紙絵「山岡鉄舟・駿府談判」を鉄舟と西郷が対峙する構図で描くと、鉄舟を海舟と誤解する人が多く出て来るのではないかと、中村先生は危惧されたのだ。
 ところで、中村先生による『月刊武道』の表紙絵は人物を描いているので、これは「肖像画」とも言えるだろう。ただし、実存していた人物であっても、描く場面も含む実像を写真等で確認できないのであるから、あくまでも描く人が想像する表現絵画となる。
結城素明も「江戸開城談判」を描くにあたって、同様に想像にもとづく肖像表現であったはず。その理由は、この場に鉄舟も同席していたのに省かれているからである。何故に鉄舟が絵に描かれなかったのか、その検討は後日にしたいが、その前に、明治神宮聖徳記念絵画館を飾る80点がどのように決定・展示されたのか、それをまず整理してみたい。
参照するのは『明治聖徳記念学会紀要復刊第11号』(林洋子氏論文 平成6年4月15日)である。林氏はプリニウスの『博物誌』の記述からはじめる。
≪そもそも絵画は、プリニウスの『博物誌』によると、外国への長旅に出る恋人との別れを悲しんだコリントスの娘が、ランプの光で壁に映った恋人の影を写し取ったことに始まるという。つまり肖像表現とはその基本的な性格としてその場にいない人や死者の身代わりの意味を持つのである≫
プリニウスの『博物誌』は、ローマ帝国初期に活躍した博物学者、軍人、政治家でもあったプリニウス Plinius( 23/24~79) が著したもの。ヨーロッパの博物学のもっとも古典的な原典となったもので、各方面の専門の著作を縦横に使い、あるいは自らの実地見聞や調査によって、約2万項目におよぶ事項について解説をした世界最初の百科事典である。したがって、今日でもこの『博物誌』は各分野の研究に広く参考資料として利用されている極めて貴重な文献である。(参照『ガラスの道』中公文庫 由水常雄著)
林氏の論文を続けよう。
≪このことは、明治天皇に関する様々な肖像表現についてもあてはめて考えることが出来よう。歴代天皇の中でも、(昭和天皇を除けば)明治天皇こそ最も多くの肖像表現が残された天皇の一人であろう。その表現には、①天皇のご在世中に制作された「その場にいない」天皇の身代わりとしての「御真影」や絵画・版画、②崩御の後、先帝の記念、追悼のために描かれた絵画群がある。この②のグループを代表する作品こそが、明治神宮外苑聖徳記念絵画館を飾る80点である≫

明治天皇は明治45年7月30日に崩御された。御陵は京都の桃山に決したが、天皇をお祀りする社を東京にも造営し、その周囲に天皇を記念する様々な施設を持つ外苑を設けることになり、その中心に天皇の業績を記念する絵画館を建造する構想が天皇側近から出された。
≪伝統的に、天皇のお姿を公の場に絵画化することがほとんどなかったわが国では、このような計画は史上初めてであり、畏れ多いとの反対もあったが(貴族院でも議論を呼んだ)、国民からの多額の寄付、そして側近たち、大正4年5月に成立した明治神宮奉賛会のメンバー(会長・徳川家達)の強い意思により、計画は実行に移される。
側近たちは、計画の推進役に元神戸市長の水上浩躬(みなかみひろちか)を招き、幾人かの歴史家たちを交えて構想をねった。水上はこの計画の手本として、フランスのヴェルサイユ宮殿内の「戦いの間」(1676年起工)をイメージしたと後に語っている≫
大正6年2月に絵画館委員が任命された。その中に美術関係者は東京美術学校の校長である正木直彦のみであった。画家が一切委員とならなかったことから推測されるように、まず画題が最優先で画家や画風は二の次であったことがわかる。
その後、正木の仲介によりどの派にも属さない孤高の画家で、当時あまり有名でなかつた二世五姓田芳柳(1864~1943)が、画題に応じた構図の下絵を作成するよう指名を受け、これが後に『画題考証図』へとつながる。
しかし、こうした計画の進め方に対して画家たちの不満が高まって、彼らの意見が美術雑誌に掲載されるようになった。しかし、画家たちは一致した行動がとれず、計画のイニシアチブは側近や歴史家たちに掌握されたままであった。
大正8年秋、絵画館の建設が始まった。設計は小林正紹(まさつぐ)である。大正10年1月に画題が決定され80題とされ、ここでようやく画家の選定に入った。
この計画が外部に伝わると、旧大名や企業などから奉納希望が殺到し、同時に縁故のある画家を推薦してきた。例えば徳川慶喜の孫である公爵・徳川慶光が「大政奉還」、西郷・勝両家が「江戸開城談判」の奉納を申し出た。
画家の選定は、洋画家の黒田清輝を責任者として河合玉堂や横山大観などの日本画家の意見も取り入れ、天皇が伝統世界に生きておられた前半生を日本画で、近代化する明治の後半生を洋画ということに決した。
洋画の人選は順調に進んだが、日本画の方は奉納者から推薦が多く、例えば旧大名からはその藩出身の画家を推薦するなどしたため、芸術性を追求する専門委員と理事会の間で紛糾し、怒った横山大観は委員を辞任、河合玉堂、竹内梄鳳も手を引いてしまった。
その結果、院展系及び京都系の大半を除いた画家たちによって描かれることになったが、決定は遅れに遅れ、一人の画家が複数の作品を手掛けることも発生した。
日本画の小堀鞆音(ともと)が三点、近藤樵山(しょうせん)が二点、結城素明も前述した「江戸開城談判」と「内国勧業博覧会行幸啓」の二点で、全体的には若くて小粒な画家の感が免れなかった。

理事会から「壁画奉納ニ付取扱方」が公表され、絵の大きさは縦3m、横2.7mと決められた。絵画館建物に向って右が日本画部門、左が洋画部門と決し、制作が始まり、画家たちに二世五姓田芳柳が準備していた『画題考証図』が示された。
大正15年10月15日絵画館が竣工。画家たちは各自の作品を納入し始めたが、足並みは揃わず、昭和7年になっても納入された作品は全体の約半数というありさまであった。
最終的に昭和11年4月に、岡田三郎助、和田英作、藤島武二、松岡映丘、結城素明の東京美術学校の教授陣5人が作品搬入し、絵画館は構想から20年、制作開始から10年の歳月を経て完成した。この間に5人の画家が亡くなり、その弟子や友人に制作が引き継がれている。

ということで、全作品80点は、作者もほぼ全部異なり、制作年代も約10年のばらつきがあるなど、統一性の乏しい作品群となった
藤島武二は明治から昭和前半まで、日本の洋画壇において長らく指導的役割を果たしてきた重鎮で、絵画館に「東京帝国大学行幸」(下の絵)を制作している。この藤島が、弟子の児島虎次郎から来た手紙に返信しており、そこには≪同事業は其性質上史実を重んじ、絶対自由を尊ぶ純芸術家にとりては恐れながら余り面白き仕事とも覚えず候≫(林氏論文)と書いている。

                           Photo_20200525101201                            
 
なお、林氏は藤島武二絵について、次のように評価を下している。
≪藤島の筆は進まず、最後の最後におそらく写真を元に描いたのであろう。当時の彼としては凡庸な作品である。この時期、彼の興味の中心は先の宮中よりの依頼画の制作と帝展改組問題であった。この翌年(昭和12年)、藤島は蒙古高原の日の出を描いた名作「旭日照六合』(宮内庁蔵)を完成、御所に納める。同じ帝室関係の仕事とはいえ、完成度の違いは明らかである。それは絵画館の制作はかなり限定が多かったことに比べ、宮中からの依頼画は藤島の創造性に全面的に一任されており、「絶対自由を尊ぶ純芸術家」たる藤島の心を鼓舞したのであろう≫
さらに林氏は以下のように酷評する。
≪これらは決して同時代のベストメンバーらによって描かれたのではなく、芸術の領域から離脱したような「紙芝居」のような作品が大半となっている≫
何故に林氏の指摘するようなレベルになっているのだろうか。その大きな要因にあるのが、二世五姓田芳柳による『画題考証図』の提示にあるのではないだろうか。
ということは「江戸開城談判」壁画も、結城素明が構図を考案したわけでなく、二世五姓田芳柳の『画題考証図』に基づき「翻案して描いた」のであり、『明治神宮叢書第20巻図録編』(明治神宮編 平成12年11月発行)では、「江戸開城談判」壁画は「部分を拡大したもの」であると述べている。
では、二世五姓田芳柳は下絵と『画題考証図』をどのように制作したのか。次号で検討したい。

2020年4月25日 (土)

神にならなかった鉄舟・・・その七

銅像を建てるということの背景を考察するには、誰がそれを必要としたのかという問いかけが必要だろう。
 勝海舟銅像は、東京都墨田区が必要として建てられたと推察される。勿論、実際の銅像建立は、海舟を評価する人々が寄付を集め建立し、それを墨田区に寄贈したのであるが、墨田区ホームページ記載内容から、高く海舟業績を認めていることがわかる。銅像の作者は墨田区に本籍があるという東京家政大学名誉教授の木内禮智氏である。
しかし、どうして建立が平成15年(2003)という海舟生誕180年まで待たねばならなかったのか。もっと早くても良いような気がする。
海舟の業績は、江戸無血開城を西郷隆盛との会見・交渉で成した、と高等学校教科書で認められており、世間一般にも広く認知されている。また、会見相手の西郷銅像は、上野公園に明治31年(1898)に建立されているから、平成時代まで海舟銅像が待たされたのは不思議だ。前号でみた榎本武揚の銅像は大正2年(1913)に建立されている。
一方、幕末に新政府軍への徹底抗戦を主張して、恭順派の海舟と対立した小栗上野介の胸像は、横須賀市に大正11年(1922)に建立されている。小栗の銅像は神奈川県横須賀市が必要としたと推察するが、建立された場所は現在の「ヴェルニー公園」とは異なり、当時の海軍工廠が見下ろせる諏訪公園であった。作者は朝倉文夫で「東洋のロダン」と呼ばれた著名な彫刻家である。

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しかし、この胸像は残念ながら横須賀海軍工廠によって20年後の昭和17年(1942)に撤去、金属供出され、代わりにセメント像が市役所前に置かれた。
横須賀海軍工廠とは、慶応元年(1865)徳川幕府が横須賀製鉄所を建設し、明治政府に引き継がれ、明治4年(1871)に帝国海軍所管「横須賀造船所」となって、明治17年(1884)に横須賀鎮守府が設置されるとその直轄造船所となり、明治36年(1903)の組織改編で横須賀海軍工廠が誕生、呉海軍工廠と共に多くの艦艇を建造したところ。
また、現在の「ヴェルニー公園」一帯は、明治時代初期に横須賀が帝国海軍の本拠地となって、ここに海軍軍需部が置かれたが、昭和3年(1928)に田の浦へ移転後は、海軍工廠の一部と海軍運輸部となり、海軍の艦船や陸上部隊への軍需品の供給基地となって、施設はコンクリート塀で囲まれていたが、通りに面して商店・旅館・料亭などが建ち並び、とても賑わっていた場所。
戦後はコンクリート塀が取り除かれ、昭和21年(1946)に「臨海公園」となって、ここに昭和27年(1952)、東京芸術大学教授であった内藤春治によって作られた小栗胸像が移転した。ただし、胸像は新しくつくられたが、石造りの台座は大正11年のものを使用しており、台座裏に「大正11年9月27日除幕」と印刻されている。
「臨海公園」が開園したのは昭和21年(1946)10月20日で、この時には二日間にわたって横須賀市民祭が催された。その意味は、敗戦後の日本で、軍港横須賀が新しく生まれ変わったという証にほかならず、それも占領軍の支配下で挙行されたわけで、日本が平和国家に変ったという事実証明でもあった。
ところが、平成13年(2001)に至って「臨海公園」は、「ヴェルニー公園」としてフランス式庭園の様式を取り入れてリニューアルオープンした。

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ヴェルニー公園と名づけられたのは、横須賀造兵廠その他の近代施設の建設を指導し、日本の近代化を支援したフランス人技術者レオンス・ヴェルニーに由来する。
ヴェルニーの胸像は、この公園内に小栗と並んで立っていて、ヴェルニー説明板には以下のように書かれている。
≪フランスの造船技師で、海軍増強をめざした徳川幕府の要請により横須賀製鉄所(造船所)建設の責任者として1865年来日した。明治維新後も引き続きその建設と運営の任にあたり、観音埼灯台や走水の水道の建設、レンガの製造のほか、製鉄所内に技術学校を設けて日本人技術者の養成に努めるなど、造船以外の分野でも広く活躍し1876年帰国した≫
この説明板と隣の武士姿の小栗胸像を見る人々に、どのようなイメージを与えるであろうか。多分、「ここは幕末から明治初頭にかけて活躍した人物を記念して造られた公園なのだ」と思うだろう。
つまり、「臨海公園」と称する平和シンボルであったものを、「ヴェルニー公園」に変更することで、一挙に幕末の横須賀へ蘇らせたのではないかと考える。
それを裏付けるのが「ヴェルニー・小栗祭り」である。明確に小栗の名が冠されている。したがって、祭りに来た人々は幕末時を思い起こす。
昨年、平成30年(2018)は、日仏交流160周年を記念し、平成30年11月10日横須賀市との姉妹都市ブレスト市があるブルターニュ地域ゆかりのフランス海軍軍楽隊バガッド・ド・ラン=ビウエが、華やかな演奏を披露した。

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ところで、この「ヴェルニー公園」、じっくり見て回ると面白いことに気づく。場所はJR横須賀駅前に位置していて、入るとすぐに「ヴェルニー記念館」があり、ここのデザインについて≪ヴェルニー記念館は、横須賀の近代化に貢献したフランソワ・レオンス・ヴェルニーに関わりが深いフランスのブルターニュ地方に建つ住宅の特徴を取り入れました≫と解説文が掲示されているが、館内にはオランダから購入した「国指定重要文化財スチームハンマー」を保存・展示している。外観はブルターニュ風なのに、保存されているのはオランダ製のスチームハンマー、これに少し違和感を持つ。
また、記念館から歩いてすぐの所に「戦艦・陸奥」の全長約19メートル、重さ約100トン主砲が野晒しで置かれている。巨大だ。陸奥は大正10年(1921)に横須賀で建造され、昭和18年(1943)に瀬戸内海で原因不明の爆発のため沈没し、昭和46年(1971)に複数ある主砲の一部が引き揚げられ、東京の船の科学館で展示されていたが、平成28年(2016)9月に
移送(里帰り)した。この主砲は全くヴェルニーとは関係ないから、このあたりから訪れた人は、ここは旧日本海軍基地であったのかと気づき始めるだろう。
もっと面白いのは「ヴェルニー公園」の端のところ。もともとこの地にあった日本海軍にまつわるいくつかの記念碑が、それも横一列に並ばされている。教室の片の隅に立たされているように、何となく居心地が悪いように見える。

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一列に並んでいる記念碑を右から紹介すると、正岡子規の句碑「横須賀や只帆檣(はんしょう)冬木立」 (注 帆檣とはほばしら) は平成3年(1991)建立、「軍艦沖島の碑」は昭和58年(1983)建立、「軍艦長門碑」は昭和51年(1976)建立、単に「国威顕彰」と刻まれた記念碑は建立年月日等一切不明(ヴェルニー公園HP)とあり、「軍艦山城之碑」は平成7年(1995)建立、「海軍の碑」も平成7年(1995)建立である。

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「国威顕彰」碑を除いて近年の建立であるが、この「国威顕彰」碑とはいったい何か。
『世の途中から隠されていること――近代日本の記憶』(木下直之著 晶文社2002年刊)が次のように述べている。
≪問題としたのはひときわ大きい「国威顕彰」碑で、1930年代前半の建立、一等巡洋艦愛宕か高雄クラスの司令塔をモデルにデザインされたという。現在も残る逸見波止場逸見門衛兵詰所(こちらは横須賀市指定市民文化遺産となっている)の間を抜けて入った正面に、この記念碑は立っていた。『横須賀市史』上巻(横須賀市、1988年)五七七頁の写真図版でその様子を見ることができる≫
いずれにしても「国威顕彰」碑は無残な姿である。「国威顕彰」の文字を除く一切の言葉が剥ぎ取られている。今では何が書いてあったか不明である。
だが、いろいろネットで調べていると以下の説明に出合った。
≪その後、朝日新聞の記事や横須賀市史によって詳細が判明した。これは「国威顕彰記念塔」であり、昭和12年5月27日の海軍記念日に除幕されたもので、国際連盟脱退や軍縮条約廃棄という当時の社会情勢のなかで、海軍の偉業と意気を具象化したとのことである。塔の上部には羽を広げた金鵄が取り付けられていた。作者は当時の第一人者である日名子実三で、彼は馬門山墓地の「第四艦隊遭難殉職者之碑」も製作している≫(『東京湾要塞 三浦半島・房総半島戦争遺跡探訪』)
なるほどと思う。記念碑や銅像が建立された姿を維持できるかどうかは、当初の製作者・注文者の意図が時を超えてどれだけ継承されるかにかかっているのだ。「国威顕彰」碑には≪羽を広げた金鵄が取り付けられていた≫というが、時代の変遷で取り払われ惨めな姿をさらしている。しかし、惨い形ではあるが、しっかりと遺っている。意図があるのだろう。
このように見てくると「ヴェルニー公園」のイメージが変化せざるを得ない。ヴェルニー公園と名づけられたのは、日本の近代化を支援したフランス人技術者レオンス・ヴェルニーに由来するわけだが、実際に公園内を歩き、横須賀市発行の小冊子『小栗上野介と横須賀』をみると徳川幕府で活躍した小栗を大いに称えている。
≪明治・大正の政界・言論界の重鎮であった大隈重信は、後年「小栗上野介は謀殺される運命にあった。なぜなら、明治政府の近代化政策は、そっくり小栗のそれを模倣したものだから」と語ったといわれています。
現代にも通じるものがある激動期の幕末に、類まれなる先見性と行政手腕を発揮した小栗の功績は、近年あらためて見直されています。横須賀市では、毎年式典を開催し、小栗の功績をたたえています≫
間違いなく横須賀市は、製鉄所建設推進した行為に対する「顕彰」として小栗胸像を建立し、併せて「ヴェルニー公園」を帝国海軍の軍港であった事実を遺す手段としているのである。これを裏打ちするのが横須賀市議会建設常任委員会の論議である。それを『世の途中から隠されていること』から引用する。
≪青木委員いわく「幕末だけの問題ではなくて、戦前の様相も逐一伝えられるような公園づくり、公園を訪れた方々がわかるようなことであってほしいと思うのです」(『同会議録』第三四八号)。さらに青木委員はなぜ「ヴェルニー公園」と名前を変えたのか、それならむしろ「小栗・ヴェルニー公園」とすべきだと、もっともな意見を述べる≫
「ヴェルニー公園」を歩いてみると、実際の公園は「小栗・ヴェルニー・海軍記念公園」というのが実態だと感じる。

海舟に戻りたい。東京都と墨田区が海舟の業績を高く評価しているのであるから、もっと早く銅像が建立されていてもおかしくないはずだ。
実は、これには海舟自身の考えがあったという。それを『銅像になった人、ならなかった人』(三原敏著 交通新聞社2016年刊)から見てみよう。
≪そもそも海舟は「銅像」というものに興味がなかったようだ。
『海舟遺稿』を編集した亀谷馨が、海舟を訪ねた時のこと。亀谷が先生の存命中に銅像を作りたいと語ったところ、海舟は「銅像は人の造ったものゆえ、いつ何時、天変地変のために破壊されるか知れない。そうでなくてとも、時勢の変遷によって大砲や鉄砲の弾丸に鋳られるかもしれないよ。そんなつまらないことしてくれるより、銅像を造る入費の三割一分でもよいから、金でもらいたいよ」と一笑に付した。さすがに海舟である。その後、大東亜戦争で多くの銅像が大砲や弾丸と化していったことを、すでに予見していたようだ。
この逸話からしばらくして海舟は亡くなり(明治32年)、時の海軍大臣であった山本権兵衛は、海軍省に海舟の銅像を建てようと提案した。薩摩藩出身の山本は西郷の仲介により、海舟の知遇を得て海軍軍人の道を歩んでいった。海舟には深い恩がある。だが、海舟が生前、銅像などを馬鹿にしていたと聞いて、この計画は取り止めにしたそうだ。
一方、海舟の死から四日後の一月二十五日。葬儀が行われたこの日の『朝日新聞』には、徳川慶喜や家達をはじめとした人々が発起人となり、西郷と同様の海舟の銅像を建立し、上野公園に並立しようという計画があることが報道されている。
この計画のその後は不明であるが、明治四十三年(1910)十月十日の『朝日新聞』に投稿された「銅像建設に就いての所感」という記事が興味深い。投稿したのは海舟に銅像の話をした亀谷馨である。亀谷は近年、盛んに建立されている銅像に関し、その意義は良いが、報本(ほうほん)反始(はんし)(注 祖先の恩に報いること。儒教的理念の一つ)の理に反するものがあると嘆く。
例えば海軍省内に建てられている西郷従道・仁礼景範・川村純義の像だ。亀谷は従道らの功績を認めながらも、それならば、維新の前から海軍の発展に偉大なる功績のある人物がいるだろうと訴える。さらに神戸に建てられている伊藤博文像に関しても、それ自体には賛同するが、それならば一漁村であった神戸の地に幕末、神戸海軍操練所を設置し、その発展に貢献した人物がいるではないかと続ける。
つまり彼らの銅像を建てるなら、なぜ海舟の像を建てないのかと憤っているのだ。海舟自身が断ろうとも、やはり亀谷は海舟の像を建てたかったのである。ただし海舟の予言通り、ここで挙げられた従道・仁礼・川村、そして伊藤の像はいずれも大東亜戦争によって回収され、現存していない。彼らの像がいち早く建立された背景には、薩長閥ということもあろうが、もし海舟の像が建立されていたならば、やはり同様に回収されていただろう。「それ見たことか」と、地下から海舟の毒舌が聞こえてきそうである≫
しかし、ここで不思議なのは、現在、海舟最大の業績が「江戸無血開城」だと、一般的に認識されているのに、上記記述では一切無血開城には触れていないことだ。
海軍創立への功績を強く述べている。当時の海舟への評価は今と異なっていたと推測できるのである。

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                                                                  (海舟が建言し設置された神戸海軍操練所跡碑)

2020年4月 6日 (月)

例会開催の中止について

新型コロナウィルス問題が片付くまで、山岡鉄舟研究会の例会は2020年3月開催分からしばらく中止いたします。

再開する場合は、改めてご連絡いたしますので、よろしくお願いいたします。

2020年3月31日 (火)

神にならなかった鉄舟

海舟夫婦の墓が洗足池にあり、昭和49年(1974)2月2日に大田区指定文化財となったことと、妻・民子の墓が当初は青山墓地に葬られていて、洗足池に移された件を、大田区郷土博物館に尋ねると「詳しくは分からないが昭和20年頃に青山から移された」という回答であったことは前回でお伝えした。

これに触れているのが『をんな千一夜 第18話 勝民子「女道楽」勝海舟の正妻 石井妙子』(選択2018年9月号)である。
≪勝の正妻はお民。砥目屋という薪問屋兼質屋の娘であったが、一時は深川で芸者をしていたともいわれる女性だ。
結婚した時、勝は二十三歳、お民は二歳年上。当時の勝はまだ、幕府に取り立てられる前で、自宅で翻訳や蘭学教授をする貧乏生活を送っていた。天井さえ薪にしてしまい、雨露も防げないという悲惨な状況だったが、それでも気丈なお民は、夢子、孝子、長男の小鹿(ころく)を産み、必死で生活を切り盛りした。
結婚から十年後、意見書が取り入れられ、勝は長崎の海軍伝習所に赴任。運に恵まれ始めると途端に、彼の女道楽が始まった。長崎では梶玖磨(お久)という年若い未亡人と関係して子どもを作り、これを引き取ると、お民に育てさせている。
米国から帰国し、赤坂に邸を構えてからは、ますますひどい。家の女中や、手伝いに来た女性たちに次々と手を出した。お糸、お米、おかね、おとよ・・・・。
妻妾同居を実践し、生れた子どもはすべて正妻であるお民が自分の子として育て、生みの母はそのまま女中として働き続ける。お民の心中も複雑だったろうが、生みの母も辛い思いをしたのではないか。
それなのに勝は、「俺と関係した女が一緒に家で暮らしても波風が立たないのは女房が偉いから」などと、呑気に語っている。女の心を理解していなかったのか、あるいは、そうやって褒めておけば「波風が立たない」と甘く見ていたのか。しかし、正妻お民の本心は勝の死後、明らかになる。
勝が七十五年の生涯を閉じたのは、明治三十二(1899)年。お民はその六年後に、この世を去るのだが、「夫の隣だけは嫌。小鹿の隣に埋葬してくれ」と、きっぱり言い残すのである。
小鹿はお民が生んだ長男で、たった一人の跡取り息子であった。米国のラトガース大学に留学、さらにアナポリス(海軍兵学校)を卒業して帰国し、日本海軍に迎えられた。勝夫妻にとっては自慢の息子であったが、残念なことに身体が弱く、明治二十五年に三十九歳の若さで両親を残して逝った。
そのため、やむなく勝は小鹿の長女である伊代子に、徳川慶喜の十男の精(こわし)を婿として迎え勝家の家督を継がせている。以後、「勝」姓を名乗るのは、この直系の子孫だけで妾腹の子孫は誰ひとり「勝」姓を継いではいない。そのけじめは、はっきりとしていたようだ。
お民は遺言どおりに、夫の隣ではなく早世した息子の隣に埋葬されたものの、昭和二十八年、子孫の手により、夫の隣に墓石が移されている。墓下で何を思うか≫

墨田区のホームページに≪勝海舟は幕末と明治の激動期に、世界の中の日本の進路を洞察し、卓越した見識と献身的行動で海国日本の基礎を築き、多くの人材を育成しました。西郷隆盛との会談によって江戸城の無血開城をとりきめた海舟は、江戸を戦禍から救い、今日の東京都発展と近代日本の平和的軌道を敷設した英雄であります≫と述べられているが、家庭内では妻妾同居を実践し、生れた子どもはすべて正妻であるお民が自分の子として育て、生みの母はそのまま女中として働かせ続ける。

今の道徳観念からは大問題、明治時代でも稀なる事例ではなかったろうかと思ったが、榎本武揚も同じであったと日刊紙『萬朝報』の記事が伝えている。

『萬朝報』は記者・翻訳家・作家として活躍した黒岩涙香が主宰し、スキャンダルの暴露などを売り物にしたことで知られる新聞だが、ここで明治31年(1898)7月から9月にかけて連載した「弊風一斑(いっぱん) 蓄妾の実例」、つまり、妾を囲っている男性の実例を500例以上取り上げている。この500例のうち華族が44例あり、その中に榎本武揚が、海舟と同様の妻妾同居を実践していると取り上げられている。(『明治のお嬢さま』黒岩比佐子著 角川選書)
≪子爵榎本武揚 向嶋須崎町の自邸に木村かく(三十)松崎まさ(二十九)という二人の妾あり。いずれも夫人存生の頃より女中に来ししものなり≫

海舟と榎本、共通するのは幕末の江戸幕府を支え活躍した旗本でありながら、維新後は新政府で要職に就いたことから、福澤諭吉の「瘠我慢の説」で痛烈に批判されたことで知られているが、妻妾同居の実践者という点でも共通していたわけである。

では、鉄舟はどうであったのか。鉄舟に〞権妻(ごんさい)〟がいたと述べるのが『山岡鐵舟の妾』(鈴木氏亨著 文芸春秋1993年11月号)であるが、ここには海舟にも権妻がいたとある。ということは自宅妻妾同居、加えて別宅に権妻がいたわけである。

では、この権妻とは何か。明治3年(1870年)に制定された『新律(しんりつ)綱領(こうりょう)』、これは広辞苑によると「明治政府最初の刑法典。大宝律や江戸幕府の公事方御定書から明律・清律まで広く参考にして作成。明治3年(1871)12月公布。旧刑法施行により15年廃止」とあるように、これは江戸幕府や中国の刑法典をもとにして、明治政府のもとで作成された最初の刑法典であり、身分制度など様々な事が定められたもの。この中で、妻と妾を持つことが公認され、この妾は権妻と呼ばれ、夫から見て、妻と妾が同等の二親等として記載されていた。

鈴木氏亨は大正12年(1923)『文芸春秋』創刊とともに編集同人、菊池寛の秘書を務め同社の経営に参画、昭和3年専務取締役となった人物で、明治18年(1885)生まれ、昭和23年(1948)没。『山岡鐵舟の妾』で鉄舟が権妻を持った経緯を書いている。
≪東京に新政府が出来上がって、公卿や長薩土肥の幕末の志士が、顕要な地位を占めだした頃、ある晩、柳橋の芸妓おせんの屋形へ、萬八楼からお座敷だと箱屋がしらして来た。
おせんが仕度して行ってみると、贔屓にしてくれる池田と云ふ客が、若い志士風の男とつれ立って遊びに来ていた。
若い侍は江戸っ子だった。多分旗本だったろう――引詰めた惣髪は、両眥(まなじり)がつり上がる程強(きつ)く、立てた太い髷は、髷元を紫の紐でぐるぐると結んで後頭部へ垂らし、狂人のような凄い眼に光を湛えていた。
「まあ、何と云ふ恐い人だろう!」
おせんは、その頃、料亭などを荒す、狂暴な鉄腕の田舎浪士を想い浮べてぞっとした。
だが、盃が進むにつれて、凄い眼をしていた若い侍が、何處か親しみのある、気の置けぬ淡如とした風格を備えているのを感じた。
若い侍は、海鼠(なまこ)が好きだと見えて、それを酒の肴にして、盃を重ねた。
「オイ、君も一杯飲む可し/\」
女中や、箱屋が、座敷へ姿を出すと、かう云って、相手嫌わず盃を盞した。
おせんは、なんと云ふことなしにその侍が恐くて近づけなかった。
その後、同じ萬八楼の百畳敷で、岩倉卿主人役の大饗宴が催された。
流行(はやり)奴(つこ)のおせんは、その時も招かれて座敷にゐた。――そこでも、眼の凄い、この間の若い侍に会った。
若い侍は、別に彼女に注意するでもなかった。
宴が果てゝてから、おせんは、萬八楼の女将に呼ばれて帳場に行った。
「この間の若い侍さんが、お前に祝儀を下さったよ」
と云って、夫婦巾着ぐるみ出して見せた。
いくら入ってゐたか知らぬが、沢山の小判が入ってゐたらしかったが、おせんは祝儀などには、目もくれなかった。そして、その若い侍が、どんな身分の人か知ろうともしなかった。
三度目に、若い侍は彼女に、はじめて口を訊いた。
『私(わし)は、かう見えても泥棒や巾着切ではない。安心せえ!』
それから、彼女の家庭の事情を聞いたり、名を聞いたりした。
おせんは、柳原の、間口十二間もある古着屋の娘だった。親が、粋人で身を落し、新吉原や、堀や深川などと岡場所を遊び歩くうちに、いつの間にか店を閉じるやうになった。彼女は柳橋で半玉として仕込まれた。
その時も、若い侍は、澤山の祝儀を置いて、写真を呉れて行った。
おせんは、客が帰ってから写真を携(もつ)て行って、帳場や料理場で名を聞いて見たが、誰もしらなかった。
おせんは、浅草の写真師、馬場貞季に聞かせにやって、はじめてそれが山岡鐵太郎と知った。
四度目に来た時、
『わかったかい』
と、たった一言云った。
間もなく彼女はひき祝をして、蛎殻町に家を借りて引取られた。明治二年、鐵舟三十二歳、彼女の十九歳の時だった。彼女は山岡鐵舟の妾になったのである≫

≪どうして私が、山岡さんの妾になったかと仰つしゃるのですか?  ほゝゝゝ・・・。その頃は権妻ばやりで、権妻の一人や二人を置かないと肩身が狭くなる御時世でした。勝(海舟)さんも、小仲さんと云ふ、私どもの朋輩の、柳橋に出ていた藝妓(ひと)を落籍(ひか)して、囲っておられました≫

≪おせんは、鉄舟との間に女の兒まで設けたが、悪足がついてから、明治十七年頃応分な手切金を貰って、鐵舟の写真と二三枚の揮毫を抱えたまゝ、栃木県の足尾の方に流れて行った。
その男とも別れると、宇都宮の江の町に落ついて、林屋と云ふ藝妓屋を開業し、鐵舟との中に出来た娘を藝妓に出してゐた。
 おせんは七十九歳で昭和四年数奇な一生を終った。間もなく娘のりんもその跡を追ふた。林せんと云ふのが彼女の名だった。
私が、齋藤龍太郎君の紹介で、訪ねて行ったのは、彼女の死の少し前のことだった≫

ここで整理してみるのもどうかと思うが、「家庭内で妻妾同居」は海舟と榎本。「権妻」は海舟と鉄舟で、両方の実践者は海舟ということになる。

妾について明治初年に議論があったことを『明治のお嬢さま』が記している。
≪妾をめぐって議論が持ち上がる。その背景には、西洋から入ってきた一夫一妻制や男女同権論があった。
それまで日本人は、地位や財力がある男性が妾をもつことを当然のように思っていたが、西洋人はそれを奇異に感じるらしいと知って、慌て始めたのである。
とくに、妻と妾が同じ家のなかで暮らす「妻妾同居」という形態は、一夫一妻制を原則とする西洋人にとって、穢らわしい野蛮な風習にさえ見えたのだった。
そこで、1876年(明治9年)に元老院会議の場で妾問題が取り上げられた。この議論では、法律で妾が公認されている以上、一夫多妻制も認められると主張する者もいれば、一夫一妻制にしても妾をもつことは問題ないという者もいた。
逆に、この際、妾は廃止すべきだという者や、一夫一妻制を認めつつも、現実には妾を廃止するのは困難だという者もいて、議論はまとまらなかった。この会議では、「蓄妾」に対して、「妾を廃する」と書く「廃妾」という言葉も使われている。
その後、1880年(明治13年)の刑法の制定に当たって、「妾」という文字がようやく戸籍から削除されることになった。しかし、法律では公認されていなくても、妾の存在は、社会では黙認されたままだった≫

『萬朝報』連載の「弊風一斑 蓄妾の実例」は明治31年(1898)当時の実例であるから、明治9年に議論はなされたが、実際は変化なしだったといえる。

ところで、榎本武揚も銅像が建立されている。墨田区堤通の梅若公園にあり、マンションに囲まれた場所で、この地に晩年の榎本邸があり、墨田区観光協会のホームページに次のように記している。
≪榎本武揚は幕末から明治にかけて活躍し、晩年は向島で過ごしました。本銅像は大正2年5月、旧幕臣のち代議士江原素六などの発起により、府会議員本山義成らが中心となって建立されたもので、彫刻家藤田文蔵の秀作です≫

墨田区観光協会が述べる榎本武揚の活躍について補足したい。
榎本はジョン万次郎に英語を学び、十九歳で蝦夷地に赴き樺太探検にも従事し、長崎海軍伝習所での蘭学による西洋の学問や航海術・舎密学(化学)などを学び、その基礎的な学力をもって文久二年(1862)の27歳から、慶応三年(1867)32歳までオランダに留学し、ハーグで蒸気機関学、軍艦運用の諸術として船具・砲術と、機械学・理学・化学・人身窮理学を学んだ。
続いて、デンマーク対プロシャ・オーストリア戦争が勃発すると、観戦武官として進撃するプロシャ・オーストリア連合軍と行動を共にし、ヨーロッパの近代陸上戦を実際に目撃した最初の日本人となった。その後も国際法や軍事知識、造船や船舶に関する知識を学び、幕府が発注した軍艦「開陽丸」で帰国したように、当時の近代化先端国である欧州の国々について全体像を体系的に学び経験してきた人物であって、榎本に比肩する人物は当時の日本では存在していなかった。

戊辰戦争では、明治元年(1868)榎本武揚は、徳川慶喜を水戸から清水港に護衛搬送した翌月の8月陸奥に向かい、途中台風にて一部艦船を失ったが、ようやく仙台に入った。だが、奥羽越列藩同盟の敗退により、10月には旧幕府軍と奥羽諸藩脱走兵らを乗せ、反新政府軍団として蝦夷地に向かい、函館を占領、五稜郭を拠点としたのである。

榎本は、函館占領後すぐ、函館在住の各国領事や横浜から派遣されてきた英仏海軍士官らと交渉し、この軍団が榎本を総裁とする「交戦団体」(国家に準じる統治主体)であることを認めさせ、各国に明治政府との間の戦争には局外中立を約束させた。
これは榎本の持つ国際法を活かした外交交渉の成果であるが、これに見られるように、榎本の外交国際感覚は、後に、ロシアとの国境交渉に特命全権大使として臨み、樺太・千島交換条約の調印を成し遂げたように、当時から優れた国際感覚を身につけていた。

この函館五稜郭を拠点とする「交戦団体」に対し、翌明治2年5月、新政府軍が総攻撃を行い、土方歳三が戦死、18日に至って「交戦団体」の首脳である4名、総裁の榎本、副総裁の松平太郎、陸軍奉行の大鳥圭介、海軍奉行の荒井郁之助が、新政府軍の陣営に赴いて降伏を告げ、生きのびた将兵の赦免を請い辰之口牢獄での囚われの身となった。

辰之口牢獄では牢名主となって、本の差し入れも許されるし、書きものもできたので、家族に手紙を出し、家族を通じて外国の技術書・科学書を数多く差し入れてもらい、片っ端から読破、外国新聞も読んでいた。
兄の勇之助宛への手紙で、様々な日用品の製造方法、石鹸・油・ロウソク・焼酎・白墨といったものを教え、その製造のための会社を起こすことを勧めている。加えて、鶏卵の孵化機の製法、養蚕法、硫酸や藍の製法といったものにまで言及し、一部はその製造模型まで、獄中で造ったのである。

この榎本の獄中での態度、一般的に考えてかなり違和感が残る。戦争で敗者となった側のトップであるから、戦争犯罪人として極刑を予測し、その日に備えての心を安らかにするために精神統一など、いざという時に見苦しい死に方をしないために備えるというのが、将たるものの姿だろう。先の大戦での日本政府指導責任者の多くは、このような精神的世界に向かい、従容として死に向かったと聞いている。武士道精神による達観した最期であったと思う。

しかし、榎本の場合は、これらとは全く異なる。当時、大村益次郎などは強く厳刑を主張していたように、極刑が下されるのではないかという憂慮される環境下で、榎本の関心事は精神世界に向かうのでなく、技術者といえる分野に関心が向かい、具体的な提案まで行っているのである。戦争を指導した人物とは思えない。

五稜郭での戦いなぞすっかり忘れ去ったかのように、関心は日本の近代化というところに向かって、そのために欧米で得て持ち帰った自らの知識と体験を、獄中でありながら明治という時代が必要であろうと思うことを提案し、それも多方面分野に渡っていることから考えると、榎本は「万能型」人間ではないと推測できる。

確かにその通りで、赦免された後の活躍を見ると、東京農業大学の設立、電気学会・工業化学会等の会長歴任、各国との外交交渉、晩年にあらわした地質学の論文等から考え、「万能型」テクノクラートであった。

このような活躍をしたわけであるから、妻妾同居という道徳概念上の問題があるとは言え、明治時代へ国家貢献という意味で、榎本の銅像が建てられていることに異論はない。

では、銅像はどういう背景で建立されるものだろうか。次号へ続く。

 

 

 

2020年2月26日 (水)

神にならなかった鉄舟・・・その五

鉄舟の弟子である松岡萬(よろず)が、静岡県磐田市大原の水神社境内に松岡神社として祀られており、さらに藤枝市岡部町にも松岡神社が存在していることは前号で述べた。
この二つの地で神様として祀られる要因背景は、磐田市の方が大池の干拓阻止であり、岡部町の方は山林所有権の争いで、いずれも静岡藩庁の水利路程掛兼開墾方頭並であった松岡が住民有利に解決したからであった。

この松岡がその後、鉄舟とともに手賀沼(千葉県北部、利根川水系)の開墾を計画したという事実がある。筆者が主宰する「山岡鉄舟研究会」の2018年11月例会で、北村豊洋氏が次のように発表したので紹介したい。
≪鉄舟は約束の十年で宮内庁を辞した。そして谷中に全生庵を建立し駿河久能寺を再建したのは明治十六年である。廃仏毀釈でお寺が荒れており、お寺の再建、仏教の復活に精を出し仏教中興の恩人と言われた頃である。
この年の十月に、鉄舟は石坂周造、松岡萬と相談して、僧侶ら十五名と「手賀沼開拓願い」を千葉県に出している。驚きである。鉄舟の音頭で「教田院」を設立して手賀沼の新田開発を進め、米二万石を目論む利益を広く庶民に還元すると伴に、僧侶の学資に充てるという計画であった。
「教田院」とは耳慣れない言葉であるが、福を生じる田の意味で、三宝などをさす「福田(ふくでん)」という語が仏教用語としてあり、廃仏希釈後の仏教復興の為の社会施設「福田会」というのが明治十二年にできているので、それをヒントの名前かもしれないが推測の域をでない。(三谷和夫氏説)いずれにしろ、この地域にかつてなかった新しい開発の波が来たのである。
「手賀沼開墾願い」が千葉県令に提出されたと同じ「官有地拝借開墾願い(成田市立図書館蔵)」に発起人含め十五名の署名があり、三谷和夫氏の『明治前期・手賀沼開墾の二潮流(我孫子市史研究六)』に詳しく書かれている。
明治十六年十月二十日の郵便報知新聞に次の記事がある。
「手賀沼を埋め、田畑となさんとの計は、去る享保年度に起こり、田沼意次がこれに着手し、得るところの田五百町歩に過ぎずしてやむ。維新後、華族の中にその業を継がんと実施に臨み、測量に着手せし者多かりしが、沼の沿岸三十九ヵ村の漁民が、その産を失わんことを憂い、大いに不服を唱え、すでに竹やりむしろ旗の暴挙にも及ばんとする模様ありしをもって、企画皆中止となりしが、今度、山岡鉄舟氏が更にその開墾を発起し、仏教拡張の為、教田院を設けんとの企画を石坂周造氏が賛成し、去る七月中、石坂氏がまずその地に向かい、沿岸の各村吏を招集して説き、ついに三十九ヵ村調印して承諾の旨を表したるより、八宗の僧侶と結合し、かつ華族衆を同盟に加え……、同県下の不二講中より惣代をもって、埋め立て人夫十一万二千二百人の見積もりをもって、人足を無賃にて寄付する旨を、石坂氏まで申し出しという」
 開拓に反対していた地元の人達の賛同を得ている。開拓の人夫まで無償で出すという。これはいったいどういうことか。

実はこの頃、明治維新功労者の叙勲運動が盛んになり、猫も杓子も自薦に励んでいた。しかし鉄舟は勲章を二回も辞退している。さらに、勅使として鉄舟の自宅まで勲章を持参してきた井上馨に対して啖呵を切って帰らせた事も評論新聞はかき立てた。だから民衆はよく知っているのだ。俄か華族と鉄舟とは違うということを。明治十五年六月二十七日の「雪の世話新聞」記事にある。
 「この頃聞くところによれば、奏任官以上にして多年奉職の人でさえあれば、別に著名なる勲功なきも、その職務勉励の簾にて、相当の勲章を授与さるるや‥…、山岡宮内小輔は、年来の奉職中涓(けん)滴(てき)の勲功もなきに、かかる貴き物を賜る聖恩は感ずるにも余りあるが、これをおぶるは大いに恥ずる所あれば、右勲章は返納仕りたしとて辞退致されし趣きに聞く」
 俄か華族の言う事は信用しないが、土木のプロでもない鉄舟の提案する「手賀沼開拓願い」なら信用する民衆の心理を、十月二十日の郵便報知新聞記事は伝えている。明治十四年の政変(北海道開拓払い下げ問題等)の二年後のことである、住民は分かっているのだ。無私無欲がなせる説得力である。まさに鉄舟の人間力であろう。
しかし、「手賀沼開拓」は「水を制してこそできる事業」であり、明治初期の技術や当時の人力では無理である。進展はしなかった。鉄舟とて測量計測して始めからわかっていたのではなかろうか。手賀沼は江戸から一番近い湖沼として、昔から江戸商人達の新田開発意欲を誘っては失敗していた。だから今回も、名も知れぬ「山師」達の身勝手な参入を防ぎ「手賀沼」を守る為に、そして下総がこれ以上「東京の飛び地」にならないように、あえて前に立つ行為に出たのではないか。筆者はそう推察する。
庶民ファーストなのである。庶民に寄り添い真剣で骨のある姿が、偉ぶる事なく自然体で庶民に伝わるから、わざわざ自慢してホラを吹く必要はない。同じ江戸っ子でも勝海舟と違うところである≫

この北村氏の発表にあるように松岡は下総でも活躍しているので、松岡が神様として祀られていることに異論はないが、鉄舟は何故に「神」とならず、鉄舟の銅像も建立されていないのであろうか。
 幕末三舟と称されるのは勝海舟と、山岡鉄舟、高橋泥舟であるが、この中で銅像が広く公共の地で建立されているのは海舟のみである。(鉄舟銅像は静岡市の鉄舟寺に松本検氏が個人で贈呈されたものがある)
 勝海舟の銅像は、東京都墨田区区役所に隣接する、区役所前うるおい広場の緑地内に、文政6年(1823)生まれの海舟、生誕180年ということで平成15年(2003)に建立された。
 墨田区のホームページに以下のように書かれている。
≪勝海舟(通称・麟太郎、名は義邦、のち安房、安芳)は、文政6年(1823)1月30日、江戸本所亀沢町(両国4丁目)で、父小吉(左衛門太郎惟寅)の実家男谷邸に生まれ、明治32年(1899)1月19日(発喪は21日)、赤坂の氷川邸で逝去されました。
  勝海舟は幕末と明治の激動期に、世界の中の日本の進路を洞察し、卓越した見識と献身的行動で海国日本の基礎を築き、多くの人材を育成しました。西郷隆盛との会談によって江戸城の無血開城をとりきめた海舟は、江戸を戦禍から救い、今日の東京都発展と近代日本の平和的軌道を敷設した英雄であります。
  この海舟像は、「勝海舟の銅像を建てる会」から墨田区に寄贈されたものであり、ここにその活動にご協力を賜った多くの方々に感謝するとともに、海舟の功績を顕彰して、人びとの夢と勇気、活力と実践の発信源となれば、幸甚と存じます。
  海舟生誕180年
  平成15年(2003)7月21日(海の日) 墨田区長 山﨑昇≫

筆者が2016年7月18日に開催された「勝海舟フォーラム」に出席した際、墨田区長は挨拶で≪墨田区で3人の世界的偉人が誕生している。葛飾北斎、王貞治、それと勝海舟である≫と述べた。
この発言背景には、上記ホームページにある「今日の東京都発展と近代日本の平和的軌道を敷設した英雄」として海舟を高く評価認識しているからであるが、しかし、 海舟の評価が高いのは、後世の歴史家がつくった虚像によるものではないだろうか、と山岡鉄舟研究会ではかねがね指摘している。

東京都が運営する江戸東京博物館は、JR総武線の両国駅近くにあり、徳川家康が江戸に入府以来約400年間を中心に、江戸東京の歴史と文化を実物資料や復元模型等を用いて紹介し、常設展として「江戸から東京へ」の中で「江戸無血開城をめぐるおもな動き」を解説しているが、そこでは鉄舟の役割が、海舟から「西郷への手紙を託され、駿府にて会談、海舟の手紙を渡す」とのみ書かれている。これでは鉄舟は単なるメッセンジャーに過ぎないわけで、これが江戸東京博物館の見解とわかる。

そこで2018年4月24日に江戸東京博物館に以下の問い合わせを行った。この件は2016年10月にも同館の学芸員に対し、同様の指摘をしたのだが「今後の検討課題」という回答であったので、改めて、水野靖夫氏の著書『勝海舟の罠』(毎日ワンズ)が出版されたのを機に、江戸東京博物館を管轄する東京都生活文化局を通じて尋ねてみた。

≪江戸無血開城についてお尋ね
1. 東京都江戸東京博物館で常設展示されている「江戸無血開城」に関わる解説では、慶応4年3月13日、14日の「西郷隆盛と勝海舟」会談で「江戸無血開城」が決定されたと掲示され、映像説明でもなされています。
2. 山岡鉄舟研究会・主任研究員である水野靖夫氏出版の『勝海舟の罠・第3章』では、「江戸無血開城」は慶応4年3月9日の「西郷隆盛と山岡鉄舟」駿府談判で実質的になされたと、各史料を検討した結果判断しており、当会でも同様に認識しております。
3. 公共博物館である東京都江戸東京博物館のお立場から、「江戸無血開城」は「上記1であるのか、または2であるのか」についてお尋ねを致したく、よろしくご検討の程お願いいたします≫

これに対して2018年5月31日に以下の回答が届いた。
≪「2018年4月24日付」でいただきました当館常設展示「江戸から東京へ」コーナーへのご質問につき、回答いたします。
当館の常設展示は、公立の博物館としての立場から、とくに学校で使用される教科書の記述に基づき、展示内容を構成しております。江戸無血開城については、高等学校のいずれの教科書でも言及がありますが、このうち7種類の教科書に西郷隆盛と勝海舟の交渉について記載があります。
また、高等学校の副読本として東京都教育委員会が発行している『江戸から東京へ』(平成23年度版)でも、「4月、江戸城総攻撃を前に旧幕臣勝海舟と東征軍参謀西郷隆盛の会談が三田の薩摩藩邸でおこなわれ、江戸城は無血開城された」とあります。
 これらの記述に基づき、当館常設展示では、「西郷隆盛と勝海舟」の交渉によって江戸無血開城が行なわれたという趣旨の解説をしております≫

ということで、江戸東京博物館は教科書通りで展示していることがわかったが、今年のノーベル賞 本庶佑氏が10月2日の記者会見で次のように述べていた。
≪研究者に必要な要素について問われた場面では、「一番重要なのは何かを知りたいという好奇心。教科書に書いてあること、文字になっていることを信じない、疑いを持つこと」と答え、有名な論文雑誌も疑う対象の例外ではないと強調。「自分の目で物を見る、そして納得する。そこまで諦めない」と述べ、多くの後進が研究の道を志すことを期待したい≫

この発言は真理を突いていると思う。歴史博物館は過去の史実を究明し、それを一般人に教える場所としての義務を負っている。ならば、異論が提出された場合、教科書に記載されているから、その通りとした、という回答はいかがなものか。館内に掲載したものに対して、自ら検討し、自信を持つ内容の掲示をすべきでないか。教科書の丸写しであったならば、博物館と学芸員の名が廃るのではないか、そのように思っているが、これについては今後も追及していきたいと思っている。

海舟銅像は、能勢妙見山東京別院(墨田区本所4-6-14)の山門先にもある。海舟が天保2年(1831)九歳の時に犬に急所を咬まれた際に全快を祈願し父小吉がここで水ごりをしたとも伝えられ、勝海舟翁の銅像が建てられている。
胸像の下には次のように刻まれた銘盤がはめ込まれている。
「勝海舟翁之像 勝海舟九才の時大怪我の際妙見大士の御利生により九死に一生を得その後開運出世を祈って大願成就した由縁の妙見堂の開創二百年を迎へ海舟翁の偉徳を永く後世に傳へるため地元有志に仍ってこの胸像が建てられた 昭和49年5月12日」
大怪我を負った海舟が妙見大士の御利生により九死に一生を得たという話は『夢酔独言』(勝小吉・勝部真長 講談社)に書かれている。
≪岡野へ引越してから段々脚気もよくなってきてから、二月めにか、息子が九つの年、御殿から下ったが、本のけいこに三つ目向ふの多羅尾七郎三郎が用人の所へやったが、或日けいこにゆく道にて、病犬に出合てきん玉をくわれた。
其時は、花町の仕事師八五郎といふ者が内に上て、いろいろ世話をして呉た。おれは内に寝ていたが、知らせて来たから、飛んで八五郎が所へいった。
息子は蒲団を積で夫に寄かゝっていたから、前をまくって見たら玉が下りていた故、幸ひ外科の成田といふがきているから、「命は助かるか」と尋ねたら、六ケ敷(むずかしく)いふから、先(まず)息子をひどくしかってやったら、夫で気がしっかりした容子故に、かごがで内へ連てきて、篠田といふ外科を地主が呼で頼んだから、きづ口を縫ったが、医者が振へているから、おれが刀を抜て、枕元に立て置て、りきんだから、息子が少しも泣かなかった故、漸々縫て仕舞たから、容子を聞いたら、「命は今晩にも受合はできぬ」といったから、内中のやつは泣ゐてばかりいる故、思ふさま小言をいって、たゝきちらして、其晩から水をあびて、金比羅(能勢妙見の間違いと思われる)へ毎晩はだか参りをして、祈った。
始終おれがだゐて寝て、外の者には手を付させぬ。毎日毎日あばれちらしていたらば、近所の者が、「今度岡野様へ来た剣術遣ひは、子を犬に喰れて、気が違った」といゝおった位だが、とふとふきづも直り、七十日めに床をはなれた。夫から今になんともな手を付させぬ。毎日毎日あばれちらしていたらば、近所の者が、「今度岡野様へ来た剣術遣ひは、子を犬に喰れて、気が違った」といゝおった位だが、とふとふきづも直り、七十日めに床をはなれた。夫から今になんともなゐから、病人はかんびよや(ママ)うがかんじんだよ≫

『夢酔独言』を書いたのは勝小吉、海舟の父親であるが、ここで勝家について少し補足したい。参照するのは『をんな千一夜 第18話 勝民子「女道楽」勝海舟の正妻 石井妙子』(選択2018年9月号)である。
≪時代劇などでは江戸っ子の旗本として描かれる勝海舟だが、代々の武士というわけでなく、江戸に長いという家でもない。
曽祖父の銀一は越後の貧しい農家に生れた盲人で江戸に出てから、金貸し業を営み成功した。当時は、幕府による一種の福祉政策で盲人に金貸し業を許可していたからである。銀一は金で御家人株を買うと、九男の平蔵を武士にした。さらに平蔵の息子の小吉が旗本「勝」に養子入りし、勝子吉となる。この子吉の長男が勝麟太郎、後の海舟である。ゆえに武士としては三代目で、身分も低い。だが、時代は幕末の混乱期。赤貧洗うが如き生活をしていた勝だが、次第に出世を遂げていく。貧しさの中でも蘭学を学び、オランダ語を習得して、書物を通じて諸外国の事情に明るかったことが幸いしたのだ。
ペリー来航という国難にあたって、幕府は身分を問わず、町人階級に至るまで、意見書を募集したが、この時、勝が提出した海防論が上役たちの目に留まった。長崎の海軍伝習所に派遣され、その後、米国へも渡って、さらに見聞を深めた。勝の先見的な考えは幕府側、官軍側の双方から認められ、戊辰戦争の際には調整役として大役を果たし、維新後も伯爵に取り立てられるのである≫

海舟の墓は、東京都大田区の洗足池の畔に「勝海舟夫妻墓所」(大田区指定史跡)としてあり、そこの掲示板に次の説明がある。
「勝海舟は、官軍のおかれた池上本門寺に赴く途中で休んだ洗足池の景勝を愛し、明治24年(1891)に別邸を構え、「洗足軒」と名づけました(今の大森第六中学校辺り)。明治32年(1899)1月21日に77歳で没した後、遺言により当地に葬られました。同38年(1905)、妻民子が死去し青山墓地に葬らけれましたが、後に改葬され、現在は夫妻の五輪塔の墓石が並んで建っています。当史跡は昭和49年(1974)2月2日に大田区指定文化財となりました」
ここで気づくのは、能勢妙見山東京別院の海舟銅像が昭和49年建立であり、大田区洗足池畔の勝海舟夫妻墓所が大田区指定史跡に認定されたのも同じ昭和49年である。
どちらも同じ昭和49年という背景説明は簡単である。NHKが勝海舟を12作目の大河ドラマとして、子母沢寛の同名小説を原作に取り上げたことと無関係でないだろう。
主人公の勝海舟役は渡哲也でスタートしたが、渡が肋膜炎に倒れて降板、渡が第9回まで務めた後に異例の主役交代となり、第10回以降は松方弘樹が引き継いだので話題となったこともあり、最高視聴率は30.9%、年間平均視聴率は24.2%(関東地区・ビデオリサーチ調べ)という好評を博したドラマであった。

大田区指定史跡説明掲示板で、さらに気づくのは、「妻民子が死去し青山墓地に葬らけれましたが、後に改葬され、現在は夫妻の五輪塔の墓石が並んで建っています」というところ。
普通の感覚では夫婦である以上、最初から夫の隣に葬られるのではないだろうか。どうして民子は最初に青山墓地だったのか。どのような理由で洗足池に葬られるようになったのか。大田区郷土博物館に尋ねると「詳しくは分からないが昭和20年頃に青山から移された」という回答であった。このところを次回でもう少し詳しく続けたい。

 

2020年3月例会について

3月例会は3月18日(水)に小説家の森真沙子先生にご発表いただきます。
   発表者   森真沙子先生 
   テーマ   『柳橋』妖人奇人録 
   日程    2020年3月18日(水)
   時間    18時30分~20時
   会費    1500円
   会場    東京文化会館・中会議室1

森先生には2018年12月例会で「山岡夫妻の明治維新―トウケイ時代に”物の怪”を見るということ」をご発表いただきました。
その後『柳橋物語3』と『柳橋物語4』を出版され、この中で取り上げられた人物について語っていただく予定です。ご期待願います。

タイトルテーマ 『柳橋』妖人奇人録

柳橋を愛し、遊んだ客の中には、教養豊かな風流人が
少なくなかった。柳橋が、武家支配の江戸に育まれた
”江戸の粋”だったからと思われる。
彼らには奇人変人が多く、面白いので、
『柳橋物語』で何人か取り上げてきた。
それを改めてここに紹介してみたい。

「江戸最後の粋人・成島柳北」
「赤羽織の怪人・服部谷斎」
「同じ柳橋芸者を妻とした田之助、圓朝」
「十四歳から柳橋に遊んだ黙阿弥」
「江戸の粋に溺れた酔いどれ・山内容堂」
「柳橋芸者を権妻(妾)とした鉄舟」


Ⅲ. 2020年4月15日(水)例会は、東洋大学・岩下哲典教授から「山岡鉄舟、静岡派遣の経緯 慶応4年3月4日の史料からの分析」について、ご講演いただきます。

 

 

 

2020年2月例会開催結果

2020年2月例会開催結果
 2020年2月例会は、末松正二氏からテーマ「東郷ターン」についてご発表いただきました。 
1. 昨秋、横須賀で戦艦三笠を見学した際、連合艦隊司令長官の東郷平八郎の写真とともに、ロシアのバルチック艦隊との戦いにおいて、東郷が右手をさっと上げて左旋回を命じ、「T字戦法」を採ったという解説がなされていたが、事実は「東郷ターン」ではないかということの解説をしたい。

2. 実際に「T字戦法」を採ったのは黄海海戦である。黄海海戦とは1904年(明治37年)8月10日にロシア艦隊(旅順艦隊)との間で戦われた海戦で、図のように青色が日本艦隊で「T字戦法」を採り、赤色のロシア艦隊を攻撃する図式である。

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しかし、ロシア艦隊は日本艦隊の後部をすり抜けてウラジオストックへ向かったため、日本艦隊は慌てて逆方向にUターンして追いかけ攻撃するが、ロシア艦隊はもと来た方向へ更にUターンし、旅順港へ逃げ帰ってしまった。取り逃がしてしまったわけである。

3. 旅順港に入ったロシア艦隊、日本側はロシアが艦隊修理を行って、元の状態に戻ったと推測した。そこでバルチック艦隊が日本海にやって来る前に、旅順を攻め落としてほしいと陸軍に懇願し、陸軍は第三軍(司令官乃木希典)を派遣し、陸から旅順を攻める作戦を採った。だが、実は旅順艦隊は酷く損傷しており、8月~10月にかけてからの28インチ柘榴要塞砲による観測射撃で、実質全滅していた。つまり、陸からの旅順攻撃は不要であったのに、海軍からの懇願によってなされたロシアのセメントで頑丈に固めた永久要塞への攻撃によって、膨大な犠牲者を出してしまった。また、日本海軍は黄海海戦によって「T字戦法」がうまくいかないということが分かった。

4. バルチック艦隊が日本海に来たのは1905年(明治38年)5月。この間にウラジオストック艦隊は同年8月14日の蔚山沖(うるさんおき)海戦で殲滅されていたので、敵はバルチック艦隊のみとなった。対馬沖に現れたバルチック艦隊、日本側は併行作戦を採ろうと、最初に連携機雷による攻撃をしようとしたが、海が荒れて難しい。そこで艦隊決戦となった。日本艦隊は速力を活かし、併行しつつ敵の前部を押える「くの字作戦」を展開した。当時は大砲の届く距離は8千mといわれ、日本艦隊とバルチック艦隊は真正面に向い進んだが、左図のように日本側は西側(左側)にずれて進んだ。距離が8千mに近づいたところで、ロシア側は発砲。

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5. 日本側の砲術長(安保清種)は、右舷から発砲するのか、左舷から発砲するのか決めてもらわないと準備ができない。東郷を見やりながら砲術長が叫ぶ。「右ですか、左ですか?」東郷は一番高い艦橋に立ち双眼鏡で敵を見つめたまま無言。参謀長の加藤友三郎は距離8千mを確認し「取舵一杯」と叫んだ。これは左側に思いきり舵を切れとの命令である。東郷と加藤は視線を合わせ頷き合いました。これが有名な「東郷ターン」の真実である。日本艦隊は一斉に左転回した。驚いたのはロシア側。天の助けだ、日本側が絶好の攻撃態勢をつくってくれたと猛烈な砲撃を開始するが、波が荒く一割も当たらない。距離6千mで日本側は砲撃開始、訓練の成果もあって5割くらいの確立で命中したと言われている。ロシア側は大混乱、慌ててUターンをしたりして混乱した。

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6. これを見て第二艦隊司令長官の上村彦之亟は、第一艦隊についていかず、左旋回せずに、そのまま進行し(下の左図)、ロシア艦隊をやり過ごしてから左へ旋回し、第一艦隊と第二艦隊とで挟み撃ち(下の右図)となり、日本側の一方的勝利となった。これを後に天才参謀・秋山真之は「乙字戦法」と言った。

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7. 以上の解説は次の二冊を参照しております。
『日本海海戦かく勝てり』戸高一成・半藤一利著 PHP研究所
     
『徹底検証 日清・日露戦争』半藤一利・秦郁彦・原剛・松本健一・
戸高一成著 文藝春秋
          
末松氏のご発表、緻密な構築に基づく詳しい内容で、改めて、日露海戦について理解を深めることができました。

しかし、横須賀の戦艦三笠に書かれている連合艦隊司令長官の東郷平八郎が「T字戦法を採った」という文言表示、多くの人が訪れる場所ですから、正確を期してもらいたいものだと思います。
末松氏の明確かつ分かりやすい図表を用いたご発表、深く感謝申し上げます。

2020年1月25日 (土)

神にならなかった鉄舟・・・その五

鉄舟の弟子である松岡萬(よろず)が、静岡県磐田市大原の水神社境内に松岡神社として祀られており、さらに藤枝市岡部町にも松岡神社が存在していることは前号で述べた。
この二つの地で神様として祀られる要因背景は、磐田市の方が大池の干拓阻止であり、岡部町の方は山林所有権の争いで、いずれも静岡藩庁の水利路程掛兼開墾方頭並であった松岡が住民有利に解決したからであった。
この松岡がその後、鉄舟とともに手賀沼(千葉県北部、利根川水系)の開墾を計画したという事実がある。筆者が主宰する「山岡鉄舟研究会」の2018年11月例会で、北村豊洋氏が次のように発表したので紹介したい。
≪鉄舟は約束の十年で宮内庁を辞した。そして谷中に全生庵を建立し駿河久能寺を再建したのは明治十六年である。廃仏毀釈でお寺が荒れており、お寺の再建、仏教の復活に精を出し仏教中興の恩人と言われた頃である。
この年の十月に、鉄舟は石坂周造、松岡萬と相談して、僧侶ら十五名と「手賀沼開拓願い」を千葉県に出している。驚きである。鉄舟の音頭で「教田院」を設立して手賀沼の新田開発を進め、米二万石を目論む利益を広く庶民に還元すると伴に、僧侶の学資に充てるという計画であった。
「教田院」とは耳慣れない言葉であるが、福を生じる田の意味で、三宝などをさす「福田(ふくでん)」という語が仏教用語としてあり、廃仏希釈後の仏教復興の為の社会施設「福田会」というのが明治十二年にできているので、それをヒントの名前かもしれないが推測の域をでない。(三谷和夫氏説)いずれにしろ、この地域にかつてなかった新しい開発の波が来たのである。
「手賀沼開墾願い」が千葉県令に提出されたと同じ「官有地拝借開墾願い(成田市立図書館蔵)」に発起人含め十五名の署名があり、三谷和夫氏の『明治前期・手賀沼開墾の二潮流(我孫子市史研究六)』に詳しく書かれている。
明治十六年十月二十日の郵便報知新聞に次の記事がある。
「手賀沼を埋め、田畑となさんとの計は、去る享保年度に起こり、田沼意次がこれに着手し、得るところの田五百町歩に過ぎずしてやむ。維新後、華族の中にその業を継がんと実施に臨み、測量に着手せし者多かりしが、沼の沿岸三十九ヵ村の漁民が、その産を失わんことを憂い、大いに不服を唱え、すでに竹やりむしろ旗の暴挙にも及ばんとする模様ありしをもって、企画皆中止となりしが、今度、山岡鉄舟氏が更にその開墾を発起し、仏教拡張の為、教田院を設けんとの企画を石坂周造氏が賛成し、去る七月中、石坂氏がまずその地に向かい、沿岸の各村吏を招集して説き、ついに三十九ヵ村調印して承諾の旨を表したるより、八宗の僧侶と結合し、かつ華族衆を同盟に加え……、同県下の不二講中より惣代をもって、埋め立て人夫十一万二千二百人の見積もりをもって、人足を無賃にて寄付する旨を、石坂氏まで申し出しという」
 開拓に反対していた地元の人達の賛同を得ている。開拓の人夫まで無償で出すという。これはいったいどういうことか。

実はこの頃、明治維新功労者の叙勲運動が盛んになり、猫も杓子も自薦に励んでいた。しかし鉄舟は勲章を二回も辞退している。さらに、勅使として鉄舟の自宅まで勲章を持参してきた井上馨に対して啖呵を切って帰らせた事も評論新聞はかき立てた。だから民衆はよく知っているのだ。俄か華族と鉄舟とは違うということを。明治十五年六月二十七日の「雪の世話新聞」記事にある。
 「この頃聞くところによれば、奏任官以上にして多年奉職の人でさえあれば、別に著名なる勲功なきも、その職務勉励の簾にて、相当の勲章を授与さるるや‥…、山岡宮内小輔は、年来の奉職中涓(けん)滴(てき)の勲功もなきに、かかる貴き物を賜る聖恩は感ずるにも余りあるが、これをおぶるは大いに恥ずる所あれば、右勲章は返納仕りたしとて辞退致されし趣きに聞く」
 俄か華族の言う事は信用しないが、土木のプロでもない鉄舟の提案する「手賀沼開拓願い」なら信用する民衆の心理を、十月二十日の郵便報知新聞記事は伝えている。明治十四年の政変(北海道開拓払い下げ問題等)の二年後のことである、住民は分かっているのだ。無私無欲がなせる説得力である。まさに鉄舟の人間力であろう。
しかし、「手賀沼開拓」は「水を制してこそできる事業」であり、明治初期の技術や当時の人力では無理である。進展はしなかった。鉄舟とて測量計測して始めからわかっていたのではなかろうか。手賀沼は江戸から一番近い湖沼として、昔から江戸商人達の新田開発意欲を誘っては失敗していた。だから今回も、名も知れぬ「山師」達の身勝手な参入を防ぎ「手賀沼」を守る為に、そして下総がこれ以上「東京の飛び地」にならないように、あえて前に立つ行為に出たのではないか。筆者はそう推察する。
庶民ファーストなのである。庶民に寄り添い真剣で骨のある姿が、偉ぶる事なく自然体で庶民に伝わるから、わざわざ自慢してホラを吹く必要はない。同じ江戸っ子でも勝海舟と違うところである≫
この北村氏の発表にあるように松岡は下総でも活躍しているので、松岡が神様として祀られていることに異論はないが、鉄舟は何故に「神」とならず、鉄舟の銅像も建立されていないのであろうか。

 幕末三舟と称されるのは勝海舟と、山岡鉄舟、高橋泥舟であるが、この中で銅像が広く公共の地で建立されているのは海舟のみである。(鉄舟銅像は静岡市の鉄舟寺に松本検氏が個人で贈呈されたものがある)
 勝海舟の銅像は、東京都墨田区区役所に隣接する、区役所前うるおい広場の緑地内に、文政6年(1823)生まれの海舟、生誕180年ということで平成15年(2003)に建立された。
 墨田区のホームページに以下のように書かれている。
≪勝海舟(通称・麟太郎、名は義邦、のち安房、安芳)は、文政6年(1823)1月30日、江戸本所亀沢町(両国4丁目)で、父小吉(左衛門太郎惟寅)の実家男谷邸に生まれ、明治32年(1899)1月19日(発喪は21日)、赤坂の氷川邸で逝去されました。
  勝海舟は幕末と明治の激動期に、世界の中の日本の進路を洞察し、卓越した見識と献身的行動で海国日本の基礎を築き、多くの人材を育成しました。西郷隆盛との会談によって江戸城の無血開城をとりきめた海舟は、江戸を戦禍から救い、今日の東京都発展と近代日本の平和的軌道を敷設した英雄であります。
  この海舟像は、「勝海舟の銅像を建てる会」から墨田区に寄贈されたものであり、ここにその活動にご協力を賜った多くの方々に感謝するとともに、海舟の功績を顕彰して、人びとの夢と勇気、活力と実践の発信源となれば、幸甚と存じます。
  海舟生誕180年
  平成15年(2003)7月21日(海の日) 墨田区長 山﨑昇≫
筆者が2016年7月18日に開催された「勝海舟フォーラム」に出席した際、墨田区長は挨拶で≪墨田区で3人の世界的偉人が誕生している。葛飾北斎、王貞治、それと勝海舟である≫と述べた。
この発言背景には、上記ホームページにある「今日の東京都発展と近代日本の平和的軌道を敷設した英雄」として海舟を高く評価認識しているからであるが、しかし、 海舟の評価が高いのは、後世の歴史家がつくった虚像によるものではないだろうか、と山岡鉄舟研究会ではかねがね指摘している。

東京都が運営する江戸東京博物館は、JR総武線の両国駅近くにあり、徳川家康が江戸に入府以来約400年間を中心に、江戸東京の歴史と文化を実物資料や復元模型等を用いて紹介し、常設展として「江戸から東京へ」の中で「江戸無血開城をめぐるおもな動き」を解説しているが、そこでは鉄舟の役割が、海舟から「西郷への手紙を託され、駿府にて会談、海舟の手紙を渡す」とのみ書かれている。これでは鉄舟は単なるメッセンジャーに過ぎないわけで、これが江戸東京博物館の見解とわかる。
そこで2018年4月24日に江戸東京博物館に以下の問い合わせを行った。この件は2016年10月にも同館の学芸員に対し、同様の指摘をしたのだが「今後の検討課題」という回答であったので、改めて、水野靖夫氏の著書『勝海舟の罠』(毎日ワンズ)が出版されたのを機に、江戸東京博物館を管轄する東京都生活文化局を通じて尋ねてみた。
≪江戸無血開城についてお尋ね
1. 東京都江戸東京博物館で常設展示されている「江戸無血開城」に関わる解説では、慶応4年3月13日、14日の「西郷隆盛と勝海舟」会談で「江戸無血開城」が決定されたと掲示され、映像説明でもなされています。
2. 山岡鉄舟研究会・主任研究員である水野靖夫氏出版の『勝海舟の罠・第3章』では、「江戸無血開城」は慶応4年3月9日の「西郷隆盛と山岡鉄舟」駿府談判で実質的になされたと、各史料を検討した結果判断しており、当会でも同様に認識しております。
3. 公共博物館である東京都江戸東京博物館のお立場から、「江戸無血開城」は「上記1であるのか、または2であるのか」についてお尋ねを致したく、よろしくご検討の程お願いいたします≫

これに対して2018年5月31日に以下の回答が届いた。
≪「2018年4月24日付」でいただきました当館常設展示「江戸から東京へ」コーナーへのご質問につき、回答いたします。
当館の常設展示は、公立の博物館としての立場から、とくに学校で使用される教科書の記述に基づき、展示内容を構成しております。江戸無血開城については、高等学校のいずれの教科書でも言及がありますが、このうち7種類の教科書に西郷隆盛と勝海舟の交渉について記載があります。
また、高等学校の副読本として東京都教育委員会が発行している『江戸から東京へ』(平成23年度版)でも、「4月、江戸城総攻撃を前に旧幕臣勝海舟と東征軍参謀西郷隆盛の会談が三田の薩摩藩邸でおこなわれ、江戸城は無血開城された」とあります。
 これらの記述に基づき、当館常設展示では、「西郷隆盛と勝海舟」の交渉によって江戸無血開城が行なわれたという趣旨の解説をしております≫
ということで、江戸東京博物館は教科書通りで展示していることがわかったが、今年のノーベル賞 本庶佑氏が10月2日の記者会見で次のように述べていた。
≪研究者に必要な要素について問われた場面では、「一番重要なのは何かを知りたいという好奇心。教科書に書いてあること、文字になっていることを信じない、疑いを持つこと」と答え、有名な論文雑誌も疑う対象の例外ではないと強調。「自分の目で物を見る、そして納得する。そこまで諦めない」と述べ、多くの後進が研究の道を志すことを期待したい≫
この発言は真理を突いていると思う。歴史博物館は過去の史実を究明し、それを一般人に教える場所としての義務を負っている。ならば、異論が提出された場合、教科書に記載されているから、その通りとした、という回答はいかがなものか。館内に掲載したものに対して、自ら検討し、自信を持つ内容の掲示をすべきでないか。教科書の丸写しであったならば、博物館と学芸員の名が廃るのではないか、そのように思っているが、これについては今後も追及していきたいと思っている。

海舟銅像は、能勢妙見山東京別院(墨田区本所4-6-14)の山門先にもある。海舟が天保2年(1831)九歳の時に犬に急所を咬まれた際に全快を祈願し父小吉がここで水ごりをしたとも伝えられ、勝海舟翁の銅像が建てられている。
胸像の下には次のように刻まれた銘盤がはめ込まれている。
「勝海舟翁之像 勝海舟九才の時大怪我の際妙見大士の御利生により九死に一生を得その後開運出世を祈って大願成就した由縁の妙見堂の開創二百年を迎へ海舟翁の偉徳を永く後世に傳へるため地元有志に仍ってこの胸像が建てられた 昭和49年5月12日」
大怪我を負った海舟が妙見大士の御利生により九死に一生を得たという話は『夢酔独言』(勝小吉・勝部真長 講談社)に書かれている。
≪岡野へ引越してから段々脚気もよくなってきてから、二月めにか、息子が九つの年、御殿から下ったが、本のけいこに三つ目向ふの多羅尾七郎三郎が用人の所へやったが、或日けいこにゆく道にて、病犬に出合てきん玉をくわれた。
其時は、花町の仕事師八五郎といふ者が内に上て、いろいろ世話をして呉た。おれは内に寝ていたが、知らせて来たから、飛んで八五郎が所へいった。
息子は蒲団を積で夫に寄かゝっていたから、前をまくって見たら玉が下りていた故、幸ひ外科の成田といふがきているから、「命は助かるか」と尋ねたら、六(むず)ケ(か)敷(しく)いふから、先(まず)息子をひどくしかってやったら、夫で気がしっかりした容子故に、かごがで内へ連てきて、篠田といふ外科を地主が呼で頼んだから、きづ口を縫ったが、医者が振へているから、おれが刀を抜て、枕元に立て置て、りきんだから、息子が少しも泣かなかった故、漸々縫て仕舞たから、容子を聞いたら、「命は今晩にも受合はできぬ」といったから、内中のやつは泣ゐてばかりいる故、思ふさま小言をいって、たゝきちらして、其晩から水をあびて、金比羅(能勢妙見の間違いと思われる)へ毎晩はだか参りをして、祈った。
始終おれがだゐて寝て、外の者には手を付させぬ。毎日毎日あばれちらしていたらば、近所の者が、「今度岡野様へ来た剣術遣ひは、子を犬に喰れて、気が違った」といゝおった位だが、とふとふきづも直り、七十日めに床をはなれた。夫から今になんともな手を付させぬ。毎日毎日あばれちらしていたらば、近所の者が、「今度岡野様へ来た剣術遣ひは、子を犬に喰れて、気が違った」といゝおった位だが、とふとふきづも直り、七十日めに床をはなれた。夫から今になんともなゐから、病人はかんびよや(ママ)うがかんじんだよ≫
『夢酔独言』を書いたのは勝小吉、海舟の父親であるが、ここで勝家について少し補足したい。参照するのは『をんな千一夜 第18話 勝民子「女道楽」勝海舟の正妻 石井妙子』(選択2018年9月号)である。
≪時代劇などでは江戸っ子の旗本として描かれる勝海舟だが、代々の武士というわけでなく、江戸に長いという家でもない。
曽祖父の銀一は越後の貧しい農家に生れた盲人で江戸に出てから、金貸し業を営み成功した。当時は、幕府による一種の福祉政策で盲人に金貸し業を許可していたからである。銀一は金で御家人株を買うと、九男の平蔵を武士にした。さらに平蔵の息子の小吉が旗本「勝」に養子入りし、勝子吉となる。この子吉の長男が勝麟太郎、後の海舟である。ゆえに武士としては三代目で、身分も低い。だが、時代は幕末の混乱期。赤貧洗うが如き生活をしていた勝だが、次第に出世を遂げていく。貧しさの中でも蘭学を学び、オランダ語を習得して、書物を通じて諸外国の事情に明るかったことが幸いしたのだ。
ペリー来航という国難にあたって、幕府は身分を問わず、町人階級に至るまで、意見書を募集したが、この時、勝が提出した海防論が上役たちの目に留まった。長崎の海軍伝習所に派遣され、その後、米国へも渡って、さらに見聞を深めた。勝の先見的な考えは幕府側、官軍側の双方から認められ、戊辰戦争の際には調整役として大役を果たし、維新後も伯爵に取り立てられるのである≫

海舟の墓は、東京都大田区の洗足池の畔に「勝海舟夫妻墓所」(大田区指定史跡)としてあり、そこの掲示板に次の説明がある。
「勝海舟は、官軍のおかれた池上本門寺に赴く途中で休んだ洗足池の景勝を愛し、明治24年(1891)に別邸を構え、「洗足軒」と名づけました(今の大森第六中学校辺り)。明治32年(1899)1月21日に77歳で没した後、遺言により当地に葬られました。同38年(1905)、妻民子が死去し青山墓地に葬らけれましたが、後に改葬され、現在は夫妻の五輪塔の墓石が並んで建っています。当史跡は昭和49年(1974)2月2日に大田区指定文化財となりました」
ここで気づくのは、能勢妙見山東京別院の海舟銅像が昭和49年建立であり、大田区洗足池畔の勝海舟夫妻墓所が大田区指定史跡に認定されたのも同じ昭和49年である。
どちらも同じ昭和49年という背景説明は簡単である。NHKが勝海舟を12作目の大河ドラマとして、子母沢寛の同名小説を原作に取り上げたことと無関係でないだろう。
主人公の勝海舟役は渡哲也でスタートしたが、渡が肋膜炎に倒れて降板、渡が第9回まで務めた後に異例の主役交代となり、第10回以降は松方弘樹が引き継いだので話題となったこともあり、最高視聴率は30.9%、年間平均視聴率は24.2%(関東地区・ビデオリサーチ調べ)という好評を博したドラマであった。
大田区指定史跡説明掲示板で、さらに気づくのは、「妻民子が死去し青山墓地に葬らけれましたが、後に改葬され、現在は夫妻の五輪塔の墓石が並んで建っています」というところ。
普通の感覚では夫婦である以上、最初から夫の隣に葬られるのではないだろうか。どうして民子は最初に青山墓地だったのか。どのような理由で洗足池に葬られるようになったのか。大田区郷土博物館に尋ねると「詳しくは分からないが昭和20年頃に青山から移された」という回答であった。このところを次回でもう少し詳しく続けたい。

 

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